存在?
日向は、バイトを二つ掛け持ちしている。カラオケ、居酒屋、そこに学業がプラスされると、身体は疲れるを通り越して放心状態になる。
「じーちゃん、シンッ!」
そんな日向だが、月に一度、どんなに疲れても行くところがある。
「おぉ、久信!よう来たな」
何度自分の名を名乗っても、どうしても父親の名になってしまう、ボケてしまった祖父の家だ。
「具合どう?」
「お前、学校は?」
「日曜。休みだよ」
祖父の久志は、そうかそうかと呟いて、日向の頭を撫でる。
「友達はできたか?お前は内弁慶だから、なかなかできないだろ?」
「まぁね」苦笑いする。
「でも、みーちゃんがいるからこの家も安泰だ。あの子ほど、出来た娘はいないよ」
みーちゃん、三咲。母親だ。父と母は幼なじみで、両方の親もいつか二人に結婚してもらいたいと願っていた。
「だから久信!しっかりみーちゃんのこと捕まえとくんだぞっ!」
「分かってるよ」
祖父といると、自分の知らない父親に会える気がして嬉しくなる。
聞きたいことが沢山あった。やりたいことも沢山あった。父親と過ごした時間は確かにあったけれど、何一つ覚えてないのは何故だろう。
あの日、自分を置いて逝った両親の死に顔さえ、日向には記憶がなかった。
「元気そうで安心したよ。じーちゃん、なんか欲しいものある?」
思えば、祖父に痴呆が始まったのも、日向の両親が亡くなって間もなくだった。
祖父の中で、両親はまだ生きているのだ。
「欲しいもの?小遣いを貰っている身分で、お前も随分、生意気なことを言うなぁ」
痴呆は進む一方だが、こうして祖父が笑っていてくれさえいれば、日向はそれだけでよかった。
「そうだな、久信。じゃ、満点のテストを持ってこい」
例え、祖父が自分の存在を認知していなくても。
「あら?シンちゃん、来てたの?」
突然、背後からした声に、日向の表情は固くなった。
「偉いよね。毎月必ず様子見に来るなんてさぁ。うちの親なんか、三ヶ月に一回も来てないわよ」
現れたのは、父方の従兄弟の朝倉サエだった。同い年で、正月には顔を合わせていたが、いつも強気な態度のサエが、日向は苦手だった。
「久しぶりね。元気してる?」
「あぁ…」
「…相変わらず、暗い顔してるのね。不幸が移りそう」
いつもこうだ。サエは、人が傷つくことなんてお構いなし。彼女の口は、毒舌しか吐けないようになっているのだ。
「でも、叔父さんたちが亡くなってから、シンちゃんも苦労してるよね。普通の高校生ならしなくてすむさぁ」
哀れむ目つきと、笑みを浮かべる口元、彼女の表情に表れる善と悪が同時に見えた。
「あんなことがなければ、今頃、幸せだったに違いないのに…」
黙れ。
サエの手が、ゆっくりと蛇のように日向の顔に纏わり付く。
「…また、慰めてあげるよ」
黙れっ。
感情とは裏腹に、身体は動けなくなる。サエの唇が自分の口に触れても、それを突き飛ばすことすらできなかった。
「久信っ!!何してるんだ!」
隣から聞こえてきた祖父の声で、やっと呪縛がとかれた。
「触んなっ!」
サエの腕を振り払う。
「無理しちゃって。分かるよ、シンちゃんの気持ち」
お前に分かるわけない。
「叔父さんたちもいない、おじいちゃんもボケちゃってる、親戚だって赤の他人同然!」
高笑いする声に、鳥肌が立った。
「あなたを認めてくれる人なんて、この世のどこにもいない。その恐怖に、いつも襲われてるんでしょ?」
「消えろっ!」
やっと叫んだ声だった。
「久信、どうしたんだ?」
祖父が慌てて入ってきた。
違う。
俺は、久信じゃない。
シンヤだよ。
日向は、逃げるように祖父の家を飛び出した。
サエの言う通りだった。どんな自分でも認めてくれる両親がいなくなってしまった日から、日向の存在を証明してくれる人は消えた。
他人と上手く付き合えない彼を、無愛想な彼を…
愛してくれる人間は、誰もいない。
祖父を家を飛び出し宛もなく歩いていると、時間はあっという間に夜を迎えた。明日からまた、学校とバイトの往復生活が始まる。そんなことをぼんやりと考え、家の前の道路に差し掛かった時だった。
誰かが、しゃがみ込んでいる。
「大丈夫ですか?」
「…はい、少し気分が悪くなって…」
細い腕を掴み、ゆっくり身体を持ち上げる。青白い顔をした女性だった。
「あの、誰かに迎えに来てもらったらどうですか?」
「いえ…一人で、帰れます。ちょっと昔のことを考えてたんです」
女性は優しい笑みを見せたが、顔の青白さが、その優しさを半減させていた。
「…恋人が、ここで事故にあったんです。飲酒運転の車に跳ねられて…」
言葉が浮かばず、日向はとっさに俯いてしまった。
「呆気ないですよね、死って…こんなに突然、無情に訪れるんだから…」
本当そうだ。まるで、神様がダーツでもして、たまたま投げた矢が刺さった人間を殺しているみたいだ。
「私…本当…なんで…」
力が抜けたようにまたしゃがみ込む女性に、手を掛けることさえできない。
何で、死んでしまったんだ。
頭の中で、その疑問ばかり揺らいでいる。
「うっ…ぐっ…えぇ」
しかし次の瞬間、日向は後退りした。
女性の背中がパックリと割れ、また液体が流れ出す。
解放されたっ。