第二話 初恋
レイマンはよく笑う明朗な少年だった。物腰が柔らかく社交性に富み、王都での交友関係は広かった。彼の周りには貴族子女が集い常に賑やかであった。
それを一変させたのが、父ファルネブルク侯爵による母への裏切りと嫡子の交代劇であった。父が後妻を娶ると、レイマンとの仲は険悪なものとなり、遂にはレイマンは嫡子の座を奪われた。それを知るや友好を結んでいたはずの貴族子女が、一人を除きことごとくレイマンから距離をとったのだ。
──何奴も此奴も嫡子になれないと分かればこれか!
貴族というものがレイマンをファルネブルク侯爵家の跡取りとしてしか見ておらず、レイマンは自分個人を見ていなかったのだと痛感した。
だからだろう。人を信用できなくなった彼は何処か他人を寄せ付けない雰囲気を纏うようになった。
「おはようございます。レイマン様」
「ああ、おはよう」
ナーゼルの屋敷でも家人に対して驕慢な態度をとることはなかったが、挨拶にも言葉を返す程度で、それ以上は関わろうとせず何処か壁を作っているようだった。
また、王都という都会で育ったレイマンにとり、閑静とした田舎のナーゼルの水はなかなか合わなかった。その為、彼は屋敷に引き篭もり、代わりに勉学に励む日々を送った。そのことが皮肉にもレイマンの才能を僅か一年で開花させ、あまりに優秀な義理の息子にナーゼル伯も舌を巻いた。
しかし、内に憎しみを溜め込み、外を見ようとしない彼の抱える闇は思ったより深い。ナーゼル伯は危機感を覚えた。冷たい表情を他人に向ける今のレイマンを見て、ナーゼル伯はこのままではいけないと思う。
少年期の経験は人生において貴重なものだ。この聡慧な少年の二度とない貴重な春秋を、あの恥知らずな男への憎しみで食い潰されることはあってはならない。
だが、これは言葉を尽くして説諭しても理解できるものではないし、納得もできないだろう。ともに経験を重ねてくれる同年代の友人が必要だ。それでこそ本当の意味で心に巣くう闇から、レイマンを解放することができる。
そこで、白羽の矢が立ったのが隣領ヴィーティン子爵の愛娘エリサベータ・ヴィーティンであった。ナーゼル伯としては同性が良かったのだが、この田舎の地に適当な子息がいなかったのだ。
「ヴィーティン子爵令嬢ですか?」
エリサベータ・ヴィーティンの来訪について話しを聞いたレイマンは顔を顰めた。ナーゼル伯はレイマンのあまりに予想通りの反応に苦笑いした。
「ああ、レイの相手にちょうどよいと思ってな」
「相手……ですか」
表情を消したレイマンは、ナーゼル伯をじっと見詰めて言葉を待った。
「ナーゼルにはレイとちょうど釣り合いの取れる貴族子弟がおらんからな。貴族は人と接することを忘れてはならんよ」
「貴族子女の相対など不要と思われますが……父上がそこまで仰るのでしたら」
不承不承に答えるレイマンの態度にナーゼル伯は苦笑いをした。
そして、ヴィーティン子爵令嬢が来訪する当日。他人と会うことに忌避感を抱いているレイマンは、この会合に乗り気ではなかったが、礼儀としてナーゼル伯とともに屋敷の前まで出迎えた。
「レイ。来て貰っているのだ。あまり嫌そうな顔をするでない」
「心得ております」
そう答えて女性が好みそうな美しい無感情の笑顔を作るレイマンに、ナーゼル伯は子供とは思えぬ見事な擬態に感心するとともに、彼の他者を受け付けない頑なさに呆れを含む、なんとも言えない苦笑いを浮かべた。
──ふん!貴族の女なんてみんな同じさ。宝石やドレスのことにしか頭に無い、くだらない奴らばかりだ。相手をする価値もない。
王都での貴族令嬢のことを思い出す。隆盛を誇るファルネブルク侯爵家の嫡子であった時には、蟻が砂糖に群がる様に集い持て囃していたのが、嫡子の座を追われると一転、今まで阿諛追従が何であったのか、レイマンを他人の様に冷淡にあしらった。
──いや、貴族の男どもも信を置けない奴らだ。
親友の様に振る舞っていた貴族子息達も、ナーゼルの田舎に引き篭もったレイマンと今でも交流があるのは僅かに一人。
──あいつは元気かな?
