第1章_10 続きの火を灯して
アマリアはしばらくライブラを睨みつけた後、突き出していた剣を勢いよく地面へと突き立てた。
冷たい雪に刃が沈み、甲高い金属音があたりに響く。
「――抜きなさい。その剣を」
静かなその声には、押し殺した怒気が宿っていた。
ライブラは戸惑いながらも、剣に手をかける。
だが、次の瞬間だった。
アマリアの体が閃光のように動いた。
腰の短剣を抜き放ち、一歩踏み込むと、ライブラの胸元へと刃を突きつける。
「だったら――あんたの命、この私が奪ってやる!」
怒声とともに、容赦のない一撃が襲いかかる。
ライブラは咄嗟に剣を引き抜き、ぎりぎりで受け止める。
「なっ……!」
しかしアマリアの猛攻は止まらない。
「死にたければ死になさい!」
連続する怒涛の斬撃に、ライブラはただ必死に受けることしかできず、後退を強いられる。
「ほんと……あんたって、中途半端なのよ!」
怒りに満ちた声が、剣撃に重なる。
「死にたいなんて言いながら、生きようとして体を動かしてるじゃない……私には、それが見えるのよ!」
アマリアの言葉が突き刺さる。
その瞬間、ライブラの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あの子が……死んだんだ!」
ライブラが叫ぶ。
「俺が……あの子に本とメモを渡したせいで!!
俺はただ……続きを読ませてやりたかっただけなんだ、物語の続きを……。
それなのに、俺は……あの子を死なせた。
死なせるために渡したんじゃない……そんなつもりじゃなかったのに……!」
「だったら、どうしたっていうの!? 本を渡したから死んだ? 違うわよ!!」
アマリアの短剣が再び閃く。
ライブラの剣が弾かれ、腕に衝撃が走る。体勢が崩れ――
「ぐっ……!」
アマリアの蹴りが鳩尾に突き刺さる。
ライブラの身体が宙を舞い、背後の木に叩きつけられる。
雪が舞い上がり、息が詰まるような痛みが腹の底から湧き上がった。
その上から、アマリアの怒声が降ってくる。
「知識があるくせに……何も知らないのね、あなたは!」
アマリアの瞳は怒りに燃えていた。
けれど、その奥にあるのは怒りだけではなかった。
絶望。喪失。そして――痛み。
「戦争っていうのはね、本を渡す前から、命は簡単に失われているのよ。
誰が生きて、誰が死ぬか……そんなの、あなた一人の行動でどうにかできるわけがない!」
彼女は雪を踏みしめて歩き、ライブラの胸ぐらを掴み上げる。
「それでも、あの子は読んだんでしょ。
嬉しそうに、誇らしそうに、焼け焦げた本とあんたのメモを抱えて!」
ライブラの瞳が揺れた。
アマリアの手が、わずかに震えていた。
「“死なせた”んじゃない……!
あの子は、生きたのよ。たとえ短くても。
必死に、生きて、生きて――
“幸せだった”って思えた瞬間を、あんたが与えたのよ。
それが誰にできるっていうのよ、他の誰が――!」
彼女は真正面からライブラの目を覗き込んだ。
「それなのに、なんで“死にたい”なんて言葉を口にするのよ!?
あの子は、あんたの“続き”で救われたの……!
信じて……信じて死んでいったのに。
あんたがそこで終わらせてどうすんのよ……!」
ライブラは、口を開こうとするが言葉が出ない。
アマリアは肩で息をしながら、それでも視線を逸らさない。
その目の奥に、ふっと何かが沈んでいく――
怒りではない。静かな、そして深い――羨望だった。
「……ほんと、あんたが羨ましい」
ぽつりとこぼれたその一言に、ライブラは目を見開いた。
「……羨ましい?」
アマリアはかすかに笑った。だが、その笑みには鋭い棘があった。
「私だって本当は“苦しい”って、“自分のせいだ”って、叫びたい……
でも、それが許されない立場なのよ。私は」
ライブラが静かに問う。
「あんたも……辛いのか?」
その言葉に、アマリアの眉が一瞬だけ動いた。
だが彼女はそれを聞かなかったことにして、代わりに――確かな言葉を告げた。
「ライブラ。あんたの知識と記録には、“絶望を希望に変える力”があるのよ」
その言葉が、ライブラの心の奥に刺さる。
「……なんで、そんなことが……あんたにわかるんだよ……」
問いかけは掠れた声だった。
アマリアはまっすぐに、ライブラの目を見た。
「あなたがいなかったら、私たちはノースランドの軍に殺されてた。
あの子も、笑顔を取り戻せなかった。
――私たちは、あなたに救われたのよ。
感謝してる。あの子だって、絶対にそう」
ライブラは息を詰めた。
「なんなんだよ……お前は……」
アマリアはその言葉を遮る。
「あなたがあの子に“死んでほしくなかった”って思っていたのなら、私も言うわ」
アマリアは手を伸ばす。
「私は――“あなたに死んでほしくない”」
その声は、ライブラの胸に、深く、静かに染み込んでいった。
「たとえあなたが死のうとしても、私は絶対に止める。
殴ってでも、蹴ってでも。
あなたが“辛い”って言うなら――辛くなくなるまで、私は傍にいるわ」
その言葉で、ライブラの中の何かが崩れた。
「あなたの中の“記憶”のあの子だって……
きっと、あんたに死んでほしくないと思ってる」
風が雪を巻き上げる。
だが、ライブラの胸の奥には、まだあの子の「笑顔」が――灯っていた。
拳を握りしめ、うつむいたまま、ライブラがぽつりとこぼす。
「……ごめん」
もう、さっきまでの混乱や怒りはなかった。
あるのは、深い後悔と、恥ずかしさだけだった。
