31.イチが居ないのが不安でたまらない。
アレイシアは珍しく不安にかられてしまっていた。思えば、精霊が周りにいないというのは、アレイシアにとっては、初めての経験であった。アレイシアは森を出るまでの間、両親と精霊たちとのんびりと過ごしてきた。アレイシアが何処にいるときでも精霊たちは傍に居た。
それはセイナがアレイシアを心配していたから。だからアレイシアにとって精霊はとても身近な存在であった。森を出る時も、お目付け役として、イチがついてきた。イチはいつでもアレイシアの傍に居た。
アレイシアは、心細さを感じていた。
精霊が傍に居ない事、それに加えて、このセイアーツ教の建物の中にいる事がアレイシアにとって恐ろしいと感じてならない事だった。精霊が居ない事がこんなにも不安になるとは、アレイシアは考えていなかった。
当たり前の事が突然なくなるとどうしようもない不安に人はかられるものだ。
そしてそんな不安なアレイシアの前には、にこにことほほ笑む一人のご老人が居る。
五十代ほどだろうか。この世界の人間でいうと、もうそれなりの年代だ。
「アレイシアさんですね。初めましてアヒートです」
その人を見ながら、アレイシアはうんざりとした顔になった。目の前には、豪華な食事が並べられている。何人もの神官が、こちらを見ている。にこやかに笑っている。アレイシアを、じっと見ている。それが気持ち悪いと思ってしまった。何を考えているかもわからなくて、怖くなって震えそうになる。アレイシアは柄にもなく、不安だった。
「……初めまして、アレイシアといいます」
アレイシアはどうにか笑みを浮かべて、そういった。
内心はバクバクしていた。アレイシアは食事に手を付ける。だけれども見られながらの食事は何とも言えない食べににくさがあった。
「アレイシアさんは、エルフたちにも好かれているそうですね。羨ましい限りです。我らは同じハイエルフを信仰しているというのに、こちらと親しくはしてくれないのですよ」
「……そう、でしょうね」
アレイシアは絞り出すように声を発した。
「やはり、貴方もそう思うのですか。私たち共とエルフたちはどうして相容れないのでしょうね」
「……考え方の問題じゃないかしら」
アレイシアは答えながらも、早く帰りたいという思いで染まっていた。早くイチの所に帰りたいと思っていた。それと同時に一つの事が気になっていた。
「あの、ベストはどこにいるの? こちらに来ていると聞いていたのだけど」
「ああ……、彼なら別室に通してありますよ」
「どうして別室なの?」
「貴方はエルフたちにとっての特別ですから」
答えになっていない言葉を言い放たれて、アレイシアは眉を潜めた。ベストが居ると聞いて此処まで嫌々顔を出した。だというのに会う事は出来ない。加えて帰ってきた言葉は意味が分からない言葉。
正直エルフたちにとっての特別だったとして、だからなんだという話だと、そんな風にアレイシアは思ってならなかった。
特別である、だから、ベストをこちらに呼ばないというのはどういう事であるのかさっぱり分からなかった。
「……それは、どういう意味?」
「貴方はエルフたちにとっての特別。という事は、ハイエルフに近い存在ともいえるでしょう。もちろん、完全なハイエルフではありませんが、それでも……私たちの前に貴方のような稀有な存在が現れたのは本当に幸運な事です」
にこやかにほほ笑んで、アヒートは言う。その言葉に、益々アレイシアは眉を潜める。
「何が、言いたいの?」
「貴方にはセイアーツ教の象徴となってほしいのですよ。エルフの皆様方をこちらに取り込む十分な理由になるでしょうし」
言われた言葉を理解した瞬間、アレイシアは席から立ち上がった。
「帰るわ」
「いいのですか。貴方の弟子はこちらにいるのですよ? 安心してください。不便な生活はさせません。寧ろ味わったことのないほどの裕福な生活を送っていただきますよ」
「……ベストの、命の安全を保障するから、私に象徴になれというの?」
「そうともいいますね。アレイシアさんは、彼を大切に思っているのでしょう?」
「……本当にベストは無事なのよね?」
「ええ、貴方が聡明な判断をしてくださるなら」
アレイシアは、その言葉に、思考する。
此処にはイチもいない。自分の頭で判断しなければならない。アレイシアは、イチは見捨てればいいというかもしれないけれども、ベストの事を見捨てようとは思わなかった。自分が初めて弟子にした人間の少年。
寿命の短いベストの命をこんなに短い時期に散らすのをよしと思えなかった。
「わかったわ……」
だから、アレイシアは結局そういってしまった。いつも傍に居た精霊が、近くにいない不安定な状況で、アレイシアはそれに頷いてしまった。
そして、セイアーツ教の者たちは正確には把握してはいない事だが、彼らにとっての神であるハイエルフの一人を手中におさめてしまう事になったわけである。




