2 翌日、皆で会食しました
ようやく寝入ることができたのは、ベッドに入ってからだいぶ時間がたっていたはずだ。
ゆさゆさと揺らされているのはわかるが、もう少し眠っていたい。
「……メリッサ、もう少し寝かせて」
睡眠不足は美容の大敵。美容対策は幼いころから、というのが母の教えだ。これ幸いにと、それを口実にして寝坊することは多いけれど。
メリッサに勝てたためしはない。
「もう、朝でございますよ」
「ねぇ、もう少しだけ」
もう少しだけでいいの。
ただでさえ慣れない主役なんて言う立場に置かれて、夜会の夜の部にまで引っ張り出されたのだ。
ダンスをした回数だって、通常を上回る。
あちこちが筋肉痛だ。
「朝日ももう出ているんですよ」
シャッ とカーテンの引く音がすると同時に閉じた瞼に鋭い光が差し込んできて、思わずシーツに潜り込んだ。
メリッサだって夜会に駆り出されていたのだから、かなり遅かったはずなのに、いつも通りに起こしに来るなんてさすが侍女の鏡。けれど、もう少し寝たい。
「昨日だって、仮病で私室に戻られたことぐらい、このメリッサには全部お見通しですよ」
「……んん……」
まぁ、メリッサの目はごまかせないだろうなぁとは思ったけれど。
人酔いするほど軟な神経をしているわけじゃないことぐらい、幼いころから体調管理まで行っているメリッサにはわかってしまうのは当然だ。
当然だけれど。
眠いのは本当なのに。
「さ、起きてくださいませっ」
ばさりとシーツをはぎ取られた。
ううっ 寒い。
体を丸めようとした瞬間、メリッサの悲鳴に目が醒めた。
「きゃぁぁっ なんて言う格好を!」
……恰好? 恰好って何のこと? ちゃんとドレスは脱いだはずだけど。
驚いた拍子に起き上がったが、メリッサが何に驚いているのかわからない。
「まさかっ あ、あ、あ、あ、あ、あ、アルフォード様が……っ いや、でもっ お嬢様はまだ10歳でいらっしゃるのにっ」
何? アルフォード様がどうかした?
「あの、メリッサ?」
「昨日、アルフォード様と何があったのです?! よもやと思いますが、何か間違いがっ いえ、婚約されたのだから間違いというかっ でもっ」
要領を得ないその言葉の羅列を聞いて、何を誤解しているのかわかった。
昨日、夜会を途中で抜け出したときにアルフォードに部屋まで送られた。それは周知の事実だ。だから、二人きりの部屋で何事かあったのかと誤解しているのだ。
20歳と10歳で間違いなどおきるわけがないのに。
しかし、いったいどうしてそんな誤解が。
そう思って何気に自分の体を見下ろして、わかった。
しまったっ そういうことか!
「メリッサっ メリッサ落ち着いて! 何もなかったわっ アルフォード様はすぐにお帰りになられたし、疲れていたから私が着替えを横着しただけなの! 何もないのよ!」
とんでもない誤解だ。
もう5、6年先なら、そんな誤解を受けたって当然かもしれないが、さすがに10歳という年齢でそんな誤解が起きるとは思わなかった。
昨日の夜会でも、アルフォードが部屋まで送るという言葉に誰もが微笑ましくしていたのだ。誰一人、止める者もいなかったというのに。
よもや、ネグリジェを着るのを面倒がって下着で寝ていたくらいで、こんな騒ぎになるとは。
寝ていたから乱れはあるが、そういうあとの乱れじゃないことぐらいわかりそうだけど。
……それとも、そんなに寝相悪いのかしら。
「そ、そうでしたか」
「そうよ、その、メリッサが何を誤解したのかわからないけれど、そんな大声で叫んでだれか来たら、こんな恰好恥ずかしいわ」
何モ知リマセン。何モワカリマセン。
すぐにピンと来たのは、さすがに知識としてあるからだ。だが、10歳の時はそんなことに興味もなかったと記憶している。
耳年増な茶会の友人たちなら、わかるものもいるかもしれないけれど。
知らないわ、わからないわ。でも、メリッサが何か誤解しているみたいなの。
