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メモリー

メモリーの秋の庭は、今年も想像を超えて、美しい。


ガレージには山葡萄の実が絡まり、紫と白のマーブル模様が、ひそやかに光をまとって揺れている。

もし、そのひと粒ひと粒を数えたなら、億の数にもなるだろう──まるで、小さな宝石たち。


秋バラは、春の美しささえ凌ぐ勢いだ。

もし春の薔薇が、季節の初めの息吹を吸い込んで生まれた命の証ならば、秋の薔薇は、終わりゆく年のすべての命の息を吐き出して、その花に託しているように見える。


この空気、この匂い。

響香は、伸子とこの庭を歩く幸せを、一歩一歩、かみしめていた。

オーナーの手によって丁寧に敷かれた足元のレンガ一つひとつを、見逃したくなかった。

──この庭をともに歩くのは、やはり伸子でなくてはならない。


見晴台にあるこの庭園は、春の雪解けとともに芽吹き、一日として休むことなく命のループを巡り、この季節へとたどりついた。

その時間のすべてに包まれるように咲く秋バラが、また心を奪ってゆく。

空気の香りが違う。

レンガの壁から流れ出す水の音を、キボウシの葉が静かに受け止めている。


今年伸びた葡萄の茶色い蔓も、愛おしい。

それを籠に編もうと考えた誰かの気持ちが、今ならよくわかる。


二年前のふたりは、まだマスクをつけていた。

この秋も、インフルエンザの流行でマスクの着用が推奨されていたが、今日はあえて、それを外して歩いた。

秋の空気を、秋の匂いを、まっすぐに感じたかった。


北海道にコロナが入ってきたのは、2020年の1月ごろ。あれから、もうすぐ五年になる。

思えば、本当にながい、長いトンネルだった。

最初のころは何がなんだかわからず、マスクを奪い合う映像が流れ、販売状況に振り回されて、ドラッグストアに長い列ができた。

今では、戸棚の奥にしまわれた、全国民に配られたあの“アベノマスク”が、まるで参加賞の記念品のように、そっと残されている。裏扉の飾りになってしまった、過ぎた時間の証のように。


二年前は、まだ、出口は見えていたとしても、そこはまさに、トンネルの中だった。

たとえ光が射していても、それが本当に外の光なのか、確信できなかった。

見えている出口さえ、また、幻になるような気がした。

それでも、メモリーの秋の緑を、生涯一と思えるほどに味わった。


けれど今日、響香ははっきりと感じていた。

あのときよりも、さらに美しい。


この秋は、あの記憶を超えている。


──トンネルを抜けた先に広がる景色といえば、たとえば、日豊本線。


あれは、たしか中学一年生の夏休み。

弟と二人、博多から鹿児島へ向かう列車のなか。

引っ越して間もない太宰府の駅までの道のりを、ようやく覚えはじめたころだった。

列車は西へ南へ、父の故郷へと揺れていく。

おばあちゃんの待つ、鹿児島の知覧までの旅。


長いトンネルのたびに、次に見える景色を想像した。

山々の風景も、きっとはじめてだったはずなのに――

記憶に残っているのは、景色の続きではなく、

トンネルの先の光がすぐにまた闇に吸い込まれていく、その繰り返しだった。


そして、ようやく着いた駅の風景。

おおきゅうなっちょったね」

ちいさなおばあちゃんが、笑った。

眼鏡の奥に揺れる、やさしい目。

あの目だけは、今も胸に残っている


今、ふと見つめたこの景色も、

いつか、あのときのように思い返す気がした。


日豊本線の緑と、この北の秋の緑。

なんの関わりもない――それさえも、うれしかった。

それを伸子に言おうかなと一瞬思ったけれど、

そんな時間さえ野暮に感じて、

黙って、体中のまなざしで見つめた。

そして、体ごと緑の中に溶けていった。

 

