隣国の皇太子との婚約が決まったので、最愛の奴隷に「愛しているなら抱け」と迫ることにした傲慢な王女の話。
導入部以外は王女視点です。
「お前、私のために命を懸けられるか?」
涼やかな声で落とされる不意の問いかけ。
時折唐突に尋ねられる確認は、ルドルフの主君である王女の、年相応の独占欲から生じるものなのだろう。
甘やかな束縛にも似たそれに、ルドルフが返す言葉は、常にひとつだった。
「はい、もちろんです。僕の人生も命も魂も。僕を形作る物は全て。拾って頂いたあの日から、あなたのものです」
迷いのないルドルフの言葉に、至上の人はいつも「そうか」と素っ気なく言うだけだ。
けれど書類に向けられた顔はいつだって少し綻んで、口角が微かに上がっている。普段は無表情な王女の心が垣間見える時間が、ルドルフにとって至福であった。
けれど、その日は全てが違った。
「そうか。……ならば」
苦しげにいつもの言葉を絞り出したルドルフを見下ろして、王女は目を細め、あからさまに嬉しそうな顔をした。
そして王女は、いつものように不遜に微笑みながらルドルフに命じたのだ。
「私を抱け」
「…………は?」
***
「私の伴侶が決まったぞ」
バサッ、バサササッ
ルドルフの手から大量の書類の束が落ちる。しかし床に紙をばら撒いた男は拾おともせず、目を見開いたまま私を見つめてきた。
「おい、拾え。ちゃんと順番通りに戻して置けよ」
「っ、殿下、それはまことですか?」
私の命を無視するとは良い度胸だ。だがまぁ、仕方ない。驚きもするだろうからな。
「ふっ、嘘をついてどうするんだ」
「お、お相手は?」
よろよろと私の座る執務机の前までやってきたルドルフは、掠れた声で尋ねた。
「帝国の皇太子だ」
「っ、な」
ヒュ、と息を飲んで凍りつくルドルフに、私は吹き出した。ここまで良い反応をしてくれると、驚かせ甲斐がある。
「ふふ、驚いたか?」
「驚きますよ!だって、帝国の皇太子って」
「あぁ、まだ決まっていないな。……だが、帝国の皇太子妃は私になるらしいぞ」
面白い話だろう?と片方だけ口角をあげてルドルフを見るが、生真面目な男は硬い表情のまま眉間に深い皺を刻んでいる。そしてボソッと「ちっとも面白くありませんよ」と吐き捨てた。
「ふふっ、帝国の皇太子はまだ未定だが、最有力と言われる正妃の第一皇子もまだ十五歳。私の三つ下だな。あちらの成人である十八を待ち、私はあちらへ嫁ぐ予定らしい」
「らしい、って、そんな他人事のように……」
「私の意思など無関係に決まったからな。向こうからの名指しの指名だ。断れまい」
悔しそうに拳を握りしめるルドルフを眺めて、私はほわぁ、と気の抜けたあくびをする。いろいろと忙しなく、考えることが多すぎて、最近は休める時間が短い。普段は気を張っているのだが、ルドルフのそばだと気が抜けてしまうのか、眠気に負けて二つ目のあくびが漏れた。
「……殿下が、この国を継がれるのでは?」
「ははっ、そのはずだったのだがなぁ」
「どうして、そんな……っ」
奥歯を噛み締めていたルドルフが、苦しげに問いを絞り出す。
誰よりも近くで私の苦悩と努力を見てきたからこそ、納得できないのだろう。奥歯を食いしばっているのか、ギリ、という音が聞こえた。歯が欠けないといいが。
「仕方ない。私は女王となるべきではないと、天に判断されたのだろう」
「そんな訳ありません!」
投げやりにも聞こえる私の言葉に被せるように、ルドルフが激した声で否定する。
「あなたは、初めてお会いした、ほんの小さな少女であった頃から、王者として生きていらっしゃいました!誰よりも、誰よりも王座に相応しい方なのに……っ!」
あぁ、こいつはどうやら本気で怒って、悲しんでいるらしい。
私のために、私よりも怒り、今にも泣き出しそうになっているルドルフに、二人で積み重ねてきた時を感じる。
「……ふふ、無表情だったお前が、随分と感情豊かになったなぁ」
まるで人形のようだったルドルフを思い出し、私はくすりと笑みを浮かべた。
***
十年前、社会見学の名目で放り込まれた奴隷市場で、私はルドルフと出会った。
その時から、私は王位を継ぐ者として生きていた。
「裏切らぬ駒を探してこい」
昔から意地の悪い父に言われて足を向けた、汚らしい奴隷市場。まだ八つほどの子供には刺激が強すぎる光景に眉を寄せるばかりだったが、ふと何かが目にとまった。
「……綺麗な姿勢だな」
縄に繋がれているにも関わらず、すっと美しく立っていた人影に興味を惹かれたのだ。
「おい、そこの商人。そいつを買おう。いくらだ」
「へ?お嬢さん、からかっちゃいけませんよ?子供の小遣いで買えるモンじゃありません。ご両親をお連れなさいな」
商家の娘のように変装していた私を見て、商人は手を振って「ひやかしはやめとくれ」と呟き追い返そうとする。
