第1章_02 崩れゆく静寂
数日後――
学内に、黒い噂がじわじわと広がり始めた。
「敵国の記録に深入りしすぎている学生がいるらしい」
まるで煙のように、それは静かに、けれど確実に俺の周囲を包み込んでいった。
そして、校長室。
呼び出された俺の机の上には、一通の文書が無造作に置かれていた。
差出人不明の密告書。
赤い筆跡で、たった一文。
――『裏切者は、帝国の記録を汚している』
見覚えのない字だったが、なぜか妙に手慣れていて……ひどく冷たかった。
添えられていたのは、俺が日々まとめていた複写資料。
ノースランド王国の戦史と、帝国の記録を並べて比較したものだ。
ああ――これか。
両親が言っていたことが、現実になった。
俺はただ、事実を並べて記していただけだ。
だがこの世界は、「記す者」に優しくはなかった。
「……私がしたのは、記録の整理と比較だけです。歪曲や改ざんなど、一切していません」
静かに口にした言葉は、虚空に消えた。
そこに校長の姿はなく――
代わりに、青い軍服を纏った男がいた。
無言のまま、俺の資料に指を這わせている。
帝国軍上層部から派遣された査問官。
その冷たい瞳が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせていた。
「……敵国の記録を、帝国と“対等”に記す学生がいるとはな。
我が帝国の軍学校に、そんな思想が育っているとは……驚きだよ」
「……思想、ですか」
「帝国の正義は、揺るがぬ真理だ。
敵の言葉をそのまま信じ、記録に残すなど――裏切りと同じだ」
査問官は資料の一枚を取り上げ、指先で軽く叩いた。
そこには――帝国軍が退却を余儀なくされた戦役の詳細が記されていた。
「これなど……特に問題だな」
低く、呪詛のように吐き捨てる声。
「帝国軍が……退却? そんな“記録”、存在してはならん」
それはもう理屈ではなかった。
揺らぎさえも、彼らには“脅威”だったのだ。
俺は言葉を失った。
胸の奥が熱くなっていくのを感じる。
「……しかし、史実は変えられません。
真実を記すことが、未来のためになるはずです」
査問官の目が鋭く光った。
「真実? そんなもの、この戦争にとってはノイズに過ぎん。
帝国の正義を疑う者は、裏切り者と変わらない」
査問官は俺をじっと睨みつけ、冷ややかな声で告げた。
「お前はこれより、記録文書の閲覧、思想にかかわる書物の読み込み、そしてその内容を何かに記すことの一切禁ずる。」
その言葉は宣告のように重く響いた。
俺から本と記すとを奪うのか。
「命令は絶対だ。違反すれば、軍法により厳罰に処す。」
俺は視線を落とし、胸の奥にわだかまる疑問と葛藤を押し込めた。
だが、俺の中で芽生えた夢と問いは決して消えることはなかった。
「……それでも、私は本を読むことも、記すこともやめることはできません」
その言葉が、ぽつりと漏れた瞬間だった。
「なぜだ?」
「俺には……叶えたい夢と解かなければいけない問いがあります。
それを達成するには、本と記録が必要だからです。」
査問官の顔色が明らかに変わる。
「私の発言は帝国としての発言だとしても今の言葉を撤回しないと?」
「撤回はできません。」
査問官のまなざしは強くなる。
「それを達成することこそが――私の存在意義だからです」
そう告げた瞬間だった。
「そうか」
その静かな一言と同時に、男の手が伸びた。
――次の瞬間、視界が一気に揺れる。
「……っ!」
何かに激しく頭を叩きつけられた。
机だ。重く、冷たい木の感触。
額に鋭い痛み。
ぬるりとした感触が眉を伝って落ちていく。
資料の上に、血が一滴――赤く、確かに染み込んだ。
「口答えをするな」
男の声は、まるで機械のようだった。
感情のない暴力。ただそれだけ。
痛みに耐えながら、俺は顔を上げた。
――これが、帝国の“正義”か。
査問官は冷ややかに、裁きの言葉を口にした。
「お前は記録の中立性を偽り、敵に与する思想を持つ者として処罰を受ける」
無造作に滑らせられた文書。