うん、それで通そう。
「ま、まぁそうでしたわね。申し訳ありませんでした。すぐに湯あみの準備をいたしますわ!」
「お願いね」
髪も昨日のままで寝てしまったからぼさぼさだし、久しぶりにした化粧も落としてない。10歳の肌なら大丈夫かもしれないが、万が一ぼろぼろになったら、本当に嫌だ。
せっかく十代のみずみずしい肌なのに。
さっくり汚れを落として、いつもの自分に……
「くしゅんっ あー、さすがに朝は冷えるわ」
あたりを見回して、昨日着損なったネグリジェがベッドの上にあるのに気付いた。
部屋に戻ってすぐに眠れるように、メリッサが用意していたものだろう。さすが、有能侍女。
もう寝る気はないが、いそいそとネグリジェを着込み、再びシーツに潜り込んだ。うん、幾分か温かい。
けれど、ちゃんと温まりたい。
早くメリッサ来ないかなぁ。
いろいろと支度に時間がかかっていることはわかるが、温かいお湯が恋しい。
メリッサは、お湯を張っている頃だろうか。それとも、着替えを用意している頃だろうか。
着替え……
「あっ」
そうだ、今日はおじい様とおばあ様を交えての会食の予定だったのだ。
そして昨日のささいな意趣返しのために、欠席する予定でいたのに。
「どうしよう。これじゃ、部屋に籠城できないじゃない」
仮病はやっぱりばれていたから、この手は使えない。やるなら、数日前から具合がよくないことを主張していなければだめだろう。
じゃ、どうするのか。
筋肉痛で動けないこと以外は、しっかり健康体だ。
昨日のダンスのしすぎで足を痛めたことにしておくか。いや、医者を呼ばれても困る。
いい案が浮かばない。
「昨日は名案だと思ったんだけどなぁ。はぁ」
夜会の熱に浮かされていたのかもしれない。
そもそもあのアルフォードも出席するのだ。あの人に嘘は通じない。あっという間にこの部屋から連れ出されてしまう。
簡単に想像できてしまう。
つまり、この案は却下だ。
意趣返しの方法を変えるのが、建設的か。
「お嬢様、湯あみの準備が整いましたよ」
「はぁい」
シーツから抜け出して、となりの部屋へ向かう。
暖かな湯気が部屋中を満たしていた。
「おはようございます、フェルスローズ様」
「おはよう、みんな」
フェルスローズにつかえている侍女はメリッサだけではない。いわゆる、メリッサの部下に当たる侍女たちが数人ついている。
湯あみは、彼女たちの仕事だ。
丁寧に髪を洗われ、山のように泡立てた泡に全身を覆われる。
昨日の化粧も、髪を固めていた香油も綺麗に流される。
「改めまして、ご婚約おめでとうございます」
「おめでとうございます。あのアルフォード様がお相手なんて、国中の女性に羨ましがられてしまいますね」
「……ありがとう」
うん、羨ましがられる程度で終わればねぇ。
そもそも、他の人がどう思っていようが自分がアルフォードを何とも思っていないのだから、嬉しくもなんともないんだけれど。むしろ、面倒で仕方ない。
なんてことを、言えるはずもない。
彼女たちだって、よくこの屋敷を訪れるアルフォードに憧れていたのを知っている。
さすがに主人の婚約者を奪う気はないだろうが、一夜限りの関係を期待している可能性はある。
だが、それで彼女たちが泣くのなら是非にでもアルフォードに釘を刺しておかなければならないだろう。
「今日もいらっしゃるのでしたね。とびっきり美しくしなければ」
「もう、磨きに磨きをかけましょうね」
好きにしていいよ。
どう磨いても子供は子供でしかない。恋する乙女なるものだったら目一杯おしゃれすることを考えるのだろうけれど、着飾ってもそれがどうだというのだ。
言葉一つで変身できる魔法少女じゃあるまいし、劇的に変わるわけでもない。
まして、あのアルフォードの態度が変わるわけでもない。
少しは変わるというのなら、いくらでも着飾るんだけれど。
「お願いね」
表面上は嬉しそうに笑ってみせる。
うん、無邪気。無邪気は必要。
