□酔えば何でも出来そうな気がするわけで。
目を開けると、見たこともない天井のライトが視界に飛び込んできた。
頭の端から端まで痛い、重い。
美和は痛む頭をゆっくりと起こし、周りを見渡した。
ここがベッドの上だという事が分かると、
ようやくホテルの客室だと結びついた。
もしかしたら、坂下が運んでくれたのだろうか。
しまったという自責の念が湧き上がる。
もうボサボサになってしまっている、セットした髪の毛。
しわしわになっているワンピース。
布団の中で捲れあがっていたため、軽く直し、体を起こした。
まるで二日酔いの朝のような喉の渇きだった。
とにかく水が飲みたい。
「…あぁ、気が付いた?」
ソファに腰かけて、坂下は眠っていたらしい。
ワイシャツのネクタイを緩めたまま、立ち上がる。
背の高いその後ろ姿を見ていると、
グラスにミネラルウォーターを注いでいるようだ。
「…ほら」
グラスを手渡されると、美和は一気に水を飲み干した。
布団に入ったまま、サイドテーブルにグラスを置く。
「…大丈夫?」
「……気持ち悪い…」
「当たり前だよ、あんなに一気に飲んだらそりゃ回るって」
きっと呆れているのであろうその声音に、
美和はますます萎縮するばかりだった。
「……ごめんなさい…っていうかお金払って帰りますから…」
ベッドから降り歩こうとしたが、思うように力が入らない。
あぁ、もう、という坂下のため息が聞こえた。
「とりあえず、酒抜けるまでゆっくりしてくれていいから」
肩を優しく抱きかかえ、再びベッドに行き場を戻された美和は、
膝を抱えたまま黙って座っていた。
坂下は水をグラスに継ぎ足した後、ソファに戻って行く。
「何かあったの?」
ソファに座り、坂下は口を開く。
「…坂下さんが悪いんじゃん」
「は?」
美和は声を出そうとするよりも先に、
涙が溢れてくるのを堪えることが出来なかった。
「ちょっと…何で俺が…」
坂下はどうして俺が責められるのだと言わんばかりに、立ち上がり、
美和の座っているベッドの足元へ腰を掛ける。
スプリングがきしみ、振動がまるで体中に伝わるようだった。
その振動の所為にして、美和の涙はぽたぽたと頬を伝う。
「坂下さんが、あの新婦と別れなければ、
今日みたいな事にならなかったのにって事」
「…あんたねぇ…」
状況を察した坂下は、美和の酒の飲みっぷりをようやく理解したのだった。
おいおい、と苦笑しながら近くにあるティッシュの箱を手に取り、
美和の近くに投げ込んだが、美和の言葉は止まらない。
「本当に好きだったの。
入社して、あの人のチームに配属されて、一緒に仕事して…。
別に私のことを好きだとか言われた事は一度もないけど…
完全な片思いだっていう事も分かってたけど…
好きだったの…一緒にいれるだけで幸せだったの」
美和は声を上げて泣いていた。
言葉にすると、嘘臭く聞こえてしまっているかもしれないと思いながらも、
それでも美和の涙と言葉は止められなかった。
ずっと言いたくても言えなかった言葉。
堰を切ったように溢れ出してきて、自分でも抑えることができない。
「諦めなくちゃいけないのは分かってるけど…できなくて…
どうしたらいいのか分からなくて…つらくて…」
泣いている顔を伏せようと、自分の膝に顔を埋める。
坂下は美和の近くに腰を下ろし、美和の頭に手を置いた。
温かい手だった。
ポンポンと撫でられると、不思議と気持ちが落ち着くのはなぜだろうか。
「…いや、別に俺も好きで別れたわけじゃないけどさ…」
「…わかってます…単なる私の八つ当たりなの…」
涙を拭いながら、美和は坂下を見つめていたが、
本当に情けない自分を晒しているなぁ、
とふと客観的に捉えている自分がいたりして、
そんな事を考えていると、美和は急に恥ずかしくなり、顔を背けた。