「父に了承は取ってある。値段を言え。金ならある」
「はぁ……今からアチラに競り落としに行く予定なんでね。値段はついてません」
私が交渉を続けても、商人は本気にしていないのか、値を言わない。私の変装が優れているというより、商人の見る目がないのだろう。私の目から見たらなかなかの掘り出し物の奴隷だが、彼がつける値段は想定以上に安そうだ。二束三文でこの原石が買い叩かれるのは気に入らない。
「いくらで始まる予定だ?」
「あー、まぁ痩せてますが若いし顔もそこそこ整ってますからね。良い値段で売れると思いますけどねぇ」
「……一万レペル」
「へ?」
まどろっこしい会話に苛々とした私は金貨一枚を地面に放り投げた。平民や流民からなる一般奴隷の値段に比べると五〇倍、身元の良かったり特殊技能をもつ奴隷の値段と比べても五倍から十倍の金額だ。理解できなかったのだろう。
「拾え、本物だぞ。必要なら鑑定しろ。それとも、まだ必要か?」
「け、結構でございます!お持ち帰りください!」
見たこともない高額の貨幣に慄く商人は、大慌てで金貨を拾って走り去った。こんな金貨を持ち歩くような子供と、関わり合いになりたくなかったのだろう。見る目のない愚者かと思えば、案外に危機管理がしっかりした者のようだと笑いがこみあげた。
「……僕を買ったのは、あなたですか?」
「あぁ、そうだ」
静かに私を見つめた少年は、聡明な目で慎重に問いかけてくる。涼やかな声に満足し、私は口角をゆるく上げて頷いた。
「あなたのご両親ではなく?」
「違う。お前は私自身のモノだ」
「……承知いたしました。ご主人様」
確認が終わり、己の主人を見定めたのだろう。奴隷は想像通り、やけに洗練された仕草で頭を下げる。にやり、と私は笑みを浮かべた。
あぁ、やはり、思った通り。
これはきっと、なかなかの拾い物だ。
「奴隷、よく私に仕えよ」
私が見出したのは、老人のような薄汚れた白髪を持つ、二歳上の一人の少年だった。それが、ルドルフだ。
***
「私は王となる者だ。使えない駒はいらない」
衰弱していた少年が、やっと粥を啜れるようになった頃に、幼い私は淡々と告げた。
「日々学び、鍛え、常に考え続けろ。そうでなければ、お前など兵士たちの弓術の的にしかなれぬぞ」
近い未来、女王となる私の所有物として、私のそばに侍るのに相応しい知識と立ち居振る舞いと、そして力を身につけろと命じた。
「畏まりました」
粛々と頭を下げる奴隷の従順さに、私は満足した。
冷酷な教師の鞭が飛び交う厳しい授業も、血と汗と吐瀉物にまみれた激しい鍛錬も、奴隷は文句ひとつ言わずにこなし、着々と身につけていった。
傲慢な私は、それを当然のことだと思っていた。
だって、私が命じたのだから。
「よく頑張っているようだな。私の名に恥じぬよう、よく努めよ」
時折、ねぎらいとも言えないような声をかけるだけで、私は奴隷を過酷な環境に置き続けた。
本人が望んだわけでもないのに。
「おい、奴隷」
初めの頃、私はそんな風に少年だったルドルフを呼んでいた。
王宮への届出のために名を尋ねれば、名前を持たないと言われたからだ。
私は笑って「名などなくても問題ない」と告げ、彼の名を空欄のままにして届け出た。
私の所有物である奴隷は、彼一人だったから、それで通じたのだ。不便はなかった。
私が彼に名前を与えたのは、一年後だ。
***
「ははっ、お前やるなぁ!凄いじゃないか」
「で、殿下!血が」
「あぁ、気にするな。抑えておけば止まる」
爵位を奪われて逆恨みした貴族の息子が、警備を潜り抜けて、視察に出向いていた私に切り掛かってきたのだ。
剣を避けきれず、あやうく死ぬかと思った時、そばで控えていた小さな奴隷が男に掴み掛かり、死に物狂いの揉み合いの末に男を取り押さえたのだ。
「それより、お前の方が傷が大きいだろう。手当してもらえ」
「私は構いません!今更一つや二つ、傷跡が残っても同じです!でも、殿下は……っ」
腹と肩に刀傷を負いながら、少年は必死に私の腕の傷を押さえる。泣き出す直前な顔で、噛み切らんばかりに唇を噛み締めていた。
「申し訳ありません……真っ白な、綺麗なお肌でしたのに」
「ははっ、平気さ。傷はやがて癒る。この程度で済んだのだから御の字さ」
栄養不足のため、二歳下の私と同じ程度の体格しかなかったにもかかわらず、成人男性をよく抑え込めたものだ。よくやったと褒めてやりたかった。だから。
「なぁ、奴隷。お前に名前をやろう」
「え?」
私は褒章のつもりで、泣き顔に目を向けた。私の唐突な言葉に驚き、血まみれの少年はキョトンと首を傾げている。
やけに幼い表情を浮かべる奴隷に、私はククッと喉の奥で笑った。相変わらず素直で可愛い奴だと思ったのだ。
