第1章_03 無蓋の鉄便
鉄の扉が、ぎぃ、と不気味な音を立てて開いた。
吹き込んできたのは、冷たい風と――どこまでも重い、前線行きの空気。
「処理対象」と呼ばれた俺は、他の連中と一緒に無蓋の軍用列車に押し込まれた。
最前線行きの片道切符。これが、帝国式の“処罰”ってやつだ。
暗く、冷えきった貨物車両。
煤けた壁、土埃が薄く積もった床。
並んだ兵士たちは、機械みたいに無表情で、俺たちに目を向けようともしない。
彼らにとって、俺たちは“人”じゃない。ただの「兵の補填物」、それだけだ。
――ゴン。
列車が鈍い衝撃とともに動き出す。
鉄の車輪がレールを叩く音が、じりじりと身体に響いてくる。
列車は街を背に、黙って戦場へと進んでいった。
俺は壁にもたれ、目を閉じる。けれど、記憶は容赦なくよみがえる。
頭に響いた衝撃。
冷たい机の感触。
ぬるりと流れた血が、資料のページを赤く染めていく――。
俺が罰せられた理由。それは、ただ「記した」だけだった。
記録を、知識を、世界に遺そうとしただけなのに。
(……知ることの意味は?記録を残す価値は?)
いつか親に言われた言葉が、ノイズのように頭を駆け回る。
うるさい。意味がわからない。
だけど、問いだけは胸の奥で疼き続けていた。
列車は鉄路を軋ませながら進む。
この荷台は、音も光もほとんど届かない、ただの錆びた箱のようだ。
名前も、罪状も違う十数人の男たちが、同じ色の服に身を包み、黙って揺られている。
誰も口を開かない。……もう、言葉を出す力も残っていないのかもしれない。
沈黙を破ったのは、荷台の奥で胡坐をかいていた髭面の中年男だった。
「……おい、お前ら。耳の穴かっぽじって、よく聞けよ」
ガラガラとした荒れた声。でも、妙な説得力があった。
何人かが、ぼんやりと彼の方を見る。
「前線ってのはな、武器の使い方なんざ知らなくても死ねる場所だ。
立ってりゃ敵が殺してくれるし、逃げりゃ味方が撃ってくれる。そういう場所だ」
誰かが鼻で笑った。だが、男は続ける。
「でもな、逆に言やあ、どんなクズでも活躍できる場所ってことだ。
腕一本と運さえありゃ、名前くらい残せる。……英雄にだってなれる。
――あの勇者アルディスみてぇによ」
一瞬、車内の空気がピンと張り詰めた。
そのとき、若い兵士が顔を真っ赤にして叫んだ。
「ふざけるな!! 帝国の敵――ノースランドの英雄の名を口にするな!」
次の瞬間、男の肩を掴み、拳を容赦なく振り下ろす。
「うぐっ……!」
男が呻いて倒れ込むと、車内の空気が一層凍りついた。
兵士は唾を吐くように言い捨てる。
「帝国に忠誠を誓う者が、敵の英雄の名を語る資格などない!」
そして怒りのままに、倒れた男の顔へと拳を叩き込む。
「お前らは囮に使われるんだよ!」
血が弾け、唇を伝って地に落ちる。
「つまり、てめえら罪人は――死ぬことを前提にした“作戦の道具”だ」
荷台の空気が、ずしりと重く沈んでいく。
「お似合いだろ?犯罪者にふさわしい、最期の使い道さ」
中年男はうめきながら、必死に顔を上げ、周囲を見渡した。
そして――俺と目が合う。
声にはなっていないが、口の動きでわかった。『助けてくれ』
俺は、目を逸らした。
知らない。関係ない。巻き込むな。
その瞬間、中年男の瞳から色が失われた。
これでいい。……彼を助けられるほど、俺は強くない。
俺が正しい。きっと正しい。いつか――この世界の方が、俺に追いつくはずだ。
俺の記録も、知識も、いつかきっと誰かが評価してくれる日が来る――
