未来の教育者が呟いたとして?
これは俺が、年配の同業者から聞いた話なんだが……
信じられないかもしれないが、かつてこの国では各学校の先生が、それぞれ好き勝手に授業をして、あまつさえ生徒の評価までしていたらしい。
しかも明確で厳格な基準があるわけでもなく、だから人によって評価の軸が変わることさえあったのだとか。
それだと、そもそも能力値の評価ですらないのでは? と聞いたところ、そんなことは誰もが承知だった。
生徒は学習よりも、いかに教師に好かれるかに苦心して、だから勘違いをする先生が大量に現れた。
そんな時代があったのだとか。
面白い話なのだがその時代の人は、しかも能動的に教師を選ぶことさえできなかったのだとか。
毎年度の始めに教科ごとに担当教師が割り当てられる。
生徒達は、それがどんなに気に食わない人であっても、その指導を享受しなくてはならないらしい。
どういう理屈で成り立っているのか意味不明だが、それが当たり前の時代があったらしい。
だいたいこれは、今の時代だから言えることなのかもしれないが、20人から40人単位の人間が、同じ部屋(かつては『教室』と呼ばれたらしい)に集まって、一斉に同じ講義を受けるなど、無駄の極みではないか。
ただべらべらと、知識を語るだけで給料を貰えるだけでなく、なぜか生徒達から尊敬されるとは、今を生きる俺からしたら羨ましい限りだ。
まあ今でも、一部の宗教団体ではそういうことが行われているらしいのだが。
思うに、その時代と今とでは、教師に求められる役割がまるで違うのだろう。
少なくとも俺は、この仕事に誇りを持っている。
一人一人の子供と向き合って、悩みを聞いて、他愛のない話をする。
活発な子を集めて一緒に走り回りながら、物静かな子達と一緒に読書をする。
時に何もせずに見守って、お節介でも声をかける。
一人一人の個性に合わせ。
日々変化する子供達に気を遣い先入観を捨てる。
訓練を受けているとはいえ、今でもたまに間違える。
それでも毎日、俺にできる最善を尽くして、子達のためにこの身を捧げ続ける。
こんな時代だからこそなのかもしれないが、一部の子供やその親は『教師ガチャ』などと言っているらしい。
なにせ子供の教育というのは成果が見えにくい。
悪質な教師であってもなかなか排除できないのは、ちなみに今も昔も変わらないのだとか。
だからこそ俺は「子供に尊敬されたい」などと、うぬぼれるつもりはない。
日々学び続けなくてはいけないのだと思う。
しらんけど