「私の奴隷は一人だけだから、これまで不便もなかったがな。ここまでの献身を捧げられて、奴隷呼ばわりしていては、さすがに可哀想だ。なにしろ、ペットにも名前をつけるというしな」
「ペット、にして頂けるのですか?」
頬を赤らめる妙な純真さに、こいつはペットで喜ぶのか、と内心呆れたし。しかし考えてみれば、たしかに王族のペットは奴隷よりも格上かもしれない。専属の侍女が複数人つけられ、優雅に暮らす母の猫達を思い出し、私は苦笑した。
「愛玩動物にはしない。あいつらは役に立たないからな」
「そ、そうですか」
私の意図が読めず困惑する奴隷に、私はにやりと笑った。
「だが、役に立つなら可愛がってやる」
「っ、え!?」
密やかに告げた、まるで艶事の誘惑のような低い声に、奴隷が顔を赤く染め上がる。
「あははははっ!お前は純真だなぁ?」
「殿下!なんであなた、十歳の女の子なのに、そんな、そんな!」
「そんな、……なんだ?」
「う、ううぅっ、おかしいです……」
十歳の私の圧に、完全に押し負けた十二歳の少年に、クスクスと笑う。
王族の子女なんて、十歳過ぎたらいつ結婚してもおかしくない。閨房の講義も始まっているから、彼よりもそういう意味で上手なのは間違いない。からかいすぎたかもしれない。
「ルドルフ、でどうだ」
「えっ」
「誇り高き狼を示す古語だ。これからお前をそう呼ぼう。ルドルフ」
「ルド……ルフ……僕の名前……」
ルドルフの名を与えた奴隷は、少しずつ頬を赤らめ、唇を綻ばせた。じわじわと喜びが染み渡ってきたのだろう。何度も小さく名を呟いている。
「僕の、名前……」
「ふふっ」
嬉しそうなルドルフに、私も笑みが浮かぶ。チラリと視線を落とせば、しっかりと抑えていたおかげで、腕からの出血も止まったようだ。あとは消毒をして処置をすれば良いだろう。
「狼のように強くなれ。私を守れるようにな」
揶揄うように片目を瞑れば、ルドルフはへにゃりと眉を下げて「はい」と頷く。私の傷が目に入り、現実を思い出したらしい。
「包帯がありませんので、ひとまず手巾で結びます。お許しください」
「あぁ、頼む」
手際よく私の怪我に処置をするルドルフに、私は「ほぉ」と感心した声を上げる。
「なかなか上手いじゃないか。きちんと日々学んでいるようだな?」
「はいっ」
褒められて嬉しそう笑うルドルフに、私も表情が緩む。
「年上のくせに、お前は本当に素直だなぁ。私の可愛い仔狼」
「で、でんかっ」
「ははははっ」
低く囁けば、照れて顔を真っ赤にするルドルフに、私は久しぶりに大笑いした。怪我は痛むが心はひどく愉快だった。
そんな過去も、今となっては良い思い出話。
奴隷として私の所有印を腕に押されているルドルフは、暇さえあれば焼印をいつも撫でている。私の印である、カトレアの花を。
いつだったか聞いた話によると、ルドルフは、その腕にだけは傷をつけないと決めているらしい。馬鹿馬鹿しい決意だとその時は笑ってみせたが、私は密かに喜んだ。
少なくとも今、この男は自ら望んで私のモノとして生きているのだから。
***
「私が王位を継ぐ予定で何もかも整えてきたが、無駄になったなぁ」
頭の中では追憶に浸りながらも、私は口元に薄い笑みを掃き、いつも通りの飄々とした態度で話を続けた。
「帝国との力関係を考えると我が王配としてアチラをお迎えするのは難しい。諦めて嫁ぐことにしたよ。この国は弟に任せる」
「ですが弟殿下は、まだ」
「あぁ、まだ一歳。しかも父上は病に臥せりがち。さっさと隠居して療養して頂こうと、来春には私が王冠を被るはずだったのだが、無理だな。父上には弟が成長するまで頑張って頂くしかない」
去年立太子し、正式に王太女となってからは、ほとんど私が国政を取り仕切っていたようなものだ。これから、さぞや混乱するだろう。戦乱の炎が近隣諸国に広がっている状態で私がいなくなれば、十年ともたずにこの国は瓦解する。
「……では帝国、は」
「あぁ」
厳しい表情を浮かべるルドルフに、私は薄笑いを浮かべたまま淡々と返した。
「この国を取り込むつもりだろう。弟が健康に育ってくれたとしても、おそらくどこかの時点で病死するはずだ」
もともとこの国で、貴族であろうとも子供が成人できるのは半数以下。私の兄や姉も、みんな流行病で死んだ。たとえ神の守護のもと健やかに成長しても、おそらくは私が嫁いだ後に帝国の魔の手が忍び寄ることになるだろう。
「私を手に入れて、この国の力を削ぎ、父亡き後は混乱するこの国を保護の名目で属国にする予定だろうさ。あっさりと、手際良く、な。……まったく、嫌な奴らだ」
顔色をなくして難しい顔で黙り込んでいる可愛い奴隷に、私はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「なぁ、ルドルフ。……お前、私をどう思っている?」
「えっ!?な、何を突然」
