□ハマったら負けというわけで。
ガチャン、という音がして、缶コーヒーが落ちてくる。
午後3時を過ぎ、気分転換に坂下は休憩がてらデスクを離れていた。
携帯を取り出し、メールを開くが、新着は来ていない。
「…あの女、ホントにヤリ逃げ状態じゃねーか」
とりあえず連絡先の交換は別れ際にしたが、
あれから一週間近く経つというのに、
電話はおろかメールの一つさえ寄越してこない。
かといってこちらから連絡するのも、何だか腹が立つ。
あの日は、美和のマンションの浴室で年甲斐もなく攻め立ててしまい、
その後二人でゆっくりバスタブに浸かって、
結局昼過ぎまで眠ってしまっていた。
起きると美和がコーヒーを入れてくれ、普通に別れた。
別に今までの流れからでも、たいしたことではなかったと思うのに、
何がそんなに、自分をイラつかせているのだろうかと納得がいかない。
「