この一年、唯一手紙の遣り取りをしている、甘そうな蜂蜜色の癖っ毛をした人好きする優し気な顔の友人を思い出して、冷えた心に少しだけ温度が上がった様に感じた。
これから来る貴族令嬢の事を考えて重くなった気持ちを、レイマンは唯一無二の親友を頭に浮かべて自分を慰めた。やがて門扉が開け放たれ、そこから鹿毛の二頭立ての馬車が入ってきた。馬と同じ赤茶の飾り気のない、しかし品の良い車体がレイマン達の前で止まる。
レイマンは再びげんなりした気分に引き戻された。
──まあ、父上の顔を立てられればいいだけさ。
そう割り切って、愛想の良い笑顔の仮面を貼り付けたレイマンは、令嬢が降車してくるのを待ち受けた。
だが、馬車の扉が開かれ、踏み台に足をかけた童女を見てレイマンは息を飲んだ。
簡素だが幼い少女らしい薄い水色の可愛らしいワンピースに身を包み、従者の手を借りて踏み台に足をかけて降り立つ光景は一枚の絵画の様で、レイマンはその少女に見惚れてしまった。
年齢は自分よりニつ下と聞いているので九歳であろう。まだ幼くはあるが、プラチナの様な白銀の長い髪は煌めいている様に見えて美しく、その愛らしく小さな唇は薄桃色で、服から覗く白磁を思わせる白くきめ細やかな肌には染み一つ無く、芸術性の高い一点物の磁器人形を思わせる。
だが何よりもレイマンの心を掴んだのは、彼女の双眸に収まる二つの蒼玉。レイマンを見詰めるその瞳は、今まで見たどのサファイアよりも蒼く、美しく、澄み、輝いていた。その至玉に貴族たちはこぞって大枚を叩きそうだ。
その童女とは思えぬ恐ろしい程の美しい相貌。おそらく王都の同年代の貴族令嬢たちで彼女に匹敵するのはハプスリンゲ公爵家の珠玉アグネス・ハプスリンゲだけだろう。
だがレイマンは以前ハプスリンゲ嬢と対峙したことがあったが、その時にはここまで動揺はしなかった。
「子爵令嬢エリサベータ・ヴィーティンだね?私はこの地を治めているクリストル・ナーゼルだ。招きに応じてくれて感謝する」
そんなレイマンの動揺を他所に、ナーゼル伯はすぐにその少女を歓待した。持て成しを受けて少女はナーゼル伯に優美な微笑を向ける。
「お初にお目文字つかまつります。私はヴィーティン子爵の娘エリサベータ・ヴィーティンと申します」
自分よりも歳下の少女が、目の前で挨拶をする際の見事な跪礼。その声は凛としていて、童女とは思えない澱みのない明瞭な物言い。
レイマンは自分の顔が上気している自覚があったが、どうにも己自身を律することができない。心臓が早鐘の様に煩い。頭が真っ白になって、体がふわふわする。何か良くない病気を患ったのだろうかとレイマンは真剣に考えた。
ゴホン、ゴホンっとレイマンの横でわざとらしくナーゼル伯が咳払いをした事で、レイマンは己の失態に気がついた。返礼をしていなかった。
「お、お、お招きに応じて、く、くださり、か、感謝の念に堪えません。え、遠方より、よ、ようこそいらっしゃいましたエ、エリサベータ嬢」
舌が上手く回らず、それが焦りに拍車をかける。レイマンはあまりに酷い自分の有り様に、羞恥で上気したのを自覚した。何とか取り繕わないと、と思えば思うほど悪化する。
「ぼ、僕はレ、レイマン・ナーゼルです。レイとよ、呼んでください」
「では私のことはエリサとお呼びください」
