第三話 エリサベータ
企画3日目!
「ナーゼル伯爵様の御子息と顔合わせでございますか?」
エリサベータは愛する父、ヴィーティン子爵の話しに頬に右手を添えて小首を傾げた。まだ九歳という幼い身でありながら、将来は絶世の美女になるだろう片鱗を既に見せている、娘の愛らしい姿にヴィーティン子爵は相好を崩した。
「ああ、ナーゼル伯からお願いされてね」
「ですがお父様。ナーゼル伯爵様には、お子様はいらっしゃらなかったと思いますが……」
九歳の童女とは思えない聡明な受け答え。彼女は美しいだけの少女ではない。これがヴィーティン子爵が娘エリサベータを溺愛する理由。しかも、彼女の才智の源泉は仁愛であり、まっすぐ育った人柄は清廉で潔癖。
臣民が苦しむ姿に心を痛め、庶民を救うのに逡巡がない。貴族の令嬢としてありえない程に優しく育った。それは嬉しいことだし、ヴィーティン子爵としても愛娘のこの美質を大事にしてやりたい。
だが、とヴィーティン子爵は心配する。貴族たちの世界は清濁がない混ぜになって混沌としている。この美質は逆に貴族社会では住みにくい性質であると。
エリサベータが地方の小さな子爵令嬢で終わるなら問題はなかった。しかし、彼女は親の贔屓目抜きにしても間違いなくこの国一番の佳人となる。そうなると高位の貴族たちが娘を放っておかないのは明白だ。
才気はあっても清廉すぎる娘では魑魅魍魎が跋扈する宮廷で果たして無事にいられるか。このヴィーティン子爵の懸念はもっともなことである。
できれば娘には平穏に暮らして欲しい。そう思っていた矢先にナーゼル伯爵からレイマンとの交流を打診された。
レイマン・ナーゼルは元々ファルネブルク侯爵の嫡子。宮中で見かけたことがあったが才気あふれる少年であった。このまま育てば清濁合わせ持つ立派な貴族になれそうだと思えた。
彼ならあるいはとヴィーティン子爵は考えていたので、渡りに船とばかりに話に乗ったのが今回の経緯である。
「エリサの言う通りだ。伯は数年前に事故で御子息を失っておられる。だが、一年前に養子を迎えられた」
少し浮かれ気味の父にエリサベータは少し思案する素振りを見せた。
「ナーゼル伯爵位はファルネブルク侯爵様の所有されているもの……お父様、その養子の方は王都で噂の廃公子ですか?」
ヴィーティン子爵は舌を巻いた。本当に九歳児なのだろうかと、自分の娘ながら少し空恐ろしさを感じる。領地から出たことのない少女がどうやって王都の噂を知ったのか。
「ああそうだ。今はレイマン・ナーゼルと名乗っている」
「そうですか……」
考え込んだエリサベータの姿に娘は乗り気ではないのかとヴィーティン子爵は焦った。
「早計であったか?嫌なら今からお断りしても……」
「いえ、嫌ではありません。ただ……」
その美しい相貌を曇らせる娘に廃嫡される子息に忌避感があるのかと、ヴィーティン子爵は己の浅慮を呪いたくなった。
「私は王都のご令嬢の様に垢抜けてはおりません。レイマン・ナーゼル様は御母堂を亡くされ廃嫡までされた身。その傷心やナーゼルの地での無聊を慰めるに私では力不足ではありませんか?」
これ程の受け答えができる同年代の貴族子女がいったい何人いることか。ヴィーティン子爵は苦笑いした。
「エリサに無理なら、この辺りの子女は全て無理さ」
この言葉でエリサベータのナーゼル行きが決まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
窓から外を見上げれば、出立時のヴィーティン領は快晴であったのに、ナーゼル領に入ったあたりから空がどんよりと曇り始めていた。
──レイマン・ナーゼル様も、この空の様なお気持ちなのでしょうか?
レイマンが実母を亡くし、嫡子の座を追われたことはエリサベータも知っていた。
──お可哀想に……
エリサベータが視線を自分の持つ書類に戻した。これから会うレイマンについての王都から現在に至るまでの情報をヴィーティン子爵が纏めたものだ。
エリサベータは、その報告書を自領から開かずにいた。
──やはりこれからお会いするのに下手な先入観は必要ありません。
軽く首を振るとエリサベータは書類を放棄した。
別に交渉や戦いに行くわけではないのだ。友好関係を結ぶに当たり、エリサベータは第一印象を大切にしようと考えた。
──先入観は邪魔になります。それは直感を曇らせるから。
レイマンの為人を肌で直接感じようと、エリサベータは決意した。人との出会いは時に直感こそが重要になる事を、まだ幼いエリサベータは知っていた。
再びエリサベータは車窓から外を眺めれば、やはり雲は晴れていない。そのことがエリサベータには気がかりだった。
「ナーゼルも自然が豊かでございますね」
侍女と従者の二人が座っている。今回、エリサベータについて来てくれたヴィーティン家の家人だ。その歳の頃が二十になろうかという侍女が口を開いた。
「そうね……」
確かにナーゼルは良い土地だ。だが、王都という都会からやってきたレイマンには、苦痛な田舎の地かもしれない。そう思いを巡らせていたエリサベータの視界に赤い花が数輪過ぎった。
「あら?」
その後もまばらに同じ花が咲いていて、所々でその赤がエリサベータの目を楽しませた。嬉しそうな様子のエリサベータに気が付いた侍女は、エリサベータの視線を追って赤く愛らしい小さな花に目が止まった。
「まあ!ポピーですね。まだ少し早いですが、咲き始めているものもあるようです」
「ふふふ……可愛い」
エリサベータの花も綻ぶ様な笑顔に従者と侍女は胸を撫で下ろした。ヴィーティン領を後にしてからエリサベータの表情が今の空の様に曇っていたのを心配していたのだ。
突然、エリサベータの胸中に予感めいた想いが湧いた。レイマンとの出会いはきっと良いものであると。そして、レイマンとは付き合いが長くなりそうだと。
車窓から車内に光が刺す。灰色がかった暗い雲の隙間から光が漏れ出て大地に降り注ぐ。
ナーゼル邸へ向かって走る馬車をそんな優しい光が包みこんだ。
「この晴れ間は吉兆。きっとレイマン・ナーゼル様は良き人です」
エリサベータには確かな予感がした。レイマンにもエリサベータにも全てがいいようになるのだと。
馬車は光を纏いながらナーゼルの大地を進む。空を見れば次第に雲は流れて太陽がその姿を現した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
従者の手を借りて、エリサベータはナーゼルの地に足を下ろした。
そのエリサベータを出迎えたのは、身なりの良い老人と十歳くらいの少年であった。
「子爵令嬢エリサベータ・ヴィーティンだね?私はこの地を治めているクリストル・ナーゼルだ。こっちが私の義息のレイマンだ。招きに応じてくれて感謝する」
老人の方がエリサベータへ声を掛けたので、エリサベータは背筋をピンと張った状態から右足を引き、膝を深く折って少しだけ頭を下げる。童女とは思えぬ見事な跪礼。
「お初にお目文字つかまつります。私はヴィーティン子爵の娘エリサベータ・ヴィーティンと申します」
跪礼の姿勢を維持したまま相手の出方を待つエリサベータ。しかし、どうしたことか、一向に声が掛からない。
実はこの跪礼を維持するのはかなり大変だ。それを揺れ動く事なく、綺麗な姿勢を保つエリサベータは九歳にして体幹をかなり鍛えている事が窺える。
とは言え、やはりこの姿勢でいるのは、幼いエリサベータには辛い。どうしたものかとエリサベータもさすがに困ってしまった。
「ごほん、ごほん」
ナーゼル伯爵の態とらしい咳払いに、エリサベータは少年が動く気配を察した。
「お、お、お招きに応じて、く、くださり、か、感謝の念に堪えません。え、遠方より、よ、ようこそいらっしゃいましたエ、エリサベータ嬢」
その挨拶でエリサベータはやっと跪礼の姿勢から解放され、身を起こして近づいて来た少年を見上げた。
「ぼ、僕はレ、レイマン・ナーゼルです。レイとよ、呼んでください」
──愛称呼びをお許しに?心証は悪くないようですね。
「では私のことはエリサとお呼びください」
エリサベータが優しく微笑むと、レイマンの様子がまた一段とおかしくなった。
──随分と緊張されておられるのですね。
「エリサベータはしばらくナーゼルの別邸に逗留することになっている。仲良くするといい」
そのレイマンの様子にナーゼル伯がやれやれと救いの手を差し伸べた。その様子は呆れるというより可笑しそうな雰囲気で、おそらくレイマンの様子は普段と違うのだろうとエリサベータには分かった。
「別邸までご案内します」
貴族令息らしい仕草で、幼いながらも様になっていた。さらりとこういう行動が出来るあたり、やはり普段の彼とは違うのだろう。
「ありがとうございます」
そう礼を述べてエリサベータは差し出された手に、その手をそっと添えた。彼の手は手袋越しにも熱を持っていることが分かり、その熱量はレイマンがエリサベータを拒否していないのだと彼女に教えてくれた。
この時エリサベータはまるで時間が止まった様な感覚を受けた。手を取るレイマンは一枚の絵画の様に美しく、エリサベータの瞳を覗く青い瞳は深く澄んでいた。
思わずエリサベータもレイマンの瞳を同じ蒼色の瞳で覗き込む。
じっと見詰め合う二人の間に一片の花びらがひらりと舞った。
と、ふわりと優しい風が吹き抜けた。
可愛らしい薄桃色の花びらを数片ヒラヒラと運んできた暖かな風が、エリサベータの艶やかな白銀の髪を軽く嬲り、彼女のスカートに悪戯をする。
不意にエリサベータの手をレイマンが少し強く握ってきた。
大人びていてもまだ恋愛経験に疎いエリサベータは、不思議そうに茫然とするレイマンを見詰めて小首を傾げた。
だがこの時、エリサベータには予感がした。
彼とは長い付き合いになりそうだと……
幼いエリサベータは、これが恋の予感だとはまだ気がついていなかった。