「聞きたいだけだ。昔と変わらず、私を慕っているか?」
この会話の流れで、なぜそんなことを尋ねるのか分からないのだろう。ルドルフは不可思議そうな顔をしながら、いつも通り、律儀に答える。私への敬愛と忠誠を。
「……殿下は、我が生涯の主と心に決めたお方です。もちろんお慕いしております」
「そうか」
何度聞いても、聞き飽きることのない言葉に口許を綻ばせる。
これは、私たちの間では、意外とよくあるやりとりだった。ふとした時に、ルドルフの所有者は誰なのかを尋ね、ルドルフが自ら望んで私に身を捧げていることを確認する。密やかな秘め事と言うほどの色気はなく、幼子が生涯の友情を誓うのにも似た、二人だけの時の戯れ。
けれど、今、私はその一線を超えようとしている。
「なぁ、ルドルフ、正直に答えろ」
「え……?はい」
気づけば乾いていた唇を、行儀わるくペロリ舐めながら、私は口を開く。戸惑った顔のルドルフを見つめ、柄にもなく緊張しながら、私は見極めるように目を細めた。
「その思慕は、純粋に仕えるべき主君に対してのものか?それとも……女として?」
「なっ、あ」
みるみるうちに赤くなる頬。あまりにも分かりやすい態度に、思わず吹き出した。
「ははっ、今更だったな」
クスクスと笑いながら、真っ赤に顔を染める綺麗な顔の男を見つめる。
この透き通る瞳に、明白な好意を向けられ続けて十年。立場上、口に出したことはないが、ルドルフから向けられる眼差しの意味を、私は当然知っていた。
王女の忠実な奴隷。
王女のためだけに傅く、王女の狼。
そう評されるルドルフだ。
むしろこの王宮で、ルドルフの私への特別な思慕を知らぬ者などいないと言うのに。
本人から口に出されると恥ずかしいものなのだろうか。
「も、申し訳ありません……っ!」
「馬鹿者、謝るな」
がばりと床に伏せたルドルフに半ば呆れながら、私は動揺に乱れた灰白色の髪を見下ろす。
「そしてさっさと答えろ、お前は私を女として愛しているのか?」
「どうか……どうか、お許しを!お仕えする主に、不埒な思いを抱くなど、あってはならぬことです。私はあなたのお側にいられなくなってしまいます」
思い詰めた声で、まるで命乞いするかのように懇願するルドルフを、私は口角を上げて見下ろした。
「ははっ、相変わらずお前は真面目だなぁ?ここには私とお前しかいない。気にするな」
とん、と片膝をつき、震える男の顎に手を伸ばす。私に逆らえない男の顎をくいと軽く引き、床に伏せたルドルフに顔を上げさせた。
「なぁ、教えてくれ。そうでないと、……私はこのまま、男からの愛を知らぬままに、知らぬ男のの妻のとなってしまうんだ」
「ぅ、っ」
甘えるような声で、残酷な未来と脅迫じみた願いを告げる。逃げられないと悟ったルドルフは絶望の目で私を見つめ、噛み切らんばかりに唇を噛んだ。そして。
「……あ、いしております。全てを捨て、この世の全てと引き換えにしても構わないほどに」
青褪めた唇が、血を吐くように私への愛を呻く。決して己の手には入らない女を思い、生涯口にはするまいと心に決めていた愛を、想い人本人から晒け出せと命じられるのだ。ルドルフが感じているのは屈辱か、苦痛か、絶望か。さて、どれだろうか。
「……ふふっ、そうか」
けれど、ルドルフの苦悩とは裏腹に、私はふわりと顔を綻ばせ、くすくすと笑った。さも満足そうに、嬉しそうに。
「……殿下」
ルドルフは非難するように睨みつけてきたが、すぐに力なく肩を落として、私から目を逸らした。
奴隷の恋心など思い遣ってはくれないのかと詰りたかったのだろう。だがルドルフは何も言わずに、唇を噛み締めて耐えている。躾が行き届いた奴隷であるルドルフが、そんな文句を言えるはずがない。当たり前だ。そもそもルドルフは私が買った奴隷。主人が、奴隷に心などを認める必要はないのだから。……建前上は。
「なぁ、ならばお前、私のために命を懸けられるか?」
私はいつもと同じ声音で、いつもと同じ問いを投げた。
この流れで問うのはあまりにも残酷な言葉。けれど、どれほど苦しくても、私からの問いかけにルドルフが返す言葉は、いつも通り一つしかない。
「……はい、もちろんです。僕の人生も命も魂も、僕を形作る物は全て。拾って頂いたあの日から、あなたのものです」
泣き出しそうな目をしたルドルフの迷いのない言葉に、私は思わず破顔する。
そしてゆるりと目を細め、愛おしい奴隷に命じた。
「そうか。……ならば、私を抱け」
「…………は?い、今、何と?」
私の言葉を理解できなかったらしいルドルフが暫くの間を置いてから掠れた声で問うてきた。何か言いたいことがあるらしく、パクパクと口を開閉させているが言葉にならない。衝撃が大き過ぎたのだろう。仕方ないから、親切な私はにっこりと笑って、もう一度同じ言葉を繰り返してやった。
