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【旧稿】台所シリーズ 第1部 台所で世界をかえる (ただいま編)  作者: 朧月


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11 べらぼうの時間~レシピの余白に咲く文字


「これ、私、作ってみようかな?」


響香がそう言って微笑んだとき、伸子の脳裏には、まだ幼かった彼女の面影がふわりと浮かび上がった。異国から帰ってきたばかりの父が遺したレシピの余白に、彼女はきっと、初めての「ひらがな」を綴ったのだろう。


「よ」の字が、逆さまだった。


かつて帰国したばかりの台所にも、同じようなメモが貼られていたのを、伸子は思い出した。あれは凛が書いたものだった。たどたどしい文字たち。そのどれもが、伸子にとっては宝物のように愛おしかった。


それは、不完全さの中に宿る、やわらかな時間の記憶だった。


レシピの片隅に、くっきりと日付が記されていた――1972年11月7日。


「この日を忘れないように」。そんな父の静かな意志が、にじむように伝わってくる。忘れてはならない一日。きっと、あの日の食卓には、娘の未来を想う父のまなざしがあったに違いない。


伸子の胸の奥に、若き日の父と小さな娘が向き合う光景が浮かび、温かな風が吹いた。


「私、これ、つくてみようかな?」


もう一度、伸子がつぶやく。翻訳されたレシピをじっと見つめながら。


ふと、壁の時計に目をやると、長針がちょうど五時を指していた。


「こんな時間か……」


ふたりは同時にそう言った。話したかったことは、結局ひとつも話せていなかった。


伸子の旅の話も、『はなしの、は……』と言いかけたまま、宙ぶらりんになっていた。


「あっちでは、何語しゃべってたの?」と響香が尋ねる。


「うーん。名古屋弁……かな?」


「えっ?」


そんな調子だった。実のところ、メモリーに来る前から、時間はすでに過ぎていた。本屋の前のベンチで「五分だけ」と座ったのに、それも結局、ずいぶん長くなっていた。


「あそこよね。おととしの秋、幹事だよりを出したの、覚えてる?」


響香が指差したベンチに、伸子はうなずいた。


「このベンチを見ると、いつも悔しくなったの。あの時、何を食べたのか思い出せなくて。」


「でも、やっと思い出せた。中のフードコートで、ラーメンだった。」響香が言うと、


「ラーメンでも、いいよ。」と伸子が笑った。どこで食べたかなんて、どうでもよかった。


「まさか。絶対今日は、メモリーよ。」


「べらぼうよ……こんな時に使う言葉かな?」


ふと、話題は飛んだ。NHKの大河ドラマの話かと思えば、違ったらしい。


「でも、来年の大河ドラマは蔦屋重三郎の話なんだって。演じるのは横浜流星さん。」


「へえ、本屋にはもう関連本がずらっと並んでるわね。」


思い返せば、おととしの秋も、コロナの嵐が行ったり来たりしていた。ふたりは花人クラブの幹事として、エンタメを考えていたが、風向きはいつも気まぐれだった。


結局、各自で5、6枚の幹事だよりを作って持ち寄り、メモリーの庭を散策し、蔦屋前のあのベンチで封をして、食事会の代わりにした。


その計画は不発だった。けれど、電話やメール、マスク越しの会話、庭の散歩――そのどれもが、セピア色の青春のページのように、静かに輝いていた。


「べらぼう」――その言葉の使い方は曖昧だけれど、あの時間にぴったりな気がした。


「うん、素敵。」


響香は頷き、話をもとに戻した。


「お風呂場でね、私の大事なサザンのツアーバッグが、凛のおもちゃ入れになってたの。もうショックよ。響香さんとお揃いだったのに。」


メッシュのバッグには「2005、みんなが好きですサザンオールスターズ」とプリントされていた。風通しのいい素材で、確かにお風呂場には向いていた。けれど、気づけば響香のバッグの底には、小さなカビがこびりついていた。


「うちもよ」――そうは言わず、彼女はただ一言、


「あのコンサートの感動は忘れない」と言った。


2005年、あの夜のことは今もよく覚えている。伸子に誘われて行ったあのライブは、まるで巨大な同窓会のようだった。心が弾んだ。


それから十年以上が過ぎた今、そのバッグは孫たちの風呂遊び用になり、カビをつけてしまったことが、響香には少し切なかった。


その夜、彼女は日記を開いた。


2024年10月5日

晴れ時々曇り。最高気温21.1℃、最低12.7℃。

伸子さんと再会。蔦屋書房で待ち合わせ、メモリーで食事。お土産ももらう。

「後で開けてね」と言われた包み。


――中東の若き日の父にも、どこかで会えた気がした。


夜、家に帰ってテレビをつけると、中東情勢の悪化が報じられていた。

父がかつて赴いたその国が、もう別の世界のように思えた。

日記の最後に、彼女はそっと「?」を記して、ページを閉じた。


そして――


1972年11月7日の夢を見たのは、年が明けた2025年のことだった。



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