第1章_01 図書館、静けさのなかで
窓の外――遠くで、くぐもった砲声が響いていた。
けれど、分厚い石壁に囲まれたこの古びた図書館には、その音さえまるで遠い昔話のようにしか届かない。まるで外の戦乱とは無縁の、別世界のようだった。
本のページを開けば、戦も、飢えも、死さえも遠ざかる――そう信じて、彼は蝋燭の小さな炎のもとで、一冊の年代記を静かに読み進めていた。
『ノースランド王国南方戦役年表』。
敵国の記録。それでも彼はためらわない。手の動きは変わらず穏やかで、ページをめくる指先には、どこか祈るような優しさがあった。
「……これは、一体、誰のために残された記録なんだ?」
ぽつりと呟いたその声に、当然、返答はない。けれど、それでもいいのだと彼は思った。答えを得るための問いではなかった。ただ心に、その言葉を刻みつけておくためのものだった。
ふと、本の隅に滲んだような茶色い染みが目に入る。古い血か、それとも煤か――そんな想像をしてしまうあたり、自分もこの戦争に染まりすぎてしまったのかもしれない。
「……この記録を残すことに意味はあるのか?」
問いかけるように目を伏せる。
戦争は記録される。何度も。けれど、その記録を読む誰かが、本当に平和を知ることがあるのだろうか。
彼は静かに本を閉じ、その背表紙にそっと手を置いた。まるで、次にこの本を開く者へバトンを渡すように。
――いや、たとえ誰も開かなくてもいい。残す。それが今の自分にできることなのだと、彼は知っていた。
蝋燭の炎が、ふっと揺れた。
その瞬間、図書館の奥にまで届くような、規則的な軍靴の足音が近づいてくる。
この国はいま、まさに戦の渦中にある。けれど、この場所だけは、かろうじてその騒乱を拒んでいた……はずだった。
誰も来るはずのない時間。誰も入ってくるはずのない空間。
だが、その足音は、確かに近づいてきていた。
冷たい風が、扉の隙間から差し込む。彼の頬をかすめたその風が、過去の記憶までも引き連れてくる。
――幼い頃、父と母が本を読み聞かせてくれた夜。
暖炉の前で、笑い合いながら過ごした日々。
今はもう、二人とも俺の手の届く世界にはいない。
それでも、その面影は消えていなかった。
色褪せてしまった記憶の奥底から、今もなお鮮明に響いてくる。
『人は“知る”という行為をやめることはできない
学習、読書、対話、体験、研究という事を行うことで人は知識を増やしていく』
『人は“記す”という行為をやめることはできない
物語、歴史書、技術書、手記、教科書を残すことで知った証を残していく』
『だが現実は甘くない
人は知るためならどんな“残虐”な事もできる。
どれだけ高等な知識であろうと、記した者やその周りによってその記録は“歪められる”
そこまでして
――知ることに意味はあるのか?
――記録として残すことに価値はあるのか?
その問いの答えを考えなさい。』
父の声だったか、母の声だったか、もはや曖昧だったけれど――その言葉だけは、彼の中に深く根を下ろしていた。
彼は小さな記録帳を開いた。震える手で、そこに一行ずつ書き記していく。
たとえ誰の目にも触れなくてもいい。
けれど、もしも未来に誰かがこの記録を拾ったとしたら――
「この戦の記録が、ただの“歴史”で終わらないように」
その願いを込めて、彼はペンを走らせた。
図書館は再び、静けさに包まれる。
けれどその静寂は、どこかさっきとは違っていた。
――問いは、まだ答えを得ていない。
それでも、確かに何かが動き出した。
彼の心の奥底で、未来へと続く小さな歯車が、ゆっくりと回り始めていた。
そのとき、重々しくも丁寧な動作で扉が開いた。
姿を現したのは――この軍学校の校長、ギデオンだった。
軍服は糸一本の乱れもなく、威厳を帯びた瞳は、年輪の奥に静かな情を湛えている。
まるで、戦場と書斎を両方歩んできた者だけが持つ、穏やかさと厳しさの混じったまなざしだった。
「記録を、受け取りに来た。」
低く落ち着いた声が室内に響く。
俺はすぐに立ち上がり、慌てて頭を下げた。
「ギデオン校長……。わざわざお越しいただかなくても、私の方から伺うつもりでした。」
ギデオンは、机の上に置かれていた記録帳に目を落とす。
無言のまま、ページを一枚一枚、丁寧にめくっていった。
「……ふむ。君の筆跡は、父君と母君によく似てきたな。」
微笑を浮かべながら、彼はまっすぐ俺を見た。
「両国の視点から、戦役を公平に描いている。その姿勢は見事だ。」
少し照れながら、俺は目をそらす。
「それでも……この程度の記録で学費を免除されるのは、少し気が引けます。
私はただ、他国の記録と帝国の記録を照らし合わせて、一つにまとめただけですから。」
ギデオンは記録を静かに閉じると、小さく頷いた。
「だとしても、その“一つにまとめる”という行為自体が、今のこの世界では何よりも尊い。
だからこそ、私は君から直接この記録を受け取りたかったのだよ。」
空気が静かに、しかし確かに変わった。
言葉のやり取りの奥に、尊敬と信頼が交錯する。
そしてギデオンは、ふと思い出したように話し出す。
「……ところで、君に一つ提案がある。
卒業後の進路について、もう考えているか?
