□思ってる以上に重症なわけで。
気が付くと、朝から降っていた雨は夕方には本降りになっていた。
朝の出勤時にこれだけ降っていなくて良かったと、
恐らくほとんどのサラリーマンが考えているだろう。
ただ、理想を言うと、帰宅時には止んでいてほしいとも思うのだ。
お疲れ様です、と聞きなれた声がし、坂下は顔を上げた。
「斗真、今から空いてる?」
璃子は小声で話しかける。
「…ん、8時頃だったら暇だけど、何?」
ちょっと出ない?とデスクから立つのを促し、二人で休憩室へと向かう。
坂下はいつものコーヒーを買い、休憩がてら長椅子に座りこんだ。
「今の資料作り終えたら帰る予定にしてるけど」
「良かったら食事でもどう?今晩友達も都合悪いから、一人なの」
「あーはいはい、いつもの最終手段ですか」
缶コーヒーを飲みながら、文句を言いつつも、別にいいよと答える。
そういえば、今日は美和の誕生日だった。
美和が誕生日なのに出張だと言っていた事が思い出される。
あれから一週間近い日にちが経っているのかと思うと、
時間の流れに何だか置いて行かれているような気がしてしまう。
空になった缶をゴミ箱に向かって投げたが、
生憎嫌われたようで、缶ははじき返された。
「じゃ、適当にレストラン指定してくれていいから。8時に連絡するね」
「あぁ」
璃子は下手くそ、とつぶやいた後、缶を拾い上げ、ゴミ箱に入れ、去って行った。
璃子を待たせると機嫌が悪くなるのを知っている坂下は、
何とか20時ぎりぎりで仕事を終え、
適当に璃子のマンションの近くのレストランに行く事にした。
そして食事をした後、バーで飲み直す事にし、
付き合っていた頃に良く二人で行っていた店を訪れたのだった。
平日の夜はそれほど込み合っておらず、
静かな落ち着いた雰囲気が流れていた。
「久しぶりに来たわ、ここ。懐かしいね」
「そういえば、璃子と別れてからは来てないな」
「新しい彼女、早く連れて来たらいいじゃない」
「だから、何度も言うけど、彼女作ってないから…」
「ねぇ、その件だけどいい加減話してよ」
別に詳細を璃子に話す義理はないのだが、話さない義理もない。
ただ、自分の旦那も一員に絡んでいるのだとわかったら、
恐らく璃子も良い気はしないであろうから、
絶対に話す気にはなれないのであった。
口を噤む坂下を見て、璃子はケチ、と口を尖らせた。
「そういえば、今日は旦那さん出張だろ?
こうやって旦那が留守の時に遊んでるわけか」
「え?違うわよ。今日は後輩の女の子の誕生日祝いで、
どこかに食事に行くって聞いてるけど」
「……え」
「…何?」
「…や…それってお前的にはどうなの?」
動揺を隠しとられまいと、適当に話を変えていたつもりだった。
「別に気にしないわよ。毎年の事らしいし、イチイチ干渉する気もないけど」
「…はは、お前らしいわ…」
坂下は今日の酒量が増えそうな予感を抱きつつ、一気にグラスを傾けた。
二人の沈黙の間を、穏やかなジャズのBGMが流れていく。
時折、氷が解けて傾く音が響いた。
「仕事一筋の人も好きだけど、ある程度恋愛するのもいいんじゃない?」
「…まぁ、ある程度はしてるつもりだけどね」
「ねぇ、歴代の彼女達が今の斗真を見たら、嘆くわよ」
「…は?」
「女関係のいざこざは多々あったでしょうけど、
斗真が片思いしてるなんて分かったら、おかしいもん」
「……いや、片思い…うん、そうなるよなぁ…。
璃子に前に言われた通り、ハマった方が負けだよ」
坂下はそう言うと、2杯目のウィスキーを流し込んだ。
その後も坂下の酒量が減る事はなく、
璃子が心配する傍ら飲み続けてしまい、案の定泥酔となってしまった。
バーの店員にタクシーを呼んでもらい、
結局は璃子がマンションまで送り届ける事になってしまう。
何度立場が逆転していると思った事か。
しっかり歩いて、と促しながら、スーツのポケットから鍵を出し、
部屋に送り届けた時には、ゴールが見えたと感動すら覚えそうだった。
「…疲れた…ホント腹立つ…」
坂下をベッドに寝かせると、心から一安心した。
明日は朝から会議だが、遅刻しようと知った事ではない。
璃子はイラ立つ気持ちを押さえつつ、
送り届けただけ感謝してほしいと思い部屋を出ようとした。
だが、坂下の指が、璃子の腕をつかみ、引き戻される。
強い力だった。
「ちょっ…と…」
璃子は背中から強引にベッドに倒されてしまい、
気が付けばジャケットの上から体を弄られ、唇をふさがれた。
「美和…」
坂下は無意識で美和の名前を呼んでおり、
その名前が璃子にもはっきりと聞こえたのと同時に、
坂下の頬には思いきり痛みが走っていた。
璃子の拳が入っていた。
「…酔いが醒めないなら、もう一発行くわよ」
「…った…」
坂下が頬を押さえ、顔をしかめた。
一度で酔いが醒めそうなパンチだった。
「あなたと不倫する気はさらさらないし、
どっかの誰かと間違うなんて、いい度胸してるじゃない」
「……ごめん…ホントどうかしてた…」
坂下は項垂れ、ヤバい事をしてしまったと、後悔の念が湧き上がってくる。
「璃子、ゴメン…」
璃子は返事をせず、キッチンの方へ消えていく。
「帰るわ、タクシー待たせてるから」
「……分かった」
ミネラルウォーターのボトルを坂下の横に置き、
璃子はそのまま部屋を出て行った。
最悪な夜になってしまった。
坂下は大きくため息を吐いた。
酔いは完全に醒めてしまっている。
何に対して、ショックを受けているのか自問自答するが、
別に美和に嘘を吐かれた事がつらいのではないとは思う。
ショックを受けている自分が、ショックなのかもしれない。
璃子に殴られた左頬が、とにかく痛い。