だけど、その男が殴られる姿は、校長室で机に叩きつけられた自分と、重なって見えた。
「………………」
(言うな、何も言うな。関わらない、それが正解だ)
それでも、俺の口が震えながら勝手に動いた。
「……やめろよ……それも“任務”に入ってるのか?」
兵士が、じろりと俺を睨みつけた。だが、鼻で笑い捨てる。
「お前もすぐ、こうなる。黙ってろ」
冷たい声。冷たい目。
その瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
……それでも、まだ、心の奥に残っていた。
この手を伸ばす意思が。抗う意志が。
俺の声が、かすかに震えながらも車両に響いた。
(言うな、言うな……)
「……囮に使うっていうなら、今ここで傷つける意味なんて、どこにあるんだよ……!」
その瞬間、目の前の兵士がギラリと睨みつけ、吐き捨てるように言い放つ。
「お前らみたいな馬鹿が意味を問うな。本当に愚かで、知識もない。だから犯罪者になるんだ。」
その言葉に、俺の口が勝手に動いていた。
(やめろ、やめろ……言うな、言うな)
「――だから、お前はこんな護送任務しか任されなかったんだな」
冷たく、静かに返す。
「愚かで、知識もない奴でも……せいぜい、罪人の見張りくらいはできるってことか」
その一言で、空気がピシリと凍った。
兵士の目が怒りに染まり、拳がわずかに震える。
怒声が飛ぶより先に、俺の腕が力任せに引っ張られる。
「こいつは隔離だ。別の車両で“反省”させてやる」
仲間の囚人たちが言葉を失う中、俺は荒く扱われながら車両を引きずられていく。
扉が開かれ、列車の隙間から冷え切った風が吹き込んだ。
鉄の匂いと、夜の静けさが、容赦なく肌を刺す。
押し込まれた先は、貨物用の無人車両。
照明すらまともにない金属の空間。壁は無機質で、冷たく、音を吸い込むようだった。
その沈黙を、拳が破った。
振り下ろされた拳が頬を裂き、膝が脇腹にめり込む。
背が床に叩きつけられ、視界がぶれる。
「馬鹿にしやがって……このクソガキが……!」
殴りつける兵士は、悔しさと怒りの入り混じった顔をしていた。
逃げ場なんてない。助けなんて来るはずもない。
「俺は愚かじゃない……知識だってある……頭も使ってる……!」
口の中に広がる鉄の味。
熱く濁った血が、喉奥からせり上がってきた。
(……死ぬのかな、俺)
「――訂正しろ」
低く、冷えた声が耳元に落ちてくる。
どうせ死ぬなら――言ってやる。
「……知識があるとか偉そうにほざくなよ。お前みたいに賢ぶってる奴が一番ムカつくんだよ……」
次の瞬間、鈍い衝撃が肩に落ち、体がまた床へと崩れ落ちた。
(体が動かねぇ……)
「――死ねよ」
憎悪むき出しの視線。
高く振り上げられた拳には、命令も理性もなかった。
ただの暴力。それだけが、今、俺に向かって落ちようとしていた――
「やめなさい!!」
甲高く、しかしよく通る凛とした声が車両に響いた。
その瞬間、時間が止まったかのように、拳が宙で静止する。
扉が開かれる。
冷たい風が吹き込む中、ひとりの少女が姿を現した。
白い外套に金の飾緒。
瞳には鋼の意志を宿した少女――
「この者は、私が預かるわ」
その声は、揺るぎなく真っすぐだった。
「いかなる理由があれど、無抵抗の者を一方的に傷つけるのは軍規違反。……あなたたちも、それくらい理解しているでしょう?」
沈黙。兵士たちは言葉を失ったまま彼女を睨む。
「何様のつもりだ……女のくせに、帝国軍人様に命令口調とはな……!」
苛立ちに我を忘れた男が吠え、拳を振り上げる――