綺麗に洗われ、丁寧に乾かした髪を櫛で梳かれ、普段より豪華なドレスを着せられる。母の趣味がばっちり反映した、どピンク。
女の子は絶対にピンクだと言って譲らない母は、姉たちにも年頃になるまでピンクを強要した人だ。フェルスローズにも、あと数年はピンクを押し付けるだろう。
せめて、もっとこう、淡い色とかにはできないかしらね。
人それぞれに似合う色というものがある。
フェルスローズ自身はパステルカラーが自分の色だと認識しているが、娘の服に関する権限は母にある。それがこの家の状況である限り、ピンクを着続けるしかない。
たまに違う色のものもあるが、9割がたピンクのドレスだ。
出入りの衣装屋も、まるで対抗するかのようにさまざまなピンクを披露し、結果、衣裳部屋には目が痛くなるようなピンクの山が出来上がっている。どれも、微妙に色彩が違う。
だが、その中からドレスを選ぶ侍女には気の毒なことだ。色で選ぶことができないのだから。
「今日はパールの髪飾りにしましょうか」
パールもまた、ピンクパールである。希少価値のある天然ピンクパールの髪飾りなど、早々持っている貴族もいないくらいに貴重で高価だ。よくそんなものを、10歳の娘に与えたものである。
「ええ、そうして。可愛くね」
似あおうが似合わなかろうが、好きだろうが嫌いだろうが、母のご機嫌をとるためのピンクだ。ピンクであることに文句を言う気力は、とうの昔に消え失せている。
だから、自分の衣装はすべて侍女任せ。
自分で選ぶ気も起きない。
ピンクで飾り付けられていくほど、かわいらしい人形のような少女が鏡の中にあらわれる。悲しいかな、それでもピンクが似合ってしまうのだ。
ふわふわにされた髪にも、ピンクのリボンが絡まる。
……これで社交界に出ろと言われたら、泣くかもしれないわ。
まだ10歳でよかったと、心の底から思う。
子供ならまだ許される。
「アルフォード様がいらっしゃるんですものね」
「可愛くしなければいけませんものね」
侍女たちは楽しそうに笑っているが、フェルスローズ自身は全く楽しくない。
楽しくないが、楽しそうにするべきだろう。社交界の中でも注目の的、アルフォードとつい昨日婚約したばかりなのだ。
うきうきしておくべきなんだろうが。
憂鬱でしかないわ。
「はい、終わりましたよ」
「今日も、かわいらしいですわ、フェルスローズ様」
「ありがとう。あなたたちのおかげだわ」
椅子から立ち上がり、くるりとまわってみせる。
ふんわりとピンクのドレスが広がった。
「今日も一段とかわいらしいな」
「!」
鏡に映らない部屋の隅の人影は、いったいいつからあったのか。
心臓が止まりそうなほど驚いて振り返った。
「まぁ、アルフォード様。いつからいらっしゃったのですか?」
「お着換え中だったら、どうされるんです」
侍女たちが苦言を呈すが、本気ではないのは明らかだ。
なぜ、そんなに笑顔なのか。
主を大切にするなら、もっと怒ってしかるべきなのだと思う。どう見ても口先だけで、来たことを歓迎しているように見える。
……どうせ子供だもん。着替え見られても、大したことないもん。ふんっ だ。
心の中でだけ拗ねてみる。
「ごきげんよう、アルフォード様」
「ああ、おはよう、婚約者殿」
にこやかに笑ってみせたが、まるで狐と狸だと思ったのは、きっと自分だけではないはずだ。アルフォードのように、面白がったりはできないけれど。
背筋を伸ばしてアルフォードに近づいて、さも嬉しそうに胸の前で手を組んだ。
「わざわざ迎えに来てくださったのですか?」
「もちろん、かわいい婚約者殿の顔を早く見たくてな」
よく言う。
嘘八百を並べて、一体何人の女性を騙して誑かしてきたのか。社交場の噂話が茶会仲間から耳に入るようになってから、相手の女性の名前は常に一致してこなかった。
つまり、大半の言葉は、偽りだと思うべき。