アマリアは少しだけ目を伏せ、ふっと吐息をもらす。
「そういう時はね――“ありがとう”って言うのよ」
彼女の声には、僅かなぬくもりがあった。
ライブラは空を仰ぎ、ふと思い出したように呟く。
「ありがとう……ありがとう」
アマリアの眉がピクリと動く。
「……二回も言わなくていいわよ」
「一回は、あんたに。もう一回は……ユウにだ」
ライブラの顔に、微笑が浮かんだ。
それは皮肉でも自嘲でもない。懐かしさと優しさに満ちた、本物の笑みだった。
「知識や記録ってのは、ただ過去を写すもんじゃない……
たぶん、俺にもまだ答えは出てないけど。
でもあの子の“笑顔”を信じたい。……いや、守りたい。これからも、ずっと」
焚き火にひとひらの雪が落ちて、溶けて消えた。
アマリアはしばらく黙って彼を見つめ――肩の力を抜いた。
「……それなら、立って。背筋を伸ばして、胸を張りなさい」
ライブラは驚いたように彼女を見る。
「“守る”って言うなら、それにふさわしい姿でいなさい。
みっともない顔じゃ、笑われるわよ」
ライブラは、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう、アマリア」
「礼はいらないわ。
……その代わり、“生き続ける”。それが、私への返事よ」
その言葉に、ライブラは深く頷いた。
そして、彼は遠く――まだ見ぬ“続き”の世界を見据えた。
雪は静かに降り続いていた。
だが、二人の足跡は確かに――“前へ”と伸びていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
ライブラは、雪を踏みしめながら静かにテントへと戻っていった。
――そこに、見慣れない人影が立っていた。
一瞬、警戒が走る。だがその輪郭を捉えた瞬間、ライブラの足が止まった。
「……ユウの、お母さん……?」
女性は、静かにそこに立っていた。どこか儚げで、それでいて芯のある眼差しをたたえて。
「……さきほどは、すみませんでした」
「いえ、大丈夫です」
その声は、驚くほど穏やかで、やわらかく――どこまでも澄んでいた。
「本当に……いいんです。ただ……少しだけ、あなたに伝えたいことがあって」
ライブラは思わず顔を上げた。
「……伝えたいこと?」
彼女はわずかに目を伏せ、言葉を探すように口元に手を添えた。
すぐには返答がない。
その沈黙に、ライブラはそっとテントの入口を開けて頭を下げる。
「中へどうぞ。……寒いですし」
彼女は戸惑いながらも、小さく微笑んで頷いた。
「ありがとう……お邪魔します」
中に入ると、雪の音だけが静かに響いていた。
やがて、彼女がぽつりと口を開く。
「……どこから話せばいいか、うまくまとまらなくて」
膝の上で強く握りしめた手が、小さく震えていた。
「焦らなくて大丈夫です。……話しやすいところからで構いませんよ」
ライブラは優しく言った。その瞳には、すでにただならぬ気配を読み取っていた。
「……あなたが、新しい軍師さんだと……聞きました」
「はい。まあ、そうなりますね」
少しだけ間を置いて――彼女は言った。
「一ヶ月ほど前、衛生兵の方々のお手伝いをしていた時に……前任の軍師さんが亡くなられたと聞きました。……原因は、“毒”だったと」
(……ったく、衛生兵ども、口が軽すぎる)
心の中で毒づきながらも、ライブラは表情を崩さずに頷いた。
「……ええ、そうです」
「やっぱり……そう、なんですね」
彼女の手がぎゅっと握り直される。
「……実は二ヶ月ほど前、私、ローガストの街で買い物をしていたんです」
その語り口が、少しだけ鋭く変わる。ライブラは自然と背筋を伸ばした。
「そのとき、市場の近くの薬品屋で……“害獣駆除用の毒”を買っている女性を見かけました」
「毒、ですか……?」
思わず声が漏れる。
(……今さら、そんな話を? たとえ誰かが毒を買っていても、それが何だってんだ)
だが、次の瞬間――彼女は顔を上げ、まっすぐにライブラを見据えた。
「……この話、絶対に、誰にも言わないでくれますか?」
その瞳には、恐怖と――覚悟が宿っていた。
ライブラは小さく喉を鳴らす。
(……これは聞いちゃいけない話だ)
それでも、彼は静かに頷いた。
「ええ。口外はしません」
彼女は少しだけほっとしたように息を吐いた。そして――言った。
「その女性……さきほど、ユウに祈りを捧げてくださった方に、少し似ていたんです」
「……え?」
「同じくらいの背格好で……金の装飾がある白い外套を着ていました。フードを深くかぶっていて、顔までは見えませんでしたが……」
ライブラの背筋に、冷たいものが走る。
(まさか――嘘だろ)
彼の脳裏に、先ほど祈りを捧げていたあの白い女性の姿がよぎる。
神聖で、穏やかで――まるで無垢な祈りそのものだったはずの、あの人が。
「……気のせいかもしれません。ただ……なんとなく、怖くなってしまって……」
彼女はそう言って、そっと目を伏せる。
ライブラは何も言えなかった。ただその場に立ち尽くし、心の中で警鐘を鳴らしていた。
――白い外套、金の装飾。
毒。
そして、“軍師の死”。
テントの中に、重く張り詰めた沈黙が流れる。
外では雪が、さらさらと音を立てて降り続けていた。
やがて、彼女は再び顔を上げた。
「だから……気をつけてください、軍師様。
あなたのような人が……この戦のなかで狙われるなんてこと、あってはならないと思うから」