□仕事は味方してくれないわけで。
起きたら記憶が飛んでいますように。
そう思いながら、眠った事を覚えている。
その時点でアウトなわけで。
奇跡的に、朝の5時に目が覚めた。
だが、記憶は一切消えていなかった上に、変な後悔も消えていなかった。
一体昨日の自分はどうしていたんだろうか。
少し痛む頭を押さえ、美和は財布から2万円を取り出し、
悩んだ末に、一言残したメモと一緒に枕元に置いた。
しわくちゃに脱ぎ捨てられていたワンピースを拾い、
上からコートを着てごまかす。
本当はシャワーくらい浴びたかったが、先にホテルを出たかった。
ちらりとベッドに目をやると、ゆっくりと寝息を立てている坂下がいる。
肩のラインが、ゆっくりと上下しているのが見えた。
「……」
トンデモナイことをしてしまったのではないかという、
変な後悔が今更だがつきまとう。
しかし、まだ眠っている坂下を置いて、美和は静かに部屋を出て行った。
【迷惑かけてすみませんでした。お金置いて帰ります】
メモにはそれしか書かなかった。
連絡先を書かなかったのは、自分の意地だ。
今思えば、部屋をダブルで取っていたのも、
坂下は確信犯だったのかもしれないけれど。
ただ、昨日の夜、何度も坂下に抱かれたのは悪くなかった。
過去に適当に付き合った事はあったけど、
昨日ほどの事はなかったように思う。
そうふと思い出して、
タクシーの中で赤面しそうになるのをこらえるのに必死だった。
シャワーを浴びて、化粧をし、着替えると、気持ちがしゃんとする。
今日からまた仕事だ。
髪を無造作に一つにまとめ、スーツを着て出社する。
何だか心が軽くなったのはなぜだろう。
心のどこかが忠告している気もするが、
今日からはとにかく、また仕事に打ち込むしかないのだ。
「藤村主任、お早うございま~す」
席に着くなり、近くのデスクの男性社員から挨拶があった。
3つ年下の社員、大桑だった。
おはよう、と美和が返すと、大桑が近寄ってくる。
高岡が率いるチームの一員で、美和とも割りと仲の良い社員だが、
チームでも人気のかわいい年下の男の子だ。
「昨日どうだったんですか?」
「……え?」
昨日、と言われ、頭の中には「昨日の醜態」が思わず走馬灯のように走る。
「ほら、高岡課長の結婚式ですよー」
「あ、あぁ!うん、そりゃもちろん、超かっこ良かった!」
「やっぱりな~。俺から見ても、課長って本当にかっこいいもんなぁ。
俺も行きたかったですよ。
で、奥さん綺麗でした?写真見せてくださいよ」
「や、そりゃそうでしょう。美男美女って感じだったよ…
っていうかさ、ほら、仕事仕事!」
写真など、一枚も撮っていない。
いくら興味がないとはいえ、一枚くらいは撮っておくべきだった。
これはやばいと、
美和は大桑の視界から消えようと無理やりに話を終了させた。
大桑は高岡から式に招待こそされていたものの、
大学時代の友人の結婚式と重なり、そちらの方へ出ていたのだ。
尊敬している上司の結婚式に出席をしたかっただろうから、
写真くらいきちんと撮って、見せてやれば良かったと悔やまれた。
気の利かない先輩だな…とつくづく自分には呆れてしまう。
パソコンを起動させた後、コーヒーを注ぎに給湯室へと歩いていく。
高岡は、淹れたばかりのコーヒーが大好きで。
美和は出社すると、自分のコーヒーと一緒に、
高岡のカップにコーヒーを入れるのが日課だった。
コップ置き場には、高岡のカップが下を向き、収納されている 。
もう、その日課は卒業にしようと、美和は誓ったのだった。
今日は結婚式の翌日で、高岡はまだ有給を取って休みだ。
高岡が戻ってくるのは、今週半ばからだ。
新婚旅行には、少し日を空けて、来月から行くと聞いている。
「雨になればいいのに…」
ずずっとコーヒーをすすった後、給湯室を出ようとすると、