「まぁ、恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがらず、そのかわいい顔を見せてくれないか?」
うっわー、げろ甘。あまりの白々しさに、吐いちゃいそう。
引きつりそうになる顔を、何とか笑顔のままとどめた。
「まぁ、私たちはお邪魔ですね」
「失礼いたします」
にこやかに侍女たちが退出して遠ざかったのを確認して、ため息とともに笑顔を崩した。
ああ、疲れる。
アルフォードも、先ほども演技を崩すかのように肩を落としているのが見えた。
お互い演技をしているから大変だ。
「……で、わざわざいらっしゃった理由をお伺いしてもいいでしょうか、アルフォード様」
「迎えに来たって言っただろ?」
「それは、アルフォード様の用件ではないでしょう。お父様あたりにでもせっつかれたといったところでしょうが、会食までにはまだ時間があります。こんなに早く屋敷にいらっしゃった理由をお聞きしているのです」
お茶をしてもまだ時間が余るくらいには、早すぎる。
迎える側として準備を早く行っているこちらとは、立場が違うのだ。アルフォードは、招かれた側。普通なら、もっと遅くてもいいはずなのだ。
「婚約者殿のご機嫌伺いさ。親父殿がうるさくて、追い出された」
「なるほど。それは大変でしたね。会食まで時間もありますし、お茶を用意させましょう」
デュラン伯爵は、アルフォードと違って正しく侯爵家ともつながりができることを喜んでいるように見えた。いい年をしてふらふらしている息子が片付いて、一石二鳥。|婚約者(私)を逃がすなとでも言われてきたのだろう。
かくいう自分も、支度が済んでしまえばあとは会食が始まるまで時間を持て余す。
本でも読んで時間つぶしをしようかと思っていたが、アルフォードとたわいもない時間を過ごすのがここでの最良の選択だろう。
「気を遣わなくてもいいぜ」
「周りに不審に思われない程度には、気を使います」
呼び出しの鈴を鳴らしてお茶の用意をお願いする。天気もいいし、すぐそこのテラスでいいだろう。眼下に広がる庭を見渡せる、なかなかいいロケーションのテラスなのだ。
アルフォードを促してテラスへ移動すると、アルフォードはその途中の本棚で一冊の本を取り出してきた。
無断で人の本棚から本を抜かないでほしい。見られて困るようなものは一切置いていないけれど。というか、本を持ってきた時点で会話をする気はないらしい。
まぁ、本性を知っていること人と会話するには苦手意識が先行して、楽しく過ごせないのだから、これはこれでありがたいかもしれない。
アルフォードが本を読みだしてしばらくしてから、侍女がお茶を持ってきた。話しかけないように合図をして下がらせる。
すぐ近くでページをめくる音と、庭から鳥のさえずる音が聞こえてくる。屋敷の中からは、会食の準備をするための音も聞こえてくるが、まるでどこか遠い場所のことのようだ。
穏やかな静寂。
将来的にこんな時間が続くのも悪くないかもしれない。
ふと、何年後かの情景を思い描いている自分がいた。
アルフォードが本か書類を読んでいる傍らで、フェルスローズは周りで遊ぶ子供たちを見て微笑んでいる。
悪くない未来だ。
悪くはないのだけれど。
そもそも、なぜアルフォードがフェルスローズと婚約したのかがわからないのだ。そんな穏やかな未来があるのかさえもわからない。
夢見るだけなら、自由なのだけれど。
夢見た後に、それが実現不可能だと知れば失望も大きい。
夢は夢のままで。幻は幻のままで。
今ここにある静かな情景が魅せた、幻想なのだから。
「どうした?」
「え?」
自分の思考の海から突然引き上げたのは、不思議そうなアルフォードの声だった。
顔をあげると、本は読みおわったらしい。机の上に閉じられていた。
「難しい顔をしてたな。そんなに会食が嫌か」
「ああ……嫌というわけではありませんが、父に嫌がらせができないのが残念です」
「嫌がらせ? 侯爵にか?」
