□だから知らない方が正解なわけで。
坂下のマンションを出ると、なぜか雨は止んでいた。
璃子は坂下のマンションのエントランス近くに走ると、
待たせていたタクシーに乗り込み、自宅マンションへと行先を告げた。
坂下に対しての苛立つ気持ちはすぐに消えたが、
坂下が思いを寄せる相手がどういう相手なのか、妙な興味だけが沸いていた。
思えば、璃子が坂下と付き合ったきっかけは本当にいい加減なもので、
説明しろと言われても、はっきりと思い出せない位だった。
入社後、璃子は総務課に配属されていたが、5年目で異動。
営業補佐として今まで全く経験のなかった部署への配属だった。
畑が違えば何とやら、で苦労の連続の毎日だったが、
補佐で当たったのが坂下だった事が幸いだった。
大口スタンダードタイプの取引が多い坂下の営業補佐は、
ある意味基礎さえ出来ていれば、ある程度こなせて来るようになった。
そうなれば、坂下から璃子へのある程度の信頼も出来てくるようになる。
璃子は璃子で、常に成績もトップクラスで、
社内でもエースと名高い坂下の補佐が出来ている事が誇らしかった。
一番仕事が楽しかった時期かもしれない。
どちらから誘ったかと言われると、多分璃子自身だと思う。
二人で飲みに行った帰りに、そのままホテルへ直行していた。
何となく身体を許してしまい、何となく付き合う事1年弱。
本やドラマのような「大切な恋人」というよりは、
たまに食事をして、身体だけ提供し合う、そんな関係。
だから別に「恋人」としてカウントしてはいない。
その関係がつらいと思う時はあったが、
坂下が何度となく浮気をしていたのを知ったのも同じ時期。
自分が浮気なのかもしれないと思ったのも同じ時期。
だから自分も同じように他で遊び続けたが、
坂下はそれを知っても、何も咎めなかった。
浮気というよりは、お互いに本気はどこにもないようだった。
ある意味とても楽で、ある意味とても空しかった。
そんな折、坂下がずっと海外事業部への異動希望を出していることを知り、
ようやく坂下が本気にならない理由が分かった気がした。
今いる場所を、いつでも切り捨てられるようにしているのだと。
それが分かり、璃子は坂下との縁を切ったのだった。
仕事一筋で、せいぜい適当に遊んでいれば良い。
徹底すらしており、なぜか逆に、惹かれたところもあったが。
恭輔と出会ったのはその頃だった。
恭輔の会社に出向いた際に、偶然大学時代の友人に再会し、
その友人の紹介で恭輔に出会ったのだった。
優しくて、自分を一番に認めてくれる相手。
坂下とは埋めれなかった溝を、埋めることが出来る相手だった。
タイミングが良かったと言えばそれまでかもしれないが、
言い方を変えればそれは自分にとっての運命だったと思える。
「璃子!」
タクシーを降りると、聞きなれた声がして思わず驚いた。
恭輔もちょうど帰宅したところのようで、タクシーから降りている。
恭輔の元に小走りで駆け寄った。
「早かったのね。ちょうど良かった。お疲れ様」
恭輔の顔を見ると、何となくほっとしてしまう自分がいて、
やはり自分はこの人が好きなのだと、思わぬ再確認だった。
「藤村、知ってると思うけど…」
高岡はタクシーに残る美和に声をかけた。
璃子はちら、と車内に目をやり、中にいる人物を確認する。
「お世話になります、藤村美和と言います」
そう自己紹介する女性を見て、璃子ははっとしたのだった。
忘れたくても忘れられない名前の一つに、急遽カウントされた名前。
坂下がどこでどうやって知り合ったのかは知らないが、
絶対にこの「美和」が、坂下の口にした「美和」だと思った。
女の勘だった。
美和は降りれずに申し訳ないという表情で、
璃子に向かって、タクシーの中でぺこりと頭を下げた。
「結婚式以来よね。先日はどうもありがとう」
「すみません、いつも課長にはお世話になりっぱなしで…」
美和はまさか璃子に会う事を予想すらしていなかったため、
凄く心拍数が上がっているのではないかと思うほど緊張していた。
久しぶりに見た璃子は、同性から見てもやはり綺麗だった。
「…ううん、こちらこそ。いつも恭輔のフォローありがとう」
「…いえ…」
高岡を下の名前で呼べる女性。
軽い嫉妬が湧き上がりそうになりつつも、美和は謝罪を口にする。
「ホントすみません、課長お借りしてしまって…」
「大丈夫だから、全然気にしないで。
今日は楽しかった?誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。それじゃ、すみません失礼します」
璃子の笑顔に、何だか気迫負けしてしまいそうだった。
「藤村、気を付けて。また明日」
おやすみなさい、という挨拶を交わし、タクシーはまた走った。
後ろを振り返ると、二人が仲良く並んで歩いている姿が見える。
車内に残された美和は、どっと疲れを感じ、シートに大きくもたれ込んだ。
車窓から見る外の景色。
冬の景色は全てがグレーに染まって見えるから、何だか悲しい。
ふと気が付けば、ところどころの街中が
赤いリボンでラッピングされているかのような錯覚を覚えた。
もうすぐバレンタインデーだ。
そういえばすっかり忘れていた。
バレンタインデーの存在をすっかり忘れているなんて、
自分の女子力は一体どうなっているのだと、少し不安すら感じてしまう。
社内で渡しても良いのだが、キリがないという自分勝手な理由から、
義理チョコは一切渡さず、いつも高岡にちょっと良いチョコレートを渡すくらい。
今年に至ってはそれすら購入していない。
誰かに渡すくらいなら、自分で山ほど食べたいと思う。
それは叶わないものだし、その程度なものでしかなかった。
寂しすぎる、と美和は項垂れた。