が、その瞬間、彼女は自ら懐へと踏み込んだ。
拳が交差する直前、彼女は体をひらりと旋回させる。
鋭く、精密な拳が、兵士の頬を正確に打ち抜いた。
「……っぐぅ!」
男は声を上げ、金属の壁へと激しく叩きつけられた。
彼女は一歩も退かず、毅然と彼を見据えた。
「“女”だからじゃないわ。私は、帝国の責任を背負う者として――この拳をふるったの」
その瞳に宿るのは、揺るがぬ信念だった。
「力には、責任が伴う。帝国を名乗るなら、その重さから逃げてはならないわ」
彼女の言葉は、寒気を吹き飛ばすように、車両に響いた。
「――去りなさい」
静かでありながら、命令としての重みを帯びた声。
だが、兵士たちは動かない。怒りと困惑の視線が彼女に突き刺さる。
少女は一歩、前に出る。
そして――冷たく言い放った。
「それでもなお、命令に従わぬというのなら。
……あなたたちの“流儀”に従って、こちらも力で示すまで」
金色の髪が風に舞う。
彼女の瞳は、剣よりも鋭かった――。
車両に、再び静寂が降りた。
誰一人、兵士たちは返事をしなかった。いや――できなかった。
拳を握りしめたまま硬直していた若い兵士は、しばし彼女の瞳を睨みつけていたが、やがてその視線を逸らすと、ひとつ舌打ちを漏らした。
「……チッ、やってらんねぇ」
苛立ち混じりに吐き捨て、荒々しく背を向ける。重たい扉を乱暴に押し開けると、音を立てて向こう側へと消えていった。
他の兵士たちも、互いに視線を交わすだけで何も言わず、その後に続く。
金属扉が閉まり、足音だけが遠ざかっていく。
そして、残されたのは――
血と静寂と、たったひとりの少女。
その少女は、ゆっくりと深く息をつくと、こちらへ歩み寄ってきた。
「……もう、大丈夫よ」
今度こそ、その声は柔らかく、安心を与えるように俺の耳に届いた。
俺は、わずかに顔を上げる。まだ視界はにじみ、瞳の奥が焼けるように痛い。それでも――彼女の姿は、はっきりと見えた。
白い外套。真っすぐな瞳。金の髪が風に揺れる。
その光景が、まるで幻のようで、俺は震える声を絞り出した。
「……あんたは……?」
問いかけに、少女は一瞬だけ視線を遠くに泳がせ、言葉を探すように唇を動かした。
そして――
「……リア。私は、リアよ」
名乗ったその声には、どこかぎこちない響きがあった。それが何かの仮面のように感じられたけれど、今の俺にはそれを深く追及する余裕なんてない。ただ――
「……リア。助けてくれて、ありがとう」
そう言うと、リアはふるふると首を横に振った。
「お礼なんていらないわ。私は、ただ……やるべきことをしただけ」
その言葉の後、列車の外では、風がまた一段と強く吹きつけていた。
その音の中、ふたりの間には、ほんのわずかな静けさが宿る。
リアは床に倒れていた俺のもとへと歩み寄り、しゃがみこんだ。
「……立てる?」
問いかけに、俺は歯を食いしばって体を起こそうとした。だが、足元がもつれ、ふらりとバランスを崩す。
「くそっ……」
そんな俺の様子を見て、リアは小さく息を吐いた。
「もう、無理しないで。じっとしてて」
言うが早いか――彼女は俺の体を、ふわりと両腕で抱きかかえた。
「なっ……!? ちょ、ちょっと待て、リア……!」
気づけば、お姫様抱っこ。俺は思わず顔を赤らめる。
「なんで……お姫様抱っこなんだよ……!?」
「あなた、負傷者でしょ。照れてる場合?」
リアはきょとんとした顔でさらりと言い放ち、まるで荷物のように軽々と俺を抱えたまま歩き出す。
(こいつ……見た目に反して、けっこう筋力ある……!?)