「聞こえなかったか?お前に、抱いてくれと言ったんだ」
「え!?し、しかし、え!?」
ルドルフの混乱は尤もだ。たった今、私は婚約が決まったと伝えたばかりなのだから。
「もちろん、初夜の際は処女の証を求められるだろう。もし破瓜の血が認められなければ、私は不義密通の罪をもってその場で殺され、この国は正当な理由をもって帝国に壊される」
「であれば、なぜ!?」
意味がわからないと叫ぶルドルフに、私は柔らかな笑みのまま伝えた。私の狙いと願いを。
「お前の逃げ道を断つためだよ」
「……え?ぼ、くの?」
「そうだ」
静かに肯定し、呆然として何度も瞬きを繰り返すルドルフの手を取った。そして、そっと私の頬に当てる。冷え切った指先を温めるように上から手を重ね、私は上目遣いに微笑んだ。
「私を抱き、お前の手で退路を断て。私の命が懸かっているとなれば、お前は死に物狂いで頑張れるだろう?そして、お前が私を手に入れろ」
「な、にをおっしゃって……」
震え声のルドルフは、蒼白な顔で、どこか怯えるように私を見ている。見ないふりをしてやっていた過去を、私は引き寄せた。私たちの未来のために。
「おや、お前にしては察しが悪いぞ?ここまで言ってもわからないか?なぁ……先代皇帝の、落とし胤くん?」
「なっ!?し、知って……っ」
「もちろんだよ、私を甘く見るな」
無意識に後退りしようとしたルドルフの動きを、重ねた手に力をこめることで封じる。二人で向き合うように床に座りながら、同じ視線の高さの瞳をまっすぐに見つめた。
「もちろん奴隷市場でお前を見つけた時は知らなかったが、調べたらすぐわかったよ。ルドルフ、お前に流れる血が、何色のものなのか」
帝国の王侯貴族は色素が薄く、青い血が流れると言う。それを示唆すれば、ルドルフはびくりと震えて目を逸らした。
「なぁ、その特徴的な灰白色の髪、……銀髪なのだろう?」
「う、す汚れた、消し炭の色でございます。黒髪に、灰色や白髪の混じった、まるで南方の老人のような。とても……帝国の貴族、ましてや王族のモノではございません」
「ほぉ?それは、誰が言った台詞だ?」
「っ、いえ」
そんな下手な言い訳で、誤魔化せるはずもないのに。
いまだに言い逃れようとするルドルフに、私は優しい笑みを向ける。
「だからお前は、皇族として認められず、奴隷として捨てられた、と言うのか?……ふふっ、馬鹿馬鹿しい」
殺されなかったのは幸いだが、出会った時にルドルフが市場で向かっていたのは幼い奴隷たちが性的な用途のために売られている区画だった。殺すよりも、どこまでも尊厳を貶めようとする悪意を感じる。まぁ、その誰かの愚かな欲により、私は生きたルドルフを手に入れることができた訳だが。
「皇帝は戦神たる氷狼の化身。ゆえに、帝位を継ぐものは、雪原のごとき白銀であることが望ましい。それは大陸中で有名な話だ。実際、歴代の皇帝は皆見事なまでの銀髪だと聞く。……だが、それが?」
御伽話に求める血筋の正当性など、何の意味があるのか。歌うようにそう告げれば、ルドルフがヒュッと息を飲む。透明な瞳を覗き込めば、先程までなかった熱が宿っている。ルドルフが閉じ込めてきた過去の闇の奥深くから、じわりじわりと焔が燃え始めているようだった。
「なぁ、ルドルフ。玉座に必要なのは、姿形よりも中身だろうに」
そう囁き、私はうっとりとルドルフの目を見つめる。
「分かるか?私が求めるものが」
「で……んか……」
もはや呆然とするしかないらしい。だが、分かるはずだ。私が躾けてきた、この強く賢い狼ならば。
「なぁ、私が何のために、お前を私の講義に付き合わせていたと思う?何のために、私と議論を交わせるだけの知識をつけさせ、剣の腕だけではなく戦をする側の力を身につけさせたと思う?私を補佐するためじゃない……お前を、私の隣に立たせるためだ」
声をなくしたルドルフに、私はくしゃりと笑いかける。これまで、奴隷の身には余ると言われても、適当に言いくるめてやらせてきた仕事は、このためだ。
「ルドルフ、私がお前を何年かけて仕込んできたと思う?いつからお前を、私の隣に立たせたいと願っていたか、知っているか?」
「殿下……」
「ふふ、鈍いお前は分かっていなかったようだがな」
私たちは、ずっと前から両想いだ。
柄にもなく緊張した喉から溢れたのは、甘い掠れ声だ。私の言葉にルドルフは瞠目し、そしてゴクリと唾を飲んだ。
「なぁ、頼むよ。私だって、愛する者に純潔を捧げたいんだ。そして叶うならば、愛する者と添い遂げたい」
「っ、殿下……ッ」
「愛しているよ、私のルドルフ、私だけの可愛い狼」
私だって無茶を言っているのは承知の上だ。だが、仕方ないじゃないか。屑みたいな男にこの体を、糞みたいな帝国にこの国を渡したくはない。くれてやるならば、愛おしい者に、だ。
「頼むから、私を……そして私の純潔を奪っておくれ」