そこには、あらかじめ用意されたかのように罪状が記されていた。
「反帝国思想の助長、軍規違反。
本来であれば、投獄か、思想矯正施設送りだ」
……なのに。
「だが今、戦場は人手が足りん。
お前のような犯罪者でも“使い道”がある」
査問官は言い放った。
「最前線へ行け。命をもって、罪を償え」
それは、裁きであり――突き放す言葉だった。
崩れていく。
俺の中で何かが、音を立てて。
――俺は、ただ記していただけなのに。
視界の端で、血に染まった資料が揺れる。
俺が綴った記録。求めた真実。積み上げた問い。
けれど今、それは「証拠」となり、俺を地獄へと叩き落とす鎖となっていた。
査問官は俺を見下ろし、冷ややかな声で命じた。
「次の“処理便”に乗せろ。他の罪人どもと一緒にだ」
命令はまるで記録装置の読み上げみたいに無機質だった。
そこに一片の情もない。ただ粛々と、決まった処理を遂行するだけの冷たい言葉。
俺の身体はまだ痛みで震えていた。けれど、それに抗う力は――もう残っていなかった。
兵士の一人が俺の腕を無言で掴み、もう一人が肩を支えるようにして引き起こす。
制服に染み込んだ血がじわじわと広がり、足元に真っ赤な雫を落とした。
何も言えなかった。
いや、言葉にする資格すら、俺にはなかったのかもしれない。
ただ、うつむいていた。
かつて記し、思索し、知を求めた俺が、いま“罪人”として――この場を引きずられていく。
そのとき、吹き込んできた冬の風だけが、まだ俺の皮膚に生きている感覚を残していた。
校長室の扉をくぐろうとしたその瞬間だった。
廊下の奥に――見覚えのある軍服があった。
図書館で、いつも穏やかな声で話しかけてくれた。俺が唯一、知を語れた相手。
……ギデオン校長だ。
彼は無言のまま、足音を響かせてこちらへと歩み寄り、血まみれの俺を一瞥すると、顔をしかめた。
そして、兵士たちの前に立ちはだかる。
「この処分は……不当だ」
声は静かだった。だがその声音にこもった怒りは、誰の耳にも明白だった。
温和な印象を抱かせたあの微笑みは消え失せ、代わりに鋼のような意志がその眼差しに宿っていた。
「君たちはここで止まれ。あとは私が責任をもって預かる」
兵士たちは一瞬たじろいだ。
ギデオンの肩章に視線を走らせる。
だがすぐに、上官の命令を優先する冷酷な兵士の顔へと戻った。
「申し訳ありません、ギデオン殿。あなたの階級では、我々に命令する権限はありません」
その言葉に、ギデオンの瞳が鋭く光った。
一瞬、廊下の空気が張りつめる。誰も、呼吸すらできないような静寂。
だが、ギデオンは声を荒げず、一歩だけ前に出た。
「ならば、正式に抗議する。私は“記録”という理念に対する、この理不尽な弾圧を見過ごすわけにはいかない」
その言葉には、教師としての誇りと、一人の人間としての矜持が込められていた。
兵士たちは黙って俺の腕を取ろうとする。
……だけど、それだけは嫌だった。
せめて、この人の前では――自分の足で、立っていたい。
「大丈夫です。歩けます」
声は震えていた。それでも、自分の意志はきちんと届いてほしかった。
「ギデオン校長……今まで、本当にありがとうございました。
……ここまでで、十分です」
その言葉に、ギデオンの眉がわずかに動いた。
俺の中では、それが最後の“別れ”の言葉だった。
それを、彼は……すぐに察してくれたようだった。
「……君は、本当に……」
ギデオンは何かを言いかけた。
でも、その先の言葉は飲み込んでくれた。
――これ以上、自分のために戦わないでほしい。その想いを、目で伝えた。
ギデオン校長は静かに息を吐き、深く、ゆっくりとうなずいた。
俺もまた、何も言わず、小さくうなずき返す。
兵士の肩には頼らない。自分の足で、歩く。
兵士たちの影に包まれ、俺の姿はやがて廊下の先へと消えていった。
残されたのは、ただ静寂と――ギデオン校長の、見送る眼差しだけだった。
彼の背中に向けて、静かに言葉を送る。
「――ならば、誇りを持て。自分の道に」