列車の連結部を越えると、視界が一変した。
そこにあったのは、先ほどの無骨な貨物車とはまるで違う、まるで貴族の控え室のような空間だった。
木目の美しい内装、簡素ながら整えられた調度品。布張りの長椅子に、カーテンで仕切られた寝台。窓からはやわらかな陽光が差し込んでいる。
「……ここ、リアの部屋……?」
「ええ、私の控え室。あなたをここで休ませるわ」
リアは優しく俺を寝台へと下ろし、そっと毛布を肩までかけてくれる。
「少し、待っていて。医療道具を持ってくるから」
その声も、手つきも、どこか不器用なのに――あたたかかった。
俺は、寝台に横たわったまま、手近にあった一冊の本に目を留めた。
疲れ切った体を休めるはずが、気づけば指が勝手にページをめくっていた。
――現実の痛みを忘れられる唯一の時間。それが、読書だった。
しばらくして、リアが医療具の入った箱を抱えて戻ってきた。
俺の様子を見て、少し呆れたように眉をひそめる。
「……何してるの? じっとして待ってなさいって、言ったでしょ」
俺は本から顔を上げて、気まずそうに笑った。
「ごめん、つい……。でもさ、本を読んでると、なんか落ち着くんだよな」
リアはため息をついた後、やれやれといった様子で俺の隣に腰を下ろした。
「……怪我人の癖に、本で落ち着くって。変わってるわね、あなた
読んでてもいいけど、暴れないでよ。手当て、始めるわよ」
そう言いながら、リアは手際よく傷の状態を確かめ、消毒液と包帯を取り出す。
俺は再び本に視線を落とし、ページをめくりながら、ぽつりと呟いた。
「“知る”ってことがさ……生きてるって実感させてくれるんだ。
だから、たぶん……体が勝手に動いたんだと思う」
リアの手が一瞬、止まった。
だが何も言わず、再び静かに作業を続ける。
「……“知ることが、生きること”」
彼女の声は、小さくて、どこか遠くを見ているようだった。
やがて手当てが終わると、リアはそっと包帯から手を離し、俺を見つめる。
少しの間だけ無言の時が流れ――やがて、彼女はふっと微笑んだ。
「……じゃあ、あなたのこと。聞かせてもらおうかしら」
思わずまばたきする。
思ってもみなかった言葉に、本から視線を外した。
「俺のこと?」
「ええ。あの状況で兵士に言い返すような人、ただの罪人には見えなかったから。
それに、怪我してまで本読んで落ち着いてる変人なんて、そうそういないもの」
俺は思わず吹き出しかけて、顔をしかめた。傷が、少し痛んだ。
「……ただの記録士だよ。
本や資料を読むのが好きで、気がついたら書き写したりまとめたりしてた。
命じられたわけでもなく、ただ……残したかったんだ」
「記録……だから、“知ることが生きること”なのね?」
「ああ。本や文章ってのは、誰かが“生きた証”だからさ。
それを読むことで、その誰かと少しだけ繋がっていられる気がするんだ」
リアは視線を落とし、静かに頷いた。
「……変わってるわね。でも、嫌いじゃないわ」
俺は目を丸くして、少しだけ笑った。
「……あんたも、変わってるよ」
「私が?」
「この部屋さ。控室にしては調度品も本も立派すぎる。
……上級貴族、それも相当な名家の出、違うか?」
リアの目が一瞬だけ鋭くなった。だが、すぐに柔らかく笑う。
「ふふっ、そこまで見抜いておいて、敬称も礼儀作法もゼロなのね?」
俺は視線をそらし、肩をすくめた。
「……今からでも使った方がいいか?」
リアはくすっと笑った。今度は本当に楽しそうに。
「必要ないわ。お貴族様扱いなんてされたら、まともに話せないから」
「それで……貴族の義務として、俺みたいな罪人をかばってくれたのか?」
リアは少しだけ目を伏せて、答えた。
「……それもあるけど、それだけじゃない。
あなたの目が、他の罪人とは違って見えたの。生きることを、諦めてない目だった」
その声には、静かだけど確かな想いが込められていた。
俺はどう返せばいいかわからず、自然に出た言葉を口にする。
「――変なお嬢様だな」
リアはふふっと笑って言った。
「変な記録士とおあいこね」
ふたりの間に、穏やかな静けさが訪れる。
気まずさなんてなかった。ただ、少しずつ互いの存在が溶けあっていくような――そんな間だった。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが響いた。
「お嬢様、いらっしゃいますか」
年老いた男の声。リアは眉を軽く上げ、立ち上がる。
「……爺やね。少し呼ばれてるみたい。すぐ戻るわ」
扉の前で振り返り、寝台の俺に一言だけ。
「本を読んでてもいいけど、ちゃんと休むのよ。……痛くても、目を閉じるだけで、体は休まるから」
返事をしようとしたが、そのときちょうど気になる文を見つけてしまった。