まだ思い切れないのか、固まったままのルドルフの首に、きゅっと抱きつく。
「私に血を流させるのは、この世でお前だけだ」
手を伸ばし、頬を撫でる。微かに震えているのは、ルドルフか、それとも私か。
私を貫けと甘く誘う言葉に、ルドルフは苦しげに眉を顰めた。
「あなたは、むごいことをおっしゃる……!」
そう吐き捨てると、ルドルフは初めて私の体を抱き返した。厚い胸に抱き込まれ、この男の体が、思っていたよりも大きいのだと実感する。すっぽりと腕の中におさまった私に、ルドルフは激情を押し殺した声で呻いた。
「あなたをお守りできず、この美しい白い肌に傷を作ってしまったあの日から、僕はもう二度とあなたを血で汚すことはしまいと、決めていたのに……っ」
「躊躇うな。お前は私のためならば、何でもできるのだろう?ならば」
愛らしい誓いを破れと唆す。
私の誘惑に、激情を抑え込んだ瞳が揺れている。あと一押しだ。
「私を抱け。そして、私のために帝国を手に入れておくれ」
いまだに躊躇っている可愛い狼に、私はゆるりと笑いかける。
「さぁ、まずは、この唇を奪え」
「っ、殿下!」
私の言葉を合図に、ルドルフの剣胼胝のできた硬く大きな手が、私の頬を捕らえた。荒々しく重なる唇は少しかさついていて、手入れが足りないな、と内心で笑った。
「殿下……ッ」
ひたすらに私の名を呼びながら、飢えた犬のように必死に唇を貪ろうとするルドルフが可愛い。今にも喰らい尽くされてしまいそうだ。
「こら、がっつくな。唇が腫れてしまうじゃないか」
「あっ、すみません……で、もっ」
熱に浮かされたような目で私を見つめ、ルドルフは泣き出しそうな謝罪の言葉を呻く。けれどルドルフは、取り憑かれたように再び私の口に食いついた。激しい口付けに耐え切れず、二人して床に倒れ込む。
「……っ、ふふ、まったく」
こちらだって、閨事は机上で学んだばかりの初心者なのだから手加減して欲しいような気もするが。
「なぁ、私の名前を呼べ、ルドルフ」
ルドルフが目を見開く。王族の名は、本来ならば親兄弟、そして伴侶だけが呼ぶことを許されるもの。
「お前は私が唯一人と定めた、私の夫だ」
「っ、ディアナ、さま」
私の言葉に泣き出しそうなルドルフを見上げ、心からの笑みが溢れる。必死な様が愛おしくて、力任せに抱きしめられても文句も言えない。
この男は私と同じように、いや、私以上に、私を欲しているのだ。そう思うと多幸感と満足感に、体の奥底から溶かされていくような気がした。
「愛しているよ、私のルドルフ」
「あぁ、僕も愛しています!ディアナ様、僕の女神……!」
互いの目に映る己が幸せそうに微笑んでいる。
目の前の人だけを見つめて唇を重ね、そして私たちはそれからは言葉もなく、一つに溶け合った。
***
「何を物思いに耽っている?」
仮眠室の寝台に二人で横たわりながら、私は掠れた声で呟いた。
「殿下……」
「名前で呼べ」
なにやら遠くを見つめていたルドルフが、いつもの呼び方をしたのを嗜める。ルドルフは照れくさそうに微笑むと、そっと私を抱きしめた。
「ディアナ様……昔のことを、思い出しておりました」
「何を?」
柔らかな表情から悪い記憶ではあるまいと思いつつ尋ねれば、ルドルフはくすりと笑って答える。
「以前、あなたと二人で雨の中逃げて、小さな小屋に隠れた時のことです」
「あぁ、馬鹿王妃の刺客に襲われた時のことか」
隣国の好色王に気に入られてしまい、後妻の王妃がヒステリーを起こした。その結果、お粗末なことに、国へと帰る途中の私の元へ刺客が送り込まれたのだ。
「あれは外交問題になって、大騒動だったな。随分賠償金を貰えてホクホクだった」
「……死にかけたのに、感想がそれですか?」
呆れたように尋ねるルドルフに、私は胸を張って言い切った。
「今生きているから問題ない」
「ははっ、あなたのその逞しさが大好きですよ」
楽しそうに囁いて、ルドルフはきゅっと私を抱きしめる。
「でも、分かっておいででしょう?……あの夜から、僕はあなたを異性として見てしまっていました」
「……ふふ」
私も過去を思い出し、くすくすと笑う。
数歩先は見えないような豪雨の中を、ルドルフに守られて逃げ出した夕暮れ。
これが歌劇なら山場じゃないかと思ったものだ。
「なかなか頼もしかったぞ?」
「僕にはなかなか苦行でした……色んな意味で」
はぁ、とため息をついて、ルドルフが苦笑する。
「覚えているさ。随分と初心な反応をしていた」
「……意地悪なお方だ」
恨めしそうなルドルフに吹き出し、私はそっと目を伏せる。
そして、懐かしい豪雨の日を思い出した。
追手から逃れて辿り着いた、無人の山小屋の中。雨に濡れて透けた私の肌を見て、当時十五歳だったルドルフはギョッとした後で、サッと頬を染めた。
「も、申し訳ありません」
