第1章_04 北方の火蓋
吹雪混じりの風が、戦場をうねるように駆け抜ける。
ここは、帝国とノースランド王国が国境を挟んで睨み合う北の果て――極寒の北域戦線。地図上ではただの一本の線にすぎない。だがその細い線の上には、雪と血と、数え切れぬ死が折り重なっていた。
三か月。
それだけの時間があれば、国家は充分すぎるほどの戦火を交わせる。人は死に、街は燃え、そして命は価値をなくしていく。
俺が――リアの部屋を後にしてから、わずか七日後。
この地に立っていた。
“罪人部隊”の一員として。
罪状は問われなかった。問われたのは、死ぬ覚悟だけ。
吹きさらしの荒野に、まともな遮蔽もない。
与えられたのは、錆びついた剣と、毛羽だった外套。それだけ。寒さは骨まで食い込み、指先の感覚すら奪われていく。
そんな中で、俺は震える手で一枚の紙を握っていた。
軍司令部から届いた、最新の作戦命令。
《敵軍、北西丘陵地帯にて陣地構築中。夜襲を要請。罪人部隊は当該陣地への攪乱任に従事せよ》
紙は風にあおられて揺れていた。
だが、それ以上に揺れていたのは――俺の内心だった。
(……たった一週間前まで、俺は暖かい部屋で、本を読んでいたのに)
思い出すのは、あの静かな灯、リアの声、そして……「恩赦」という、柔らかい響きの言葉。
だが今、ここには何もない。
ぬくもりも希望も、どこにもない。
あるのは、死の順番を待つような沈黙と、兵士たちの無言の視線だけ。
地獄に逆戻りした、現実。
「……もうすぐだな、作戦の時間」
誰ともなく呟いた声に、焚き火を囲む男たちが静かにうなずいた。
火の揺らぎが、焦げた顔に影を作る。
その瞳には、怯えと――それ以上に、何かを信じたいというわずかな光が宿っていた。
「いいか、お前ら……とにかく生き延びろ。命さえあれば、罪は消える。やり直せるって、そう言ってたよな……?」
「……ああ。こんな地獄でも、終わりさえすれば、俺たちは“自由”だ。お前も、そう思うだろ?」
答えなかった。
そのかわり、作戦命令の紙をもう一度見下ろす。
(攪乱任務――敵陣に近づき相手の主力を前線に出すこと。それだけで“戦果”になる。
……だが、戻れる保証なんて、どこにもない)
そのとき、遠くからラッパの音が鳴った。
低く、鋭く、冬空に響く――出発の合図。
「……日が落ちたな」
誰かの呟き。
空はすでに、墨を流したような闇に染まっていた。白い雪の上に、俺たちの影が長く伸びる。
やがて、粗末なテントから一人の士官が姿を現す。
若く、頼りない足取り。帝国の軍服は着ているが、勲章も階級章もない。
明らかに――“余った”人材だ。
「お、おい……静かにしろ!」
震える声と咳払い。
士官は手元の巻物をぎこちなく開き、読み上げる。
「これより……第五罪人中隊は、北西丘陵地帯への出発を命ずる! 目標は、敵陣の主力をおびき出すことと、および撹乱であり……!」
風が言葉をさらっていく。
誰もがもう、聞くまでもなかった。
――“死地”へ向かう、それだけの命令だ。
俺は黙って立ち上がった。
作戦命令の紙をポケットにねじ込み、最後にもう一度、北の空を仰ぐ。
(……生きて帰る。そのうえで、問いの答えを見つける)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと歩き出す。
闇の向こうには敵陣。
そのさらに先に、“まだ見ぬ答え”があるのだと信じながら――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
夜の帳が完全に落ちた頃、罪人部隊は静かに丘陵地を進み始めた。
雪を踏みしめる音だけが、息を潜めたように冷え込む空気に微かに響いている。
俺は沈黙の行軍の中で、周囲の地形を脳内で地図のように組み立てていた。
けれど、どうにも――胸騒ぎが収まらなかった。
(……何かがおかしい)
俺たちは、あくまで囮部隊だ。
それなのに、どうしてこんなにも容易く敵陣の構築地点に近づけている?