さすがにさきほどの思考内容を話すには恥ずかしすぎたが、会食というキーワードから昨日のことを思い出して話題をすり替えた。
「子ども扱いされた仕返しに、会食を欠席するつもりだったんですが」
迎えが来ちゃいましたからね。
嫌味を含ませる。アルフォード側の事情を聞いたとはいえ、来なかったら、と思わずにいられないのは、昨日のことをはっきりと思いだしてしまったからだ。
子供とはいえ、婚約披露の場で子ども扱いは、いくら何でもない。他の招待客がそういう態度なのは仕方ないとはいえ、実の父にまでその扱いは、承諾できないものがあった。
「稚拙な仕返しだな」
「なっ!」
「昨日の子ども扱いが気に入らないんだろ? だったら、もっと大人の対応をして見せたらどうだ」
言われてもっともなことほど、腹が立つことはないのかもしれない。
確かに稚拙な行動だと思う。
だが、大掛かりな仕返しをするほどの事でもないのも確かなのだ。
どうしろというのだ。
「例えば、どんな仕返しなのですか」
「そんなの自分で考えな」
自分で言っておいて放置とか、ないだろ。
まぁ、親子間のことだし形の上だけの婚約者の面倒など見る気はないのだろう。
下手に関わられて困るのは、こっちも同じだ。
「考えてみます。それにしても、その本、お気に召したのですか? 最後まで読まれたようですが」
この人なら、気に入らなければ、最初のページで閉じていそうだ。
「ああ……。これ、どこで手に入れた?」
「街中の古本屋の一つで見つけたものです。よく屋敷を抜け出して、本屋めぐりをしているんですよ」
前世でも、あの有名な古本屋チェーンに入り浸っていたものだ。
本がある場所は、なかなか楽しい。
「貴族の令嬢とは思えない発言だな。まぁ、お前さんらしいが」
「何か気になることでも?」
フェルスローズらしいと言われたのが、けなされているのか褒められているのかわからないところだが、それよりも、本の内容よりもその購入場所を気にしていることが引っ掛かった。
「いや……」
「気になるのなら、教えていただけませんか。何かわかるかもしれません」
「……。出回っていても、不思議じゃないんだがな。城の書庫では禁書扱いのものだ」
何十年か前に、危険思想を持っているとしてつかまった人物が作者なのだという。その時点で何冊も出版されていたため、回収しきれなかったものがあっても不思議ではないそうだ。
確か、この本の内容は政治に関することで……。
「どう思った、この内容」
「面白いと思いました。ですが、民が必要以上に力を持てば、時の権力者に逆らう勢力となりかねない、という観点から危険思想扱いされたというところでしょう」
「さすがだな」
かつての日本では当たり前だった読み書き計算。その学習を全国民に義務化するというものだ。
もしかすると、この著者は自分と同じように日本からの転生者だったのだろうか。
だとするならば、何の悪気もなく持っていた知識を著書にしたのかもしれない。
「でも、悪いことではないと思いますよ。権力者にとっては脅威かもしれませんが、長い目で見れば国力を増強することになります」
それが、知識を持つということ。
それは、いずれ力となって国を発展させる。
民がなければ国は存在しえない。民は、道具ではない。宝なのだ。
「民が富めば、国も富む。脅威だというのならば、そんな国民に見放されない政治をすればいいだけのことだというのは、子供の意見に聞こえますか?」
「……やっぱり、面白い思考をするな」
「絶対王政が引かれているこの国では、長く民が不遇されてきた歴史がありますから、確かに常識的ではない思考でしょうね」
当たり前のようにある現実。それとかけ離れた世界を知っているからこそ、この国の常識ではありえない思考ができる。
だが、できるだけだ。
それを実行するだけの力はないし、そんな大きな波を立てたとして、収拾できる手腕は持っていない。