「……不可抗力だ、気にするな」
寒さのために青ざめた唇で無礼を許した私から、ルドルフはそっと離れる。
「ま、まきを……探して参ります」
言い訳がましく告げて私の元を離れたルドルフは、しばらくすると片手に薪を、もう片手には毛布を抱えて戻ってきた。
「これを……二枚とも、お使いください」
言葉少なに、ルドルフは私に毛布を渡した。意図を汲み、毛布の中で私は濡れた服を脱ぎ捨て、二枚の毛布にくるまった。
「……体を温めるものを、準備します」
ルドルフは腰につけた小袋からいくつかの小瓶を取り出しながら言った。しかしそうは言っても、暖炉に火を入れれば、煙で居場所を知らせるようなものだ。ほんの小さな火をおこして湯を沸かすのが精一杯。
火をすぐに消した私たちは、ルドルフが携帯していた干し肉を噛み、温めた酒と湯を飲んだ。
ルドルフは、ずっと私を見なかった。明らかに緊張しながら、けれどどこか困惑したような顔をして、窓から周囲を警戒していた。ルドルフの緊張の原因を察していた私は、部屋の隅で静かに丸まっていた。
しかし。
「……っ、くしゅん」
埃っぽい薄い毛布だけで、冷え切った体が温まるわけもない。ガタガタと震えながらクシャミを繰り返す私を、ルドルフは弱りきった顔で見つめた。
「……殿下、僕の力不足で、申し訳ありません」
「お前のせいではない。むしろ、他の者たちが食い止めてくれたとはいえ、あの人数の中で逃げ切れたのは見事だったさ、っ、クシュンッ」
安心させようと笑いかけても、カタカタと震えていては様にならない。
「あとは、我が国の騎士が援軍にきて、私たちを見つけてくれるまで隠れ切ればいいだけだ」
「ですが……」
己の力不足に打ちひしがれているらしいルドルフに、私は揶揄うように笑った。
「今の問題は、寒いことだけだ。なぁ、ルドルフ、温めてくれ」
「な、え!?」
「人肌で温め合うっていうのが、こういう時の定石だろう?」
半分冗談のつもりだった。あまりにも悲痛な顔をしているルドルフを和ませようとしただけだ。しかし。
「殿下がお望みでしたら」
赤らめた顔で呟くように言って、ルドルフは周囲を再度確認した後、私の側にやってきた。躊躇いなく濡れた服を脱ぎ捨て、下履き一枚になる。そして一瞬の躊躇いの後、毛布ごと私を抱きしめた。
「……ふふ、肌で、じゃなかったのか?」
一瞬の動揺を瞬きで隠し、私はルドルフを見上げて首を傾げた。私の挑発に、赤い頬のルドルフは唇を噛んで、すっと毛布の中に滑り込んできた。
「……これで良うございますか?」
「上上だ。なかなかに温かいよ。お前は体温が高いんだな」
思ったよりも逞しい膝の上で、自分よりずっと太い腕に抱きしめられ、私は満足感とともに吐息をついた。
「……それは良うございました」
ルドルフは手元に武具を引き寄せ、言葉少なに呟く。
「嵐が止むまでは見つかることもないでしょう。……体力温存のためにも、お休みなさいませ、殿下」
「あぁ、そうさせてもらう」
ポカポカと温かい筋肉質な体にもたれ、私は目を閉じた。
そして次に目を開けた時には、すっかり朝で、いつの間にやら服を身につけたルドルフが、毛布ごと私を抱き上げていたのだ。見覚えのある我が国の騎士服を着た者たちを前に、ルドルフが話している。
「殿下は雨に濡れて、お風邪を召されております。医師を」
ぼんやりした頭で聞きながら、私はそっとルドルフの背に手を回し、胸に身を預ける。
「……お眠りですので、馬車へはこのまま私が運ばせて頂きます」
私の意図を察したルドルフが、私を受け取ろうとしたどこかの誰かに断りを入れ、そっと私を抱え直す。そして侍女の待つ馬車の座席に、静かに私を下ろした。
そして、さらりと、まるで偶然のように私の頬を撫でた。
「では、殿下をよろしくお願いいたします」
待機していた侍女に淡々と状況を伝えると、ルドルフはあっさりと立ち去る。
「あぁ、殿下。なんとおいたわしい」
「はやくお身体を拭いて、きちんとお着替えを」
慌てた侍女たちにてきぱきと世話を焼かれながら、私は上がってきた熱を理由に、じっと目を閉じていた。
去り際に頬を撫でた指の熱さがやけに鮮明で、落ち着かなかった。
「あの時から、僕はあなたをただの主君と見れなくなってしまったのです」
「へぇ、そうだったのか」
何でもないように返しながらも、私が本格的にルドルフを欲し始めた時期と重なり、私は笑みを噛み殺す。
「では、あの雨と刺客に感謝だな」
そう言って、私はルドルフの首に抱きついた。
どうやらあの刺客が放ったのは、恋の妖精の矢だったのかもしれない。
そう考えると、あの愚かな王妃に感謝である。処刑されたと聞くが、地獄で会えた時はお礼を言わなくてはなるまい。
「お前と私が夫婦となった暁には、あの小屋のあった場所に小さな離宮でも建てようじゃないか。……新婚の蜜月のためにな」