警戒されていて然るべき距離だ。
なのに……まるでこちらの行動が最初から読まれていたみたいに。
「……まさか、俺たちの動きが筒抜けだったのか……?」
その瞬間だった。
前方から、誰かの叫び声が吹雪を裂いた。
「――光だッ!」
続いて、銃声と弓矢が飛び交う。
冷たい夜空を切り裂く銃弾の音が、断続的に耳を打った。
咄嗟に身を伏せる。だが、雪の上は容赦なく冷たい。体の芯まで熱を奪われるような感覚が走った。
唸りをあげる矢が風を切り、仲間たちの間を縫うように飛び交っていく。
俺は声を張り上げる。
「散れ! 散開するんだッ!」
部隊はばらけていく。
けれど――敵の射線は、想像以上に正確だった。
雪原を駆け抜け、なんとか崖の斜面へと滑り込もうとした、その瞬間――
足元が、音もなく崩れた。
「――っ!」
雪に隠れていた氷の層。
滑った足が空を切り、俺の体は斜面を転がり落ちていく。
氷と雪が顔を打ち、視界が白く砕けた。
重い装備が体を引きずり、何度も地面に叩きつけられる。
ようやく、斜面の下で体が止まった時には――息も詰まり、全身が痛みで軋んでいた。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
俺の目に映ったのは、さらなる――地獄だった。
あたり一面に、他の罪人部隊の遺体が転がっていた。
血と雪に塗れた死体。
斬られ、撃たれ、踏み潰され、ある者は原形すら留めていない。
冷たい地面に転がる仲間たち。
静寂の中で、それらが意味するのは“死”ただ一つだった。
その中心に、ノースランド王国の兵士たちが数名。
血で汚れた装備のまま、立ち尽くしていた。
そのうちの一人が、こちらに目を向ける。
気怠そうに剣を肩に乗せ、声をかけてきた。
「ああ……まだ生き残りがいたのか。……ま、ちゃっちゃと片付けるか」
その声は、雪よりも――冷たかった。
俺は血まみれの雪を踏みしめ、必死に立ち上がった。
敵の兵士は若い。十代後半か、二十そこそこだろう。
だが――その目には、迷いがなかった。
俺は雪に埋もれかけた剣を拾い上げる。構えようとしたが、手が震えて定まらない。
必死で振りかざした剣――その軌道は、あっさりと見切られる。
「甘ぇな」
敵の剣が俺の手元を叩き、武器が宙を舞った。
「ぐっ……!」
手が痺れ、力が抜ける。
剣は雪に埋もれ、もう――戻ってこない。
「終わりだな」
短く呟いた敵兵は、腰の短剣を抜いた。
避けようとした。だが、遅かった。
鋭い刃が、腹を――深く穿った。
「……あ、あぁ……」
冷たい痛みが、骨をも貫くように突き抜ける。
膝が崩れ、俺は雪の上に倒れた。
視界が滲む。
音も、色も、どんどん遠のいていく。
「少しは楽しませてくれるかと思ったが……所詮はこいつらと同じ雑魚か」
そのときだった。
遠く、風に乗って――声が、届いた。
「――その男だけは、絶対に……守り抜けッ!」
雷のように響いた声。
凍りついた世界に、風が――流れ込んだ。
人が地を蹴る音。
鋼が風を裂く音。
視界に閃いた一筋の光が、確かに俺を――地獄から引き戻した。
吹きすさぶ雪の帳の向こうから、白い装束に身を包んだ一団が現れた。
風に逆らい、重たい雪を踏みしめながら進む彼らの先頭に立っていたのは――リアだった。
「リア……?」
倒れ伏したままの俺が、霞む視界の中でその姿を捉え、かすれた声で名を呼ぶ。
腹には深く刺さった短剣。血が雪を紅に染め、意識はもう指の隙間からこぼれ落ちるようだった。
「誰だ……増援か!? くそっ、帝国の兵がもう……!」
ノースランドの兵たちがざわつく。
だが――次の瞬間。
「その者に指一本でも触れたら、命はないと思いなさい!」
リアの声が、吹雪を裂いて響き渡った。
抜刀と同時に駆け出すその姿は、まるで白銀の刃。
積もった雪に足を取られながらも、迷いなど一切なかった。
続く白装束の兵たちが一斉に飛び出し、敵陣へと殺到する。
刃が交錯し、悲鳴と金属音が響き渡る――そして、ノースランドの兵たちは次々と倒れていった。
短剣を突き立てた男が振り返ったときには、すでに遅かった。
リアの剣が二閃し、その肩と腿を斬り裂く。男は呻き声を上げて雪に崩れ落ちた。
敵が全て倒れ伏すのを確認したリアは、すぐさま顔を上げ、鋭く命じる。
「この者をすぐに治療して! 止血を。簡易ソリの用意も! 整い次第、この地点から全員撤退!」
「はっ!」
即座に動く兵たち。
医療兵が駆け寄り、傷口を確認すると包帯と止血剤を手に取り応急処置を始めた。
雪の中、俺の体は薄く震えながらも、かすかに意識を繋ぎとめていた。
見回せば、帝国装備の兵士たちが、リアの指示に忠実に動いている。
(……なんだこれ……リアが、軍を率いてる?)
目の前の光景が、現実とは思えなかった。
彼女はただの貴族令嬢じゃなかった。もっと深い“何か”を背負っている――確かな“権限”を持つ者。
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「……リア……お前……一体、何者なんだ……」
リアは静かに俺のそばに膝をつき、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「私は、“あなたを助ける者”。……それで、十分じゃない?」
その声には、虚勢も飾りもなかった。
ただ、揺るぎない意志だけがあった。
俺は、微かに目を細め、小さく息を漏らす。
「……まったく……お前ってやつは……」
呆れとも、安心ともつかない感情がにじんでいた。
そのとき、ソリを運ぶ音が聞こえてくる。
まぶたが重い。
視界がぼやけていく。
雪、リアの顔、そして空。それらすべてが、白い光に溶けていった。
頬を伝うものが一筋。
血か、涙か、それすらももう、わからない。
「……大丈夫?」
リアの声が、どこか遠くに響いた。
(……続き……読んでおけば……よかったな……)
そんな思考だけが、ふわりと浮かび、そして静かに――闇に溶けていった。
俺の意識は、そこで途切れた。