表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/40

5 水仙のつぼみ

5 水仙のつぼみ

エスコンフィールドは、札幌と千歳空港の中間という絶好の立地に誕生した。近年、ラピダスの開発で注目される千歳にも隣接し、自然と調和しながら、確かな存在感を放っている。完成した今では、まるでここに生まれるべくして誕生した場所のようにさえ感じられる。


だがこの計画が発表された当初、響香の思いは少し違っていた。

新聞で計画を知ったとき、響香は「結局、札幌にもう一つ無駄な球場ができるだけなんじゃないの」とため息をついた。北広島市は札幌のベッドタウンで、彼女が住む岩見沢市と似たような、小さな市だ。「球場が似合う町ではない」と思い込んでいたのだ。


響香は横浜出身で、夫の哲郎は広島出身。転勤族同士のふたりは、北海道で学生時代に出会った。終の棲家は絶対に欲しいと、20年以上前に札幌の少し東、岩見沢という街で小さな注文住宅を建てた。響香は、渋滞や満員列車に時間をすり減らす生活が続くと、どこかで心が疲れてしまうと感じていた。


たとえ東京都や横浜市に住んだとしても、テレビで映し出されるきらびやかな都会の暮らしや、あふれるようなテナントの並ぶ景色は、実際の生活とはどこか遠いもののように思えた。

もう一度、あのせせこましい町に戻りたいとは思わなかった。


この町での暮らしは、響香にとって自然にしっくりきて、気に入っていた。広々とした土地が与えてくれる自由な感覚と、都会では味わえない広い青空の広がりが、彼女を包み込み、心を落ち着けてくれる。「東京や横浜のような発展は必要ない」と考えていた彼女にとって、エスコンフィールドの計画は、少し煩わしい話に思えた。


しかし昨年、車で50分ほど走って、完成したばかりの球場を初めて訪れたとき、響香の心は一変した。

洗練されたデザイン、広大な敷地、そして地域に新たな風を吹き込む力強さに、だれもが心を躍らせていた。

エスコンの広い敷地に足を踏み込んだその瞬間、響香の心に、ここで四世代が集う夢が芽生えた。


エスコンフィールドのコテージで、家族みんなが揃う光景。コテージなら、愛犬のこゆきも一緒にいられる。

ゆったりとしたペースで、孫たちと夢ごこちの時間を過ごし、娘夫婦はテレワークをしながらバーベキューを待つ。

気づけば、ナイターの試合を観に来たことすら忘れてしまうほど、心地よい時間がそこに流れている――そんな家族の姿を想像して、響香はひとり、ふふっと笑った。


エスコンの案内図を手にしながら、コテージのある方へと歩く。北海道の四月の風は、まだまだ冷たい。

そして、彼女が一番見たかったエスコンのガーデンへ。


哲郎は、広い球場内に戻りたそうにしていたけれど、響香はできるだけ長く外を歩いていたかった。

ガーデンが見たかったのだ。最初に咲くであろう水仙も、多くはまだつぼみだった。

伸子が新聞の切り抜きで見せてくれたエスコンガーデンの予想図――いま、その中に身を置いている。


「そろそろ、行こうよ」

哲郎の声に、「うん」とだけ、生返事を返した。

彼の背中を追いかけながらも、もう一度振り返って、スマホで写真を撮った。


春の花壇といえばチューリップを思い浮かべるけれど、エスコンにはそれがなかった。

自宅のチューリップは、試行錯誤のネット対策もむなしく、今年もネズミにかじられて哀れな姿になってしまった。


エスコンの庭の設計者は、すでにげっ歯目たちの食欲を心得ているのだろう。

チューリップなど、ネズミの餌になりそうなものは見当たらなかった。


日当たりのよい斜面では、みずみずしい葉とともに、水仙が黄色い花を咲かせていた。

げっ歯目たちは、この葉に毒があることを、もう知っているのかしら?

響香はそう思いながら、再び庭を見渡した。


このガーデンの「霊長類」と「げっ歯目」の知恵比べは、もう始まっているのね――。


水仙の多くは、まだ緑の薄膜にその黄色い花を包み隠し、ひっそりと佇んでいた。


この春こそ、ようやくコロナのトンネルを抜けた――人々の表情が、そう語っているように見えた。

けれども、皆が会話を弾ませるその光景を、響香はどこか遠いものに感じていた。


昨年の秋、伸子が案内してくれると思っていたこのガーデン。

「ここでボランティアをするの」と意気込んでいた、あのときの伸子の表情が、ふと浮かんだ。


あの水仙のつぼみって、本当に葉っぱみたい。

葉とつぼみがまだ一体になってるような、どっちが花でどっちが葉かわからないくらい、静かに混ざり合ってる。

風に揺れているときなんて、つぼみも葉っぱのふりをしているように見える。

「まだだよ、まだ咲かないよ」って。


あの形も色も、まるで身を守ってるみたいで――。

だからこそ、花が開くときのふいの明るさが、きっとたまらない。

それがまだ「ない」ことで、そこに咲いていた二、三輪の水仙の花さえ、まぶしすぎた。


響香は、空を見上げた。


――その日、水仙の写真は、結局だれにも見せなかった。


それは、2023年4月17日だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