3 栗丘の丘から
三 栗丘の丘から
北広島までは、車で五十分ほど。
岩見沢を出て、栗山の丘へ向かうと、そこから先は、気づかぬほどになだらかな下り道が続く。左右には、季節ごとに表情を変える大地が広がり、左手には太平洋、右手には、日本海の水平線を思わせる風景が、遠く霞んでいる。
道はまるで、川の水が静かに海へ流れるように、自然と太平洋へ向かっている。
栗丘の丘を越えるとすぐに名も知らぬ橋で一度だけ川を渡る。
丘のある町には、侍ジャパンを率いた栗山監督が、球団の小さな記念館を建てている。
まるで、母親がベビーシューズをそっと置くように。
そして、ブレーキを踏むことのない二十キロの直線道路が続く。
途中、スピードを緩める町がある。
長沼町だ。この町には、新たな夢を追うハンカチ王子も暮らしていると聞く。
彼もまた、小さな種を、そっと蒔いているらしい。
この道は生活圏からは離れているが、響香にとっては何度も通った道だった。栗山町の小高い丘から聴こえるカーステレオの曲は、その時々の記憶とともに心に刻まれている。
しかし、あの日は、カーステレオもかけず、音のない車を走らせた。初めてエスコンフィールドへ向かった日は、助手席で流れる風景を静かに見つめるだけだった。運転席には哲郎がいた。
北広島の町には、愛犬コユキとの懐かしい思い出があった。コユキは一人娘の妹分として、家族に迎え入れた犬だ。初めて予防接種のために北広島市の動物病院を訪れたとき、家族全員で出かけた。その記憶は今も鮮明に残っている。雪の日に迎えたため「コユキ」と名付けたが、もし晴れていたらジブリ映画のキャラクターの名前をつけるつもりだった。コユキは家族の一員となり、「コユキ姫」として家で君臨する存在になった。
やがて長女が結婚する際、コユキは涙を流してその相手に膝を屈したというエピソードがある。
「助手席は、愛人コユキのキープ席なのよ。」響香は、そんなふうに伸子に語っていた。時は流れ、今では、コユキは助手席を響香に譲り、自宅で留守番をする老犬となっていた。
響香は車を降り、目の前にそびえるエスコンフィールドを見上げた。広大な敷地、空を映すガラスの壁。すべてが新しく、きっと誰もが希望に満ちて見えるはずだった。しかし、響香だけはそうではなかった。それは、今は語りたくないことだった。
あれから季節が一周半過ぎた。最後のラインは、去年の春のはじめだった。連絡もせずに、縣伸子の長旅は、もう一年半が経とうとしている。
だが、二人の時間がうごきだした。
こうして連絡を取り合えば、昨日会ったクラスメートのように自然に話が紡がれていく。響香がスマホを握りしめている姿が容易に想像できて、伸子は微笑んだ。彼女はスマートフォンをテーブルからキッチンへと動かしながら、響香の声に耳を傾けていた。
「名古屋旅行の話だって詳しく聞いてないのに、次の旅行に行っちゃうんだから。」
その声は、どこか涙ぐんでいるように聞こえた。
そういえば、一昨年の冬、縣は「65歳、生まれて初めての一人旅をしました。」と名古屋の写真を送っていた。それは2022年秋のことだった。
「本当に大げさね。おととしだって冬の間はほとんど連絡を取らなかったじゃない?」と伸子が言う。
「だって、私、伸子さんちに電話して、ご主人の話でもよくわからなくて、未希さんに手紙までもらったのよ。どうして今どきスマホを置いて出かけちゃうなんてことになるのよ。」
涙ぐんだ響香の声は、怒っているふりをしているようにも聞こえた。
スピーカーを元の状態に戻し、ソファーに腰を下ろした。響香とのラインのページを開く前には、「連絡しなかったのはお互い様なのに」と思っていたが、話しながら改めてラインのマークをタップし、トーク画面を開いた。
2023年3月5日
ありがとうです。
縣さん、今シーズンも一緒にたくさん楽しみましょうね。
響香はのラインに既読が付いたのは、このスマホを一年半ぶりに手にしたおとといかもしれない。カレンダーに目をやった。
2024年9月18日
「一番素敵なところの写真が自宅の台所と自分の庭の写真なんて。伸子さんたら、本当にチルチルミチルの青い鳥みたいなこと考えるのね、と思ったわ。京都の写真の解説からよろしく。」
響香は、おととしの3月5日のラインの既読が付く日をずっと待っていたに違いなかった。そして、永遠になればいいと思うほど長く話した。それは、長い歴史の中でバラのアンジェラやポンポネッラが育種されるのと同じように。
旅行の話は、今度ゆっくり話そうと。
響香の庭に咲くポンポネッラのバラの話や、初めて行ったエスコンフィールドの話に、伸子は長く耳を傾けた。
カーテンも閉めず、電気もつけない北広島と岩見沢の部屋には、闇の中で、66歳と57歳の少女の声だけが響いていた。
それでも、響香の部屋に誰かが入った気配をスマホが捉えるとともに、空いた右手で冷蔵庫を開ける音や、お皿を動かす音が聞こえてきた。
「あー何時間あっても話しきれないね。また電話するね。」
長年の決まり文句で電話は終わった。
伸子は夕食の支度をしなければと思いながら、スマートフォンの画面に目を落とした。そのまましばらく動かず、静かに画面を見つめていた。さっきまで響き渡っていた声が、今はもう遠くなったように感じられる。画面を軽くタップして通話を切ると、手のひらに静けさが広がった。
スピーカーの音が消えた時、たしかに空気が止まった。すべての音が消えた。
そして再び、日常の音がゆっくりと部屋に戻ってきた。
※アンジェラ 作出年1984年 ドイツ コルデス社
※ポンポネッラ 作出年2005年 ドイツ コルデス社