「……いうだけなら、誰にでもできます。書くだけなら。でも、それでは何も変わらないし机上の空論でしかない。いうなれば、その本は絵空事を書いているにすぎません」
「お前さんは、こんな世界を見てみたいと思うか?」
「……。いずれ、歴史はそう動くのではないかと推測していますが、それが今であるとは思っていません。不遇さているとはいえ、民は現状に不満を持っていないでしょう?」
たとえ持っていたとしても、だからどうこうしようという行動は起こったと聞いたことがない。
それは、民が今の生活に甘んじているということだ。
そこに波紋を投げて内政を混乱させる必要を感じないのは、自分が恵まれているからだろうか。
「ふ~ん、なるほどな」
「私からも聞かせてもらえませんか。政治に関わる者として、私の意見は稚拙でしたか?」
「いや。……やっぱり、10歳の子供の思考とは思えないけどな。だが……わかった」
「何がでしょうか?」
「お前さんの意見が」
フェルスローズの意見だから、なんだというのだ。
所詮は政治に関わったことのないものの意見でしかないし、一応前世では大学を出ているから歴史で起こってきた知識はある程度覚えているために、長いスパンでの歴史の変遷を知っているというだけのこと。
それが重要視されるような内容ではないことぐらい、言った本人がよくわかっている。
「面白かったか、この本」
「まぁ、それなりに」
自由になるお金は、実はそう多くはない。その中で買っているのだから、手元に置いておきたいと思うくらいには面白かった。
望郷の念に駆られたという部分も大きい。
すると、なぜか手を伸ばしてきて頭をなでられた。
子ども扱いを嫌っていることを知っているというのに、とんだ子ども扱いに、思わず眉間にしわがよる。
だが、この本に関することはこれで突然終わった。
一体なんだったのだろう。
そのあとは、たわいもない話だった。
たわいもないとは言っても、貴族の令嬢相手にする話とは若干外れていた気がするが、なかなか面白い話もあったので良しとする。
この国で伝説として語り継がれる英雄の裏話とか、本当にどうでもいいけど、話のチョイスがおかしい。
「失礼いたします。会食の準備が整いましたので、中庭までお越しください」
「ああ、わかった」
「中庭なの?」
てっきり、応接用の食堂を使うのだと思っていたのだけれど。
立ち上がって、迎えに来たメリッサに聞いてみる。
「はい。せっかく天気も良いのだからと、中庭にセッティングするように指示がございました。お嬢様のお好きな、コクリコの甘露煮もご用意しましたよ」
「本当!」
「ぶっ」
思わず喜色の声をあげて、すぐ真後ろから聞こえた吹き出す音に、はっと我に返る。
大好物とはいえ、コクリコの甘露煮は子供が好むおやつだ。
子ども扱いを嫌いながらも、子供が好むおやつが好物などと知られたのは、ちょっと痛い。
「悪い。だが、かわいいなフェルスローズは」
「……。アルフォード様も召し上がりますか?」
大人からすると劇甘のおやつだから、アルフォードが好むとは思えない。仕返しとばかりに聞いてみる。
「いや、遠慮しておこう。フェルスローズの好物を取ってしまって、せっかく昨日婚約した可愛い人に嫌われたくはないからな」
「ま。そこまで心が狭くはありません」
失礼ない。人を食い意地を張っているように言うなんて。
「では、次の機会にもらうよ」
本当に食べるのだろうか。というか、食べられるのだろうか。お父様なんかものすごくいやそうにするのに。
いや、結構あの甘露煮を好む女性だっている。女性受けを考えるのならば、食べることができてもおかしくはないかもしれない。
バカな事を考えた。
「せっかくなので、教えていただけませんか。アルフォード様が好まれるお料理はなんです? 私だけ知られるのは不公平です」
「ん……フィッシュパイ、あたりだな」
「ふぃっしゅぱい?」
ミートパイの仲間だろうか。聞いたことがない。そんな料理が、この国にあったのか。
