14 アイスの最後の一口
17アイスの最後の一口
10月6日の夜。伸子は部屋に残る中東のスパイスの香りを深呼吸した。夫の食べなかったアイスをたべながら、ギューッと詰まった一日をふりかえって、おもわず響香へLINEをした。
どこか、返信は、明日かもとおもっていた。
けれども、すぐさま既読のサインがともって、10個のいのししのスタンプ。
なんだか、今日のドジャース、大谷翔平のスイングみたいだな、とおもった。
野球は今まで観戦したことがなかった。
ひさしぶりに、大きくなった孫と、交わりながら、じわっと、過ごしたいとおもっていたのに、
部屋に入るなり、無言でリビングのTVにスイッチをいれるなんて、なんて、あいかわらず無粋な奴だと背中をみつめた。
だけど、いつの間にか、ロサンゼルス・ドジャース vs. サンディエゴ・パドレスは、熱くなってみた。
きっと、凛は、この夫、つまりおじいちゃんと何度も野球をみているらしい.
凛は、「ママが買い物に行くと大谷翔平がうつんだよね。いつも。」なんていってた。きっと、長旅の1年半こうして、凛と留守番してたんだなとおもった。この町に球場ができたおかげで、いつの間にか野球のルールが少しずつわかるようになっていた。
大谷翔平選手がカキンカキン とバットふったあとの一瞬のボールの軌道を見逃さないようにしたい。
猪のスタンプが10個並んでいた。
「昭和10年、いのしし年で、十猪なの。」
今度は、パンダのスタンプ2個
「UENO JUIで、昨日の伸子さんの上野動物園の獣医さん?にはわらったわ。なんだか、父と上野動物園で、パンダ見に行ったことまで、おもいだしちゃった。」
「かんかん らんらん」
長い人を表すかのようにひとひとひとひとのスタンプ
きのうのあの夢のような時間がふたりの中に再現される。あのメモリーのづづきのように、とりとめないラインがつづく。
「凛ちゃん、元気だった?」
その日の一日を話した。
「ターメリックの香りが満ちた部屋で、大谷選手とダルビッシュの戦いを観たよ。」
試合が終わると、凛は自転車の練習を見てほしいと言った。補助輪を取ったばかりらしい。目標は、この実家からエスコンまで自転車で行き、アイスを買うことだという。
よたよた、危なげな凛の表情が、自信に満ちた瞬間に変わるのを見た。
そのことを響香に伝えたかったが、うまくかけなかった。
響香は。「私、一人でダルビッシュに花を持たせてあげたかったな。」
「そんな花、重たくてダルビッシュくらいしか持てないよ。」と、伸子は返した。
いつのまにか、ラインでの会話はおわり、どちらともなく電話のはなしにきりかわっていた。
だけれども、ふいにでただろう響香のことばがひっかかる。
「願いがかなっても、それを手放さなきゃいけないのが辛いんだ。」今日の歓喜の話をするときでさえ、響香の言葉が胸にひっかかる。「いったいそれは、なんのこと?」のセリフをどのタイミングで言おうか考えながら、響香の話を聞いた。
願いが叶ったこと自体は素晴らしいことだとみんなが祝うべきだと思っていたが、響香が抱えるその後の感情が、簡単に整理できないものがあるらしい。
きのう、響香がきになっていたというメモを翻訳アプリで解読した。
それは、中東のレシピだとわかった。
響香のお父さんが中東に出張にいった話をきいた。
「私、勝手に作っちゃってよかったかな?」
「なんで、なんで。全然、そんなことないよ。父も、余裕でお墓の中で喜んでいるよ。本当に。コロナが始まるか始まらないうちに、タイミングで骨になっちゃったけど、まあ、ひ孫に庭の花を供えてもらって、ちゃんとお葬式できたけど、コロナの宣言で、四十九日も一回忌も三回忌もまとめてやったフルコース。まあ、それも父らしいっていうか、なんていうか。結局コロナの間は、父も母と弟と同じ屋根の下にいたんだよね。コロナ禍で父が亡くなった後も、今まで通り一緒に過ごしながら、時間を共有していたんだから。」
「響香、無理に笑わなくてもいいんだよ。」伸子は深く息をついて言った。
響香はしばらく黙っていた。その後、少し涙声で言った。「うん、ありがとう。今日は、大丈夫。ありがとう、伸子さん。」
「それにしてもさ、そのレシピの記憶、私には何もないんだよね。まるっきり。きょうか とは、書いてあるんだけどさ。
母は、父のこと、響香のことは目に入れてもいたくないほど可愛いって、繰り返すんだけど、字なんか教えてもらってないし、怖かったもん。それなりに。子羊がいのししをみるよように、父を見ていたわ。『これなーに?』なんて、六つの子羊がいのししのところに聞きに行かないでしょ?」
「童話でもできそうね。」
響香は言った。「お酒飲んでいい?」
響香と一緒に飲むのは、長い付き合いだが、今回が初めてだ。
一人の寝室にアルコールとスマホを持って行くことにした。
願いがかなうこと、それが素晴らしいことだと信じていたけれど、響香のようにその後に訪れる「手放す」という難しさに直面したとき、その複雑な感情をどう扱うべきかを深く考えさせられた。
最後のアイスの一口は、すでに溶けていた。伸子は、溶けかけたアイスの残りを、引き出しの奥にずっと紛れていた、子供用の小さなシルバーのスプーンですくった。
やわらかくて、少し甘くて、あたたかいものの味がした。
最初に買った、加奈のスプーンだ。加奈、未希、凛――三人の離乳食を、このスプーンで口に運んできた。
「ちょうどいいわ」
慌ただしさの中でも、とまどいや喜びにそっと寄り添ってくれたこのスプーンは、いつもすべての願いを、叶えてくれた気がする――そう伸子は思った。