北国の、この秋の緑が、

いつか日豊本線の先につながるかもしれない――

そんなことは、もう、どちらでもよかった。


メモリーの秋バラの香りの主を、伸子と探す。


長い、長いトンネルの出口に出た。


パーッと青空が広がると、信じていた。

かすかな光を頼りに、ここまで歩いてきた。

あれやこれや、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思うこともあるけれど、

――それでも、きっと、みんな、最善を尽くしていたのだと思う。


コロナが終われば、青空の下で、世界中のカーニバルがはじまる。

――どこかで、そう信じていた。


でも、それは、おとぎ話。


わたしたちは、いま――おそるおそる、次のページをひらこうとしている。


 「開店中」の看板の先にある、あの階段。

「コロナ禍が明けたら、ふたりで、

その初日に上りたい」――そう思った、おととしの秋。


去年の「開店中」の記憶。

知らせる人もいなくて、

インスタの画面を、そっと閉じた。


そして今年。

もう無理だと、あきらめかけた――あの夏を、

すっかり忘れてしまうほどの、

今。


わたしたちは、看板の先の階段を、

ゆっくり――あがる。


秋の、駆け込み乗車。

それは――時をとめた


再会のよろこびと、庭の美しさ。

店内の席についても、心は静かに、躍っていた。


 ――まだ、旅の話は始まらない。

「私、伸子さんとここで食べたかったんだ」

響香がそう言うと、伸子は笑って返した。

「響香さん、これで三度目だよね。前の二回は、B型の人だったでしょ?」

「『いいよ、ゆっくり庭でも見てって』って言って、座って待ってる人と来たんだよね」


――2年前の私のボヤキ、よく覚えてるんだ。

そこだけは、思わず苦笑い。


(……たしかに、そう。B型の人と来たって、ぼやいたっけ)

(私はA型だから、自分から強く誘うのは、ちょっと苦手。相手の時間を邪魔したくない――いや、ほんとは、自分の時間を大事にしたいのかもしれない)

(それなのにB型の人たちは、あっさり「どこでもいいから、どっか行こう」って突然言ってきて、当たり前みたいに私を運転手にして)

(「いいよ、ゆっくり庭でも見てて」なんて、のんきなこと言って)

(なんでこっちが謝ることになるのかしら、って――あのボヤキ)


(……B型の気ままなふるまいを、偏屈に構えた嫌なA型の私)

(……でも、そんな自分のことを思い出すのも、もったいないくらい)


(いまはただ、伸子と、この庭を楽しみたい)


響香はしばらく静かに、食事を続けていた。

正方形のお弁当箱には、秋の食材が競うように彩られている。

かぼちゃ、にんじん、さといも、紅色の大根の酢漬け。


幹事会とはいっても、二人きり。

知り合ったころの花人クラブの集まりを「そろそろやらなきゃね」と口実にして会っている。

――まあ、ほんとうは、口実なんていらないふたりだったけれど。


「この前、変なメモ送っちゃったでしょ。あれ、私、印刷したの」

響香はカバンからファイルを取り出しながら、早口で続けた。

「旅行の話聞いて、それから幹事会の仕事して、それで時間が余ったら見てくれる?」


普段はのんびり話す響香が、珍しくせわしなく言葉を並べる。

その様子を、伸子は微笑ましく聞いていた。

話したいことが山ほどあるとき、絶対に話したいことを“前ふり”にするのは、お互い様だった。


今日は、響香の話だけを聞けばいい。

伸子は、もうそんなふうに思って、目の前の友人を見つめていた。


――と、そのセリフが終わるか終わらないうちに、次の料理が運ばれてくる。


ふたりは思わず声をそろえて、

「わあ、美味しそう!」


伸子は目の前の料理に目を輝かせた。

「めっちゃ私の好み!ありがとう!」

そう言いながら、箸袋の絵まで写るようにして、スマホで写メを撮る。


「私、伸子さんとここで食べたかったんだ」

響香がそう言うと、伸子は笑って返した。


「三度目だっけ?」


庭の美しさに心を奪われながら、伸子はふと遠くの空を見上げた。

胸の奥に、かすかな寂しさが広がる。

響香とやっと会えた喜びと、これまでの出来事が、静かに交差していた。


伸子はスマホを開き、旅の写真を見返す。

そのとき、以前受け取った、あの謎のメモの画面が目にとまった。


「私も、実は気になってたの」

伸子は、そっと言った。

「あれ、アラビア文字でしょ」


響香は、少し気まずそうに笑った。

場違いなものを持ってきてしまったのではないか――そんな不安が、彼女の表情ににじむ。


「印刷したの、持ってきたの」

そう言うと、テーブルにスヌーピーのクリアファイルを出し、『伸子と響香の幹事』と手書きされたその中から、コピーした紙を取り出して、左端にそっと置いた。


「弟の、昔の携帯に保存されてたみたいなの。

『きょうか、まるひ』って書いてあって、気になって送ってきたのよ」


紙には、たどたどしい子どもの文字で《きょうか》、その下に《KYOKA》とアルファベットで。

さらに、アラビア語の文字が何列にもわたって並び、筆記体で《ueno jui》、その下に《1972 11/7》。


見れば見るほど、気になるメモ――。


話したいことは、山ほどあるのに、どこからほどいていけばいいのか分からない。

話題は、いつものように、一本の糸ではなく、いくつもの糸をたおすように、広がっていく。


そういえば。

コユキの長女が結婚する時、

あのコユキが涙を流して、その相手に膝を屈したという話をしてくれたっけ。

あれは、たしか――時が二年ほど過ぎた頃のことだった。


私たちの会話は、いつもそうだ。

時間と時が交差し、本題からは自然とそれていく。

それでも、そこにしかない、何かがある気がする。


「今、翻訳してみる?」


――旅の話は、まだ、はじまらない。







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