たとえば――指揮官になる気は? あるいは、この軍学校で教鞭を取ってみるのも悪くない。」
「えっ……?」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
まさか、自分にそんな選択肢が提示されるとは思ってもいなかったのだ。
「君には資質がある。私はそう見ているよ。どうだ?」
一瞬だけ考えて、俺は静かに、だがはっきりと首を横に振った。
「……もったいないお言葉ですが。申し訳ありません。お断りさせていただきます。」
「そうか。ならば、君は卒業後に何を目指す?」
問いかけられた瞬間、返答に詰まった。
心の中にあるものを言葉にするには、少し勇気が要った。
ギデオンは俺の沈黙を咎めることなく、肩をすくめて笑った。
「別に構わんさ。これはただの世間話だ。答えに悩む必要はない。」
それでも俺は、意を決して口を開いた。
「……子供っぽい夢です。」
「ならなおさら、聞いてみたくなるな。」
言葉に背中を押されるようにして、俺は顔を上げた。
「私は……本が好きなんです。だから、できるなら――図書館の司書になりたいと思っています。」
その一言に、ギデオンはしばし驚いた顔をしてから、思わず吹き出しそうになった。
「ははは……この帝国の軍学校を出て、司書とはな。まったく……らしいといえば、らしいな。」
そして、すぐに口元の笑みはほろ苦いものへと変わっていく。
「だが――その夢も、戦争が許してくれるかどうか……」
静かに、彼は窓の外へと視線を向けた。
その瞬間、またひとつ、砲声が響く。
さっきよりも、ほんのわずかに近く感じた。
……訓練の音。そうであるはずだった。
でも、音の輪郭に、確かに生々しい“現実”の匂いが混じっていた。
「北のノースランド、南のサンオルテシア。
帝国は今、二つの火種を抱えている……もはや“緊張”などという言葉でごまかせる状況ではない。」
俺も、自然とその視線の先――窓の外に目をやる。
晴れている空なのに。
その向こうに、まだ見ぬ影が忍び寄っている気がした。
――そして、夢はいつだって、戦争という現実に押し流されていく。
けれど。
それでも――夢を見ることを、捨てるつもりはなかった。
「君は……確か、十七歳だったかな?」
「はい」
ギデオンは、穏やかな声音で問いかけた。
「本来なら、君たちのような年頃の子どもたちは――剣も弓も、銃も大砲も知らずに、本でも読んで穏やかに暮らすべきなんだ」
その言葉に、室内の空気が静かに凍りつく。
ギデオンの瞳には、深く、静かな悲しみがにじんでいた。
「けれど、現実はあまりに非情だ。戦争は未来を奪い、無垢な日々を壊す。……君の記録が、そんな彼らの生きた証となり、そして希望になればと、私は願っている」
その声は、温かくもどこか遠い。まるで、決して届かない祈りのようだった。
俺は、小さく息を詰めたまま、静かに頷いた。
ギデオンは重く息を吐き、再び背筋を正す。
「さて、そろそろ戻らなくてはな。……君には、これからさらに多くの試練が訪れる。だが、私は期待している。心から、な」
ゆっくりと立ち上がると、ギデオンは静かに扉へと歩き出す。
だがその背中は、すぐに止まった。
「――そうだ、最後に一つ」
ギデオンはふと振り返り、にやりと笑った。
「記録帳の最後に書かれていた一文、私のほうで消しておこうか」
「えっ……?」
一瞬、何のことか分からずライブラは目を丸くする。
「……どの部分でしょう?」
「“この記録には何の意味があるのか?”――だったかな」
その言葉に、ライブラははっとし、すぐに俯いた。
「申し訳ありません。つい、書き殴ってしまって……」
けれどギデオンは、手をひらひらと振って笑ってみせた。
「謝る必要なんてない。良い問いだと思うよ」
その目には、少年の悩みも、迷いも、きちんと受け止めようとする優しさがあった。
「ただな。私のような軍人にとっては、”記録”とは戦争で勝つための道具だと思っている。……もちろん、それだけじゃないと分かっていてもな」
そう言って、ギデオンは再び扉に向き直り――去り際に、もう一度だけこちらを振り返った。
「……夜更かしして、本ばかり読んでるんじゃないぞ?」
にやりと笑ったその顔は、どこか茶目っ気があった。
そして、静かに扉は閉まる。
残されたライブラは――ふっと、肩の力を抜き、安堵の笑みをこぼした。
視線を手元の記録帳へ落とす。
「……あの問いの答えなんて、簡単に出るわけないんだよな」
小さく呟いたその声を、蝋燭の炎が揺らめきで包む。
彼は椅子にもたれ、少しの間だけ目を閉じた。
――そして、静かに手を伸ばす。
棚の端に置かれた、もう何度も読んだ一冊の本へと。
「……ま、答えが出るまで、読んでやるさ」