「ふっ、ひっどい顔」
坂下は笑いながら、ティッシュで美和の涙を拭いてやる。
ぼさぼさになっている髪の毛を軽く整えた後、肩を抱き寄せた。
「……うるさいよ」
坂下の胸に額を預け、目を閉じ、じっととしていたが、ふと我に返った。
一体なぜ、初対面の男の胸で泣いているのだろう。
「あの…何で…こんな…」
「ん?坂下なぐさめコースのコース内容だけど?」
「ぷっ…何それ…」
「オプションは要相談、ってことで」
美和は思わず笑い始めた。
坂下の腕の中で美和の肩が揺れる。
「っていうか、そんなコース私がいつ申し込んだのよ!」
はっとした美和は両腕で坂下の胸を離し、距離を作る。
「自動申し込みになってるけど?」
「なってないよ!」
するりと腕を解き、ベッドを降りおうとしたが、腕を再度掴まれる。
体勢と場所が、美和には不利だ。
しかも置かれている立場が圧倒的に劣勢である。
「やっぱり、相当女慣れしてるのが分かったよ」
美和はせめてもの抵抗でそう言ったが、
坂下は気にも留めていない様子だった。
「悪くないんじゃない?」
「…何が?」
「あんたが良かったら、俺を利用してくれていいよ。
俺は素直にあんたの顔も好きだし、
そういう性格も嫌いじゃないから、何の問題もないしね」
「…利用って…そんな簡単に言わないで…」
気が付けば、ベッドに押し倒されかけている。
手の早い(と思われる)坂下の右手が、
美和のワンピースのファスナーにかけられた。
「っていうか、問題はあるし。私に拒否権ってのはないわけ?」
「いや、拒否してもらってもいいよ」
「…だったらこの体勢…落ち着かないんですけど…」
坂下の手はやはり温かく、力が強い。
「別に、付き合おうとか言ってるんじゃなくてさ。
あんたが上司を忘れるために俺を利用して良いって言うだけだから。
簡単な恋愛ごっこを楽しんでれば、そのうち忘れる事も出来るし、
新しい一歩に踏み出すことも出来るでしょ」
「だけど…それに…」
「それに?」
「……何でもない…何でもないから、お願いだから手、離して…」
初対面の相手に、こんな情けない自分を曝け出してしまっている事に、
今更ながら自分はどうかしていると思っていたが、
もうここまで来たらどうしようもない。
手が離されて、自分の真上から坂下が離れる。
何だか完全に酔いも覚めていきそうな話の内容になってしまった。
美和はベッドから降り、冷蔵庫を開けて、
中に入ってるビールを1本取り出した。
「ちょっと…もう飲むのやめて…あんたアル中?」
坂下の制止も聞かず、ビールを口にする。
だが、胃が受け付けてくれそうになかった。
美和が一口で飲むのをやめた様子を見て、
同じくベッドから降りた坂下が、ビールの缶を奪い取った。
「アル中じゃないけど、飲まなきゃこんな状況納得できない」
「…いや、まぁそうかもしれないけどさ」
坂下は何の抵抗もなく、美和から奪ったビールを口にする。
飲み干した後は、缶を手でつぶし、ゴミ箱へ捨てていた。
「……条件があるの」
「何?」
「っていうか、私からの一方的な提示かもしれないけど」
「?」
坂下は美和の目の前に立ち、また涙をこぼしそうな瞳を正面から見据えた。
「今日だけでいいから、一緒にいて?」
「……」
思いもよらなかった提案に、坂下は思わず言葉を失っていた。
一方の美和は、自分がとんでもないことを言っているのを自覚してか、
痛む胃を落ち着かせようと、水の入ったグラスに手を伸ばす。
自分の言っている事の情けなさで、手が震えそうだった。
「そんなのでいいんなら、願ったり叶ったりだけど…」
坂下は美和よりも先に、水の入ったグラスを奪い取る。
「欲しいんだったら、俺から飲んで」
グラスに口をつけ、意地悪く笑う、整った顔の男。
悔しいが、とても魅力的で、美和は抗えそうにもない。