王都からだと若干海が遠いので、あまり魚が食卓に上ることがないから、知らないだけかもしれない。
「……アルフォード様。それは、酒場料理では」
「よく知ってるな。ピリッとした香辛料が使われていて、うまいんだ」
「へぇ」
剣呑の表情を浮かべたメリッサが、若干低い声で答えをくれた。
なるほど、酒場料理か。それならば、貴族の食卓にのぼらなくても納得がいく。
甘党だが、辛い物が嫌いというわけではない。
それに、酒場料理というのにも興味が引かれる。
「連れて行ってやろうか」
アルフォードからの提案にうっかりうなずき掛けて、はたと自分の状況を思い出す。
10歳の子供。それも侯爵家令嬢。
酒場なんて、もってのほかに決まっている。
「アルフォード様! お嬢様に、なんてことをおっしゃるのですか!」
「いや、興味を持ったみたいだからな」
「メリッサ、大丈夫よ。確かに、アルフォード様のお好きな料理には興味がありますが、さすがにお父様の許可が下りないでしょう。残念です」
まぁ、本当にに行きたいを思ったらお父様の許可なんかもらわずに、お忍びで行くけれど。
でも、さすがに酒場に10歳の子供がいたら常識的に、店主からつまみだされる。身分に問わず。
それに、アルフォード本人も本当に酒場に子供を連れて行く気なんてないだろう。場がしらけてしまうし、なにより、そこまで常識がないとも思えない。
「私が成人したら、いつか連れて行ってくださいませ。アルフォード様が好きだというフィッシュパイなるものを食べてみたいです」
「ああ、わかった。成人したら、な」
成人するまであと6年。
果たしてそれまでこの婚約関係が続いているかは、甚だ疑問だが。
……なんの思惑もないということは、考えにくいもの。
その目的が侯爵家の権力なのか、もっと別の何かなのか。
そんなことを考えながらもおくびに出さず、ニコリと笑ってみせると、アルフォードもまた笑顔を向けてくれた。
たぶんそれは、含むものなど何もない、その時が来るのを楽しみにしているような、偽りない笑顔に見えた。
中庭に設けられた会食の席には、すでにおじい様もおばあ様も、そして両親もそろっていた。
お父様が若干緊張気味なのはわからなくもないが、どうしておばあ様とお母様が顔を赤らめているのだろう。
そんな風に疑問に思って、もしやと、となりを歩く婚約者を見上げる。
…………おばあ様もお母様も、もしかして、面食い?
そういえば、おじい様もだいぶ年を取られているがかつて美丈夫だったといわれる面影を残しているし、お父様もいまだに若い女性から密かにアプローチを受けていると聞いたことがある。
そして、この婚約者。
女性を手玉に取ることなら天下一品だとか言われるくらい、女性関係のうわさが事欠かないアルフォードを前にして、赤面しているということだろう。
アルフォードはただ、にこやかに笑顔を向けているだけだけれども。
「……恐ろしい」
「何がだ?」
椅子を引いてくれたアルフォードが、小さなつぶやきを拾ってしまったらしい。
間近にいたアルフォードだけに聞こえるように、もう一度ささやいた。
「貴方の女性受け体質が、恐ろしい」
「ん? 嫉妬か?」
「バカ言わないで」
表面だけは笑顔を取り繕って応対する。
両親やおじい様、おばあ様から見れば、仲よく内緒話でもしているように見えるかもしれない。
フェルスローズの隣にアルフォードが座ると、会食が始まる。
最初こそ、家族内の近情報告のような会話だったのだが、好奇心に負けたお母様がアルフォードに話しかけたのをきっかけに、アルフォードが質問攻めになるという事態になった。
こうなると、フェルスローズは婚約者という立場にいながらも蚊帳の外だ。
無言のまま、昼食をつつく。
さすがに皇太子の片腕として政治に関わっているだけあって、受け答えにそつがない。
その姿は、普段見ている明るくも飄々としている姿とは違い、頼もしく見えるから不思議だ。
仕事中はこんな感じなのだろうか。