入り口近くに部長が立っているのに気が付いた。
「…おはようございます」
「何をぶつくさ言って…まぁいいや。ふじ、ちょっと来い」
「あ、はい!」
美和の所属する「資源環境部」はチームに分かれて仕事をしているが、
高岡が率いるチームは割りといつも成績も良いため、
新しい仕事をどんどん増やされていく傾向がある。
こうやって部長に「ふじ」と呼ばれるときは、碌な事がない。
「来週火曜日から出張頼めるか?」
部長はデスクに座るなり、発声一番がこれだった。
「え?はい、大丈夫ですけど…どの案件の…」
「いやぁ 、高岡と四国へ出張の予定だったんだが、
別件で俺が外れることになったんだ。
申し訳ないけど、ふじ、行ってくれ」
「……え??」
「資料はこれだから。ま、挨拶回り程度の軽いもんだから、頼むな。
なっ!香川のうどんはうまいぞ~」
部長は美和に薄っぺらい資料とは名ばかりの書類を渡し、
ハイ終了と言わんばかりに朝刊に目を通し始めたのだった。
出張は好きだ。
ホテルに泊まるのも好きだし、
その土地のおいしいものを食べるのも好きだ。
いや、その前に仕事が好きだ。
だけど、このタイミングで高岡との出張は、精神的にきつすぎる。
デスクに戻り、パラパラと資料を見た。
1泊でよかったと感じる自分は、昔の自分とは違う。
昔ならば、3泊や4泊、時には1週間程度の 出張もあった。
日が長ければ長いほど、嬉しかったからだ。
仕事の一環とはいえ、時間を共に出来るのが、何よりも幸せだったのだ。
思えばやましい気持ちばかりで仕事をしていたなぁと振り返る。
ただ、それが原動力だったとなると、今はどうだ。
「…主任?眉間にしわが超寄ってますけど…」
大桑が心配そうに美和を見ている。
必死の形相でパソコンを触っていたのだろう。
気が付けばお昼も食べずに、仕事に熱中していた。
時間はもう13時を過ぎていた。
「…大桑くん、今日中に四国にウチが卸してる資源データを全部出して。
高岡課長が戻ってくるまでに、全部まとめたいから」
「四国の分ですね。OKです、やっておきます!」
かなりのデータになるかもしれないが、
大桑はきちんとデータをまとめて出してくるだろう。
自分も少し残業になるだろうと踏んで、まずは昼食に出かける事に決めた。
外に出るのも面倒臭いので、社員食堂にしようと思い、
財布を片手に歩いていると、同期の友人から声をかけられたのだった。
「あ、お疲れ様、どうかした?」
「美和、来週の金曜日暇でしょ?」
「いやいや、暇と決めつけないでよ…」
「そういう時は、空いてる時って分かってるよ~」
長い付き合いの彼女は、美和の性格を分かっている。
美和を給湯室に連れ込み、小声で話始めた。
「美和、昨日の結婚式途中で帰ったじゃない」
「……あぁ、うん、体調悪くて、ごめんね」
昨日の今日の話だが、気が付けばずいぶん昔のような気がしてくる。
「いやいや、それでさぁ~。
高岡課長の奥さんのね、ほら璃子さんのさ、会社の人と仲良くなってさ」
「もしかして?」
「もしかしなくても、合コン」
「パス」
即答で美和は答えた。
合コンは行く事は行くが、あまり好きではない方だ。
「…やっぱりかぁ…っていうか、一緒に行こうよぉ。
美和あんまり見てないかもだけど、かっこいい人多かったよ、マジで」
「来週の金曜日って、何か予定入るかもしれないから、パスさせて」
「デート以外なら却下するよ」
「……わかった、ちょっと保留にしといて」
逆らえそうもない。
美和はとりあえず保留で納得させて、その場を離れた。
どう考えても、仕事が金曜の夜に入るとも思えない。
仕事すら今の自分には味方してくれないわけで、
美和は出張、合コンとあまり乗り気になれない2週間があるのかと思うと、
更に気分が重くなるのだった。