結局、俺は本に集中してしまい、返事ができなかった。
リアは呆れたように、けれど優しく笑って、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まったあとも、部屋に残っていたのは――
本のページをめくる、かすかな音だけだった。
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しばらくして、リアはそっと控室の扉を開けた。
柔らかなカーテンの隙間から、夜灯りが差し込んでいる。室内は穏やかな光に包まれていた。
ベッドの上には、彼が静かに眠っていた。胸元に一冊の本を乗せたまま、微かに上下する呼吸が、戦いの疲労を物語っている。
その寝顔は、驚くほど穏やかだった。
リアは音を立てぬように彼のもとへ歩み寄り、本をそっと持ち上げた。
そして何気なく、机の上に目を向けた瞬間――ふと、ある紙束に目が留まる。
それは、彼が読み耽っていた戦術書の間に挟まれていた、練習問題の一節だった。
その隣には、びっしりと書き込まれた回答と分析。
整った筆跡。緻密に計算された配置と、兵の士気変動に対する対応。想定敵の行動パターンを読み切った上での先手……それは、ただの学習ではなかった。まるで現場を知る者のような、実戦を意識した読みと設計。
リアの目が、驚きに大きく開かれる。
「……これ、本当に独学で?」
ページをめくるたび、彼の思考の深さがにじみ出ていた。紙の上に並べられたのは、まぎれもない“知の軌跡”だった。
「……軍師としての、素質がある」
そう、小さく呟いた声は、リア自身も気づかぬほど確信に満ちていた。
リアはゆっくりと紙束を置き、静かに立ち上がる。
そして、扉の外で待っていた老執事に、低く言葉をかけた。
「――爺や。お願いがあるの」
「は。何なりと」
「彼のことを調べてほしいの。私が拾ってきた男の“過去”を」
「お嬢様……つまり、身元を?」
リアは一度、眠る彼に視線を戻し、静かに頷いた。
「ええ。あの人……ただの罪人には思えないから」
その瞳には、凛とした光が宿っていた。
まるで新たな一手を見つけた軍師のような――そんな意志を込めて。
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列車の減速と共に、車体全体がわずかに揺れた。
その振動が、俺のまぶたをそっと持ち上げた。
見慣れない天井。ほんのり漂うインクの香り。
包帯が巻かれた体に、静かな疲労感が残っている。
俺はゆっくりと身を起こし、寝台の脇に置かれた本へと目をやった。
指先で表紙をなぞり、それからそっとベッドを抜け出す。
扉のきしむ音に気づいたのか、奥からリアが顔をのぞかせた。
「……起きたの?」
「……ああ。助かったよ。あんたのおかげで……また、生きてるって気がした。」
俺が微笑みながらそう言うと、リアは少しだけ表情を和らげた。
だがその笑みはすぐに消える。
「――どこへ行くつもり?」
「元の場所さ。……罪人たちが待つ場所へ。」
リアの眉がわずかに動く。
唇を引き結び、少しの沈黙ののち、低く問いかけてきた。
「……私に、助けを求めたりは……しないの?」
俺はその目を見て、一瞬だけ答えに詰まったが、やがて首を振った。
「もう十分、助けてもらった。これ以上は、甘えになってしまうから……ありがとう、リア。」
リアはふっと息を吐き、肩の力を抜いたように冗談めかして言った。
「ふふ、私の立場なら、恩赦のひとつくらい“プレゼント”できるかもしれないのにね?」
その言葉に、俺はふと思い出す。
ああ、そうだ。欲しかったものがあった。
俺は部屋の隅、書棚の一角を指差した。
「――じゃあ、あの本をくれ。『北方辺境戦術史』……それが、俺にとって十分すぎる“プレゼント”だ。」
リアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「あなたって、本当に変わってるわね。……いいわ。あれは私の蔵書だけど、今のあなたに必要な気がするもの。」
「ありがとう。」
俺は静かに頭を下げた。
リアは、去り際の俺にもう一度声をかける。
「――そういえば、名前を聞いてなかったわね。」
俺の足が止まる。
「最後に……教えてくれない? あなたの名前。」
……ほんのわずかに、肩が揺れた。
けれど、俺は振り返らなかった。
もう“プレゼント”は受け取ったのだ。伝えない方がよいと思った。
「……どうせ、もう会わない。だったら、知らなくても困らないだろ?」
それだけを残して、俺は静かに扉を開けた。
リアはその背を、しばらくの間見送っていた。
やがて、小さく、独りごとのように呟く。
「……変な奴。どうやら、名無しの“生きた記録”になりそうね。」