「ディアナさまッ!?ふざけないでくださいっ!?」
昨夜は狼そのもののような顔をして獣欲に狂っていたはずのルドルフが、少年のように真っ赤になって慌てるのを見て、私は声をあげて笑った。
「私の夢だ。実現できるように、頑張ってくれよ?私のルドルフ」
可愛らしい恋人の夢を、どうか叶えておくれ。
***
「それでは、行って参ります」
あの夜から数日後、いくつかの根回しと準備を早急に終え、ルドルフはこの城を離れた。
「あぁ、期限は三年だ。それまでに頑張ってくれないと、私はお前の甥っ子に嫁ぐし、処女でないと露見して死ぬことになるぞ」
「ははっ、ぞっとしませんね」
私の軽薄な脅迫に、ルドルフは肩をすくめて苦笑する。
「お前の有能さを私は知っているよ。……なんでもできるだろう?私のためならば」
「ええ、もちろん」
傲慢な問いかけに返された、自信に満ちた声に、私は笑みを深める。
正直、不安がないわけではない。私の我儘のために、ルドルフが死ぬのではないかという恐怖が、胸の奥底では揺らめいている。……けれど。
「待っているぞ」
「はい、お待ちください……必ずや、全てを手に入れて、あなたの元に戻ります」
向けられる強い眼差しに、しっかりと笑い返す。
私が生涯唯一と定めたこの男が、私の目の届かない場所で死ぬわけはない。ルドルフは一度として、私の期待を裏切ったことはないのだから。
「信じているよ。私の狼」
交わした口づけは、どこまでも力強かった。
***
「早かったな」
「努力いたしました。褒めて下さいますか?」
別れから二年と二月後。
帝国から早馬がやってきた。
皇帝が崩御し、新皇帝が即位したとの報だ。そして、早馬が到着した数時間後に、新皇帝自身が現れた。
突然の知らせに右往左往しながらも、なんとか整えられた広間に現れたのは、もちろん。
「ルドルフ……!」
国王代理として帝国を迎え入れた私の目の前に立っているのは、懐かしい男だ。
「あぁ、いや、失礼を申し上げました。大帝国第三十二代皇帝、ラダフォード陛下、とお呼びすべきでしたのに」
ギョッとした顔の帝国側の者たちを見て、私は苦笑して言い直す。
「いえ、どうかルドルフとお呼びください、王女殿下。言葉遣いも、どうか元のままで」
嬉しげに笑いながら私の前に立っているのは、私が名を与えた愛する狼だ。
「この度は随分と急なお出ででしたが、どのようなご用件で?」
「突然に押しかけてしまったのは申し訳ありません。どうしても、いち早く、と気が焦ってしまいまして」
からかうような笑みを浮かべながら、私は問いかけ、ルドルフも笑いを噛み殺しながら答える。周りにとっては驚天動地の緊急事態でも、私たちにとっては予定調和の茶番劇だ。
「僕は、あなたに改めて求婚しに参ったのです」
「婚約はもう整っているのに?」
「僕の口から直接お伝えしたかったので」
「ふふっ、真面目だなぁ」
やけに親しげな私たちのやりとりに、帝国側の付き人たちが騒ついている。ちらりと見回せば、皇帝への無礼に青ざめたり、憤然と顔を赤くしたり、もしくは動揺に顔色を無くしたりと様々だ。
一方、こちら側の者たちは、新皇帝の容姿についての噂を聞いていたこともあってか、ルドルフの顔を見て驚いているものの、どこか納得げな表情だ。
王女殿下の狼が、とうとう番を攫いにやってきたらしい、と。
「ディアナ王女殿下、どうか僕の妻となってください。この手をとって下さるのならば、僕はあなたへの、永遠の愛と忠誠を誓いましょう」
皇帝が膝をつき、帝国より国力が下の国の王女へ忠誠を誓うという台詞に、帝国の者たちは血の気の引いた顔をしている。そんな愉快な様を横目に、私はくすくすと笑いながら、慣れ親しんだ手を取った。
「ありがとう、ルドルフ。私の体も命も、この国も、私の全てをあなたに委ねましょう。私の全てはあなたのものです」
「ディアナ様っ!」
つんと手を引っ張ればルドルフは立ち上がり、喜色満面で私を抱きしめた。とんでもない誓いの言葉に、両国からどよめきが上がるが、そんなことは気にならない。待ちに待ったこの瞬間を、私は噛み締めるだけだ。
「新婚旅行は、初めて一夜をともにした、あの場所か?」
「っ、ディアナさま!?」
耳元で囁けば、ルドルフは顔を真っ赤に染めた。親兄弟を皆殺しにして帝位をもぎ取り、狂い狼と呼ばれる皇帝陛下が、随分と初心な反応をするものだ。
いつまでも可愛い私の狼に、私は心からの笑顔で笑いかけた。
「愛しているよ、私のルドルフ」
これからはこの男と好きなだけ抱き合えるのだと、私は幸せを噛み締めた。
入れきれなかった過去の二人の話(講義をともに受けることになる話etc.)なども、書けたら番外編にしたいと思います。短編にしては長くなってしまいましたが、読んで頂きありがとうございました。