ただ、どうしても許容しがたいこともある。
「なぜ、うちの子と婚約する気になったの? 親のひいき目だけれど、かわいい部類に入るわ。けれど、年齢が違いすぎるし、あなたは引く手あまたでしょう?」
「他の男にくれてやるのが惜しくて」
なんて、さらっと心にもない甘いセリフを本人を横にして吐いてくれるな、と言いたい。
アルフォード曰く。小さい頃から見てきたから妹のように思っていたが、ふと誰にもやりたくないと思ったそうだ。
要約だが、そんな感じだ。
そういえば、一年前くらいにそんな内容の恋愛小説がはやったな。
年齢問わず女性受けしたそれは、たしか、おばあ様もお母様も愛読していたはず。
それを見越しての言葉選びだろう。本当に、恐ろしい男だ。
「蕾である今でさえ人目を引くんです。大輪の花が咲いたら一体どうなることやら、今から気が気ではありません」
「まぁぁっ」
あなた誰ですか。
感動しているお母様には悪いけれど、言われて髪に口づけられた身となると、鳥肌物のセリフだ。
お母様やおばあ様は、まぁこのアルフォードに好意的みたいだけれど。
ふと、おじいさまやお父様はどうなのだろうとその様子をうかがうと、何やら機嫌はよさそうだ。
おじい様手ずから、お父様のグラスにワインを注ぐとか、一体どういうわけだ。
「良い婿がねだな。フェルスローズをここまで大事に思っているとは」
「ええ、私も安心できます」
なんとなれば、いつの間にかアルフォード様はこの二人をも籠絡していたらしい。
ここまで言葉を尽くして嘘八百を並べている状況に、気づかないというのか。
大丈夫か、この侯爵家。
家を継ぐ立場にないとはいえ、さすがに心配になる。
心配したところで、この家をこの先けん引していくのは秀才として名をはせている兄だし、何とかしてくれるだろうけれど。
蚊帳の外なのをいいことに、コクリコの甘露煮のお代わりを給仕にお願いするのはすでに3度目。
ああ、おいしい。
コクリコは、前世の言うところの栗によく似ている味わいを持っている。和菓子好きだった前世が高じたといえばそれまでかもしれないが、ここに抹茶が存在していればと惜しむくらいには、大好きなのだ。
しかも、いつもは食べすぎて怒るお母様もこちらに注意を向けていないから食べ放題。
こんなところは、アルフォード様、さまさまといったところだ。
四度目のおかわりを攻略中、お母様たちの相手をしていたアルフォード様がこちらを見て笑った気がして、顔をあげた。
「なんでしょう?」
「本当に、好物なんだな」
そう言ったでしょう、さっき。
好きなものは好きなんです。
声高に反論できないのが、何やら悔しいが、まぁ、たしかに飽きられるくらいには食べちゃったかも。まだ子供だからいいとしても、この先は考えなきゃいけないかしら。
年頃になってもこの勢いで食べていたら、さすがにダイエットを考えなきゃいけなくなるわ。
「これもいいぞ」
「でも……」
「好きなんだろ?」
そりゃ、好きですよ。
テーブルに乗ったコクリコの甘露煮は、それぞれの小皿に分けられていたから、もちろんアルフォードの前にもあったが、一切手を付けていないのは、隣にいたからよくわかった。
食べないのではもったいないな、とは思っていたが、まさかくれるとは。
「では、遠慮なくいただきます」
「ああ」
微笑ましいような笑みを向けられるのはムカつくけれど、コクリコの甘露煮の前では黙するが吉。
躊躇なく、とろけるような甘露煮を口に運んだ。
ん、おいしい。
「まぁ、フェルスローズ。それはアルフォード様の分ですよ」
「いいのですよ、侯爵夫人。彼女の嬉しそうな顔を見られるだけで、十分です」
申し訳ないけれど、アルフォード様。そういう甘さは、ノーサンキューなんです。
会食は、始終そんな感じて幕を閉じた。
家族まで一瞬で取り込んでしまったアルフォードの意図はわからない。
それだけが、ずっと引っかかったままだったけれど。