にこりとレイマンに微笑みを向けるエリサベータの顔は、年齢よりもずっと大人に見えた。その笑顔は朗らかで王都の貴族子女達の無感情な微笑とは全く異なるものであった。
レイマンはその優しい微笑みにもどきりと心臓を高鳴らせた。
──情け無い。
レイマン自身も王都では稀な美少年と持て囃され、侯爵家の跡取りとして磨いた洗練された所作も相俟って、同年代の令嬢たちから秋波を送られていた。ナーゼル領では修学に励み、同年代の貴族子女の誰にも劣らないと自負してもいた。
それなのに、歳下の少女にあたふたとみっともない。しかも挨拶を返すのを忘れて、その少女に長時間カーテシーの姿勢をとらせてしまった。大失態である。レイマンは自己嫌悪に陥りそうだった。
「エリサベータはしばらくナーゼルの別邸に逗留することになっている。仲良くするといい」
そんな年頃の少年を微笑ましく見ながら、ナーゼル伯はこのニ人の出会いはきっと好ましい結果をもたらしてくれると予感がした。
普段は大人びた言動を心掛けているレイマンが、ナーゼル伯の言葉にコクコクと頷くだけしかできない珍しい姿を周囲の家人たちも微笑ましく見守っていた。
「別邸までご案内します」
何とか浮つく気持ちを鎮め、姿勢を正して繕うと、レイマンは今ある全ての勇気を振り絞って手を差し出すした。途端、エリサベータの表情が一転した。大人びたたおやかな笑顔がパッと花が咲いたような明るく可愛らしい笑顔に変わったのだ。
そのエリサベータの変化は、まるで薔薇の様な大輪の美しい花が咲くと予想される蕾から、ちいさな菫の様な可憐な花が咲いた様で、レイマンの視線は釘付けになった。
「ありがとうございます」
そう礼を述べてエリサベータは差し出された手に、その手をそっと添えた。エリサベータの手はとても小さく華奢で、それでもしっかりと彼女の温もりをレイマンに伝えてきた。
やっと落ち着いたレイマンの心臓がドクン!っと大きく跳ね上がり、胸がキュゥっと締め付けられる。自然とレイマンは息を飲み、呼吸ができなくなった。彼女の添えられた自分の手から汗が滲み出るのがわかる。まだ少年のレイマンはする必要のない手袋を、気取って身に付けていたのだが、そのお陰で手汗をエリサベータに気付かれずにすんだ。全く、自分の幼い虚栄心と手袋に感謝したい
──どうすればいい?この後はどうすればいい?
レイマンは狼狽して思考が纏まらない。エリサベータの手を取ったまま固まり、視線は辺りを彷徨う。そんなレイマンの視界に一片の花びらがひらりと舞った。
と、ふわりと優しい風が吹き抜けた。
可愛らしい薄桃色の花びらを数片ヒラヒラと運んできた暖かな風が、エリサベータの艶やかな長い髪を小さく乱し、彼女のスカートの裾が軽く翻った。
風光る季節。思春期の少年はその光景に目を奪われ、心を揺らされた。頭の中は何も考えられずに真っ白になり、口は言葉を発するのを忘れてあわあわと戦慄き、足は地につかずふわふわと宙に浮いたようにおぼつかない。
彼女の添えられた手を思わず握り締め、エリサベータが不思議そうにレイマンを見詰めて小首を傾げると、その美しくも愛らしい仕草に、レイマンはボワッと顔が発熱したように熱くなった。心臓は痛い程に高鳴り、体は全く自分の意にそぐわない。
まだ未熟なレイマンは思う。自分はいったい何の病気を患ったのか?
レイマン・ナーゼル十一歳の春。これが彼の初恋であった。