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【旧稿】台所シリーズ 第1部 台所で世界をかえる (ただいま編)  作者: 朧月


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18 スマホの夜会

「もっと、お父さんの話を聞かせて、じゅういさん。」


響香の前には、ウサギの絵が描かれた可愛らしい湯飲みと、酎ハイの缶。

なんとも妙な組み合わせだけれど、それでいい。


ウサギのカップは、伸子にもらったものだった。

煙突と扉ひとつ、明かり窓ふたつの四角いおうち。その隣に、湯気の立つコップを前に座るウサギと、すっと立つウサギ。

白い磁器に青インクで描かれたその湯飲みの作家・黒羽さんに出会ったのも、二人一緒だった。

あれは10年ほど前、札幌の地下歩道〈チカホ〉の手作りマルシェでのこと。


伸子の優しい声にそそがれた湯飲みの水は、なかなか減らない。


酎ハイ缶のラベルを見つめながら、響香はぽつりと昔話を始めた。


「そうね。イノシシは、本当にヒツジのことを可愛いと思ってた。もちろん、鳥のことも、愛馬のことも、大事に思ってた。百人の家族のことも考えながら、それでも、そういう存在たちと一緒にいようとしてたの。


だからもしヒツジが困っていたら、隣をそっと空けて『こっちにおいで』って言える、そんなふうに。


……でも、いつも心配していたのは、鳥や馬のことばかりだったの。

ヒツジが本当に困っていたときだけは、一緒に考えてくれた。でも、そんな話をしたら、鳥や馬はきっと言うの。

『いつもヒツジのことばかりじゃないか』って。


……それでも、イノシシは何も言わない。ただ前を見て、狩りをしてたの。

馬の言ってた“イノシシの七大不思議”、ヒツジには四つくらいしか思いつかないけど。」


──そのとき、扉の向こうから、家族が交わす「おやすみ」の声がかすかに聞こえた。


「お酒、持ってきたわ。お待たせ。」


伸子が戻ってきた。


響香は缶を下ろし、スマホを手に取った。


「父は、いつも狩りをしてたの。イノシシみたいにね。十の牙を持って。」


「十の牙?」と、伸子が聞き返す。


「うん、母が言ってた。“十猪じゅうい”、七大不思議の謎よ。」


響香は一口飲み、続けた。


「父がアルミ会社の輸出課から異動した頃だったと思う。私が10歳くらいのとき。

車の免許を取るために、土日返上で教習所に通ってた。だから中東の仕事が落ち着いたあとも、一緒に過ごした記憶って、あまりないの。

母の口ぐせは『うちは母子家庭』だった。」


「今思えば、免許取るのにも苦労してたわね。」


「あんまり器用なタイプじゃなかったのよ、私と同じで。

でも、度胸だけはウルトラ級。私の心配性と、ちょうど釣り合い取れるくらいだった。

子どものころ、車に乗るとすぐ酔ってたの。遠足も苦い思い出ばかり。

上野の西郷さんも、にがにがな記憶。家族ドライブも、弟とはちょっと違う気持ちで見てたな。」


「最初のドライブは、富士山だったかしら……」


「そう、物心ついたときには、母のひざの上で車に乗ってたわ。

今だったら、アウトね。」


伸子の声はやさしかった。


「『うえの、うえのだぜ。お前、くるまによってるんじゃないか。やめてくれよな、げろげろの香りなんて、えんがちょ』」


あいつ、なんて名前だったっけ? 後ろのエンドウ? 前のイノウエ?

そんな誰にも話したことのない心の泥も、伸子の「くすっ」で、

響香にとっては、大地に必要なマグネシウムイオン。


「父ってね、すごく考えてるようで、どこか一つだけ時代に先行してるというか、逆行してるというか……」


「名前も、画数多くて、小学校ではいちばん最後まで書けなかったのよ。」

響香は笑った。


「何出茂薔薇子よりはマシだけどね。」


「でもみんな“きょん、きょん”って呼んでたの?」


「そう。本物のキョンキョンが出てきて、可愛すぎて。それからは誰も“きょんきょん”って呼ばなくなった。父まで。

ほんとは私が初代きょんきょんなのに。」


「酔ってないのに、酔ってるみたいね。」


「まだ栓、開けてなかった。ラベルだけで酔っちゃった。」


プシュッ。

栓を開けて、ほんの少し、こぼしている。

そんな気配を想像しながら、伸子は言った。


「きょんきょん。お父さんの“七大不思議”って、わかったの?」


「この前、母から初めて聞いたの。父って、メモを一切取らない人だったらしいの。」


「えっ? 世界を飛び回ってたのに? スマホなんてない時代でしょ? 昭和でしょ? “あなたに会えてよかった”の頃でしょ? “グッバイ”さえうまく言えなかった時代の──」


伸子は懐かしいメロディを口ずさんだ。


その歌を聴きながら、響香はふっと笑った。


「その歌、もう平成よ。でも、キョンキョンは今でもかわいいね。」

当時はスマホも携帯もない時代で、みんな手帳片手に仕事をしていた。

でも父は、メモひとつ取らなかった。

母は今でも不思議がっている。得意先の番号もすべて覚えていて、まるで体の中にヤフーカレンダーでも内蔵しているみたいだった、と。


「すごいわね。」

伸子がやさしく頷いた。


「大人になったら、私もそうなれるかと思ったけど……主人の電話番号ひとつ、覚えられないの。」

「それが普通よ。」

伸子は、ふふっと笑った。


そして、響香の記憶はさらに深い場所へと続いていく──


「いのししは、地図もいらなかったのよ。……いのししって、父のことね。

誰も知らないような道を選んで、一度通れば忘れないって言うから、さすが獣だねって、私、言ってやったのよ。」


響香は、国道246や綱島街道を通らず、父が選んだ裏道を思い出していた。

それはまさに、獣の勘で進むような道の選び方だった。


「そうそう、この前、父の四十九日、一回忌、三回忌を一緒にやったときのこと。

哲郎がレンタカーを借りて、横浜の町をみんなで走ったの。その道が、父がよく通っていた道だったのよ。」


伸子が尋ねた。

「好きな道だったの?」


響香は首を振った。

「そういう道じゃなくて……。グーグルナビって、最短距離を案内するでしょ?

父も、そんな道を選んでいたの。車一台が通れるくらいの抜け道とか、普通は誰も通らないような道。

みんなは『そんな道、覚えられない』って言ってたけど、父は一度通った道は全部記憶していたのよ。

まるで、グーグルナビを内蔵してるみたいだった。」


「面白いわね。」と、伸子が相槌を打った。


「北海道に行ったときも、父が道案内してくれてた。

『新しい道ができたな』とか、時代ごとの地図を全部覚えていて。

だから、あの法事のときの“フルコース”でも、ナビがまるで父そのものみたいで、みんなで笑ったの。」


「乗ってたんじゃない? お父さんが。」

伸子が笑いながら言った。


「そうなのよ。そしてね、私の手帳に書いてあった回転寿司屋に、偶然着いたの。

ナビの検索には『すし屋』としか入れてなかったのに。

名前を見てびっくり。数年前にテレビで紹介されていたお店だったの。」


「なんていうお店?」

「タフ。」

「メモしとくわ。今度、横浜に行くときに。」

「タフは、あざみ野の駅前よ。けっこう混むけどね。」

「ありがとう。」


父の記憶と、長い時間を経て、響香は“あの一度きりの時間”に思いを馳せていた。


父――40代の頃は中東を駆け巡っていた。

ハイジャックが多くて、テレビのニュース、無言の食卓、深夜の電話。

知覧の実家からの夜中の電話。おばあちゃんの声。

そして母の一言、「世界のどこだか」だった。


ホテルでスーツケースを切られても、何事もなかったように帰国し、翌日には出勤する父。

羽田まで迎えに行っても、仕事中心の父には「おかえり」さえ言えなかった。

でもスーツケースには、いつもおみやげが詰まっていた。

サイズはぴったり。でも、どこの国で買ったのか、私は尋ねたことがなかった。

部屋に増えていくピスタチオの缶、人形――

ただ眺めていただけで、写真ひとつ残っていなかった。


「50代はもっとあっちこっちに行ってた。アメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパ……

60代近くで、雇われ社長になって、会社まで立ち上げたみたい。」


そう。あれは札幌大通りのイルミネーションが見られなかった年。

友達が帯広に帰ってきたときだったから、

父が“第三コーナー”をきったのは、昭和から平成へと移り変わるころだった。


これから、2千円札を発行する総理大臣が、官房長官として「平成」と掲げたあの頃。


「お父さん、社長なの? 卒業式来るの? わざわざ帯広まで……」

500円のテレホンカードで話せるのは、せいぜい5分。


第三コーナーをきった父は、走りつづけていた。

ニトロをポケットに、心臓発作がいつ来てもおかしくない体で、それでも、走っていた。


そして、あの日――

突然に。いや、ある意味では必然として、終わりが来た。


……ふと思い出す。

緊急手術のあと、一命をとりとめた父が、最初に見たテレビ映像が、9.11事件の衝撃的な映像だったことを。


手術の成功を知らせる電話を受けたとき、私は北海道の自宅で、

飛行機が高層ビルに衝突して崩れ落ちる映像を見ていた。

まるで、生存者名簿に父の名前を見つけたかのような感覚だった。

胸が締めつけられて、あの夜の光景は今も鮮明に焼きついている。


駆けつけた霞が関の病院でも、父との会話らしい会話はなかった。

ただ、父は私の顔を見てこう言った。


「腕時計、みつくろってきてくれないか。日付のわかるデジタルのやつを……。」


私は「これでいい?」としか答えなかった。

その後、担当医の先生と三人で少し話して、私は北海道に戻った。


9.11の衝撃的な映像、わたしも今でも覚えてるわ。」

伸子はそっと、響香の話に寄り添うように言った。


「まるで、半年かけて砂場に作ったビル、町が、おもちゃの飛行機で一瞬にして崩れていく・・ような…。砂煙を上げながら、みんなの目の前ですべてが壊れていった。」伸子はしばらく黙っていた後、聞こえるか聞こえないぐらいの声で続けた。「だれもが、あの映像に、自分の大切な日々の積み重ねが一瞬で壊れてしまう恐怖を重ねたと思う。」


「飛行機のおもちゃを持っていたけんちゃんも、あのとき最初に声をかけていれば…

みんなで予定どおり水路に水を引いていただろうか?」

あのころ、最初から寄り添っていれば——けんちゃんも…。

伸子は、そんなことをふと思っていた。


響香には、それが実際にあった話なのか、ただの比喩なのか、

子供の砂場遊びの記憶なのか、どこかの旅のオマージュなのか、分からなかった。

けれど、話は自然と「横浜の水」のことに移っていった。


「響香さんのお父さん、心臓が悪かったのよね。でも、横浜市青葉区に住んでいたのよね。それって、本当に運が良かったと思う。水が良い場所だから。」


「伸子さん、やっぱり水のことに詳しいのね。旅って、水道施設の海外研修みたいなものだったの?」


「まあ、そんなところかしら。でもね、横浜の水がいいのは有名なことよ。」


「へぇ、そうなんだ。うちの実家、青葉区って全国でも長寿第2位らしくて。

満員電車に揺られるあの街が?ってちょっと驚いたけど…。水が関係してるのかな。」


響香は、実家の父、母、叔父、叔母の顔を思い浮かべた。

父は心臓の大手術後もたびたび北海道を訪れ、余生を穏やかに過ごした。

叔父や叔母も70を超えてテニスや野球、町内運動会に参加して、皆元気だった。


「横浜のお水って、そんなに良かったんだ。高校生まで普通に飲んでたけど。」


「日本の“横浜システム”は、世界トップクラスの水道インフラなのよ。

このシステムが成功したから、今の日本の水道はここまで整ったの。

虹の輪のメンバーも、みんなそれを認めていたわ。」


「特に青葉区は、道志川が水源でしょ。高度浄水処理が施されていて、水道水のミネラルバランスが良くて、安心して飲めるの。

これは腎臓や心臓の健康維持にも関係するってレポートしたのよ。

水がおいしいと自然に摂取量も増えて、体内の水分バランスが整って、血流も良くなるの。」


響香は首をかしげながらも、

伸子が横浜の水を日本の誇りとして語るのを、どこか誇らしく感じていた。


伸子は「日本を知る旅に出たい」とかつて話していた。

初めての一人旅に名古屋を選んだ彼女は、次はどこへ行くのか考えながら冬を過ごしていた。

響香は京都あたりに同行したいと願っていた。


でも、伸子が参加した「虹の輪」の研修旅行の行き先は、

言葉も通じず、どこにあるかも分からない国だった。

その姿に、若い頃の父を重ねた。どこで何をしていたのか、わからない人だった。


「何飲んでるの?私は“ほろよい みかんサワー”。」

「私はグレープサワー。アルコールゼロだけどね。」

「あ、明日仕事だもんね。ごめんね、お酒じゃなくて。でも、聞いてくれてありがとう。

やっと、三回忌ができた気がする。」


「また飲みましょうね。」


「この前もらったお土産、クリスマスの日に開けようと思ってるの。」

「そう。」


ふたりは同時にスマホをタップした。

響香は、伸子からもらったお土産の箱を見つめた。


「虹の輪のチームのことだけどね。響香さんも、きっとその一員よ。」


響香は驚いた顔で「えっ?」と返す。

それは、夢かもしれないと思った。


伸子は笑いながら言った。

「お土産の箱を見れば、わかるわ。」


きのう、伸子からもらった箱をじっと見た。

――二人で、開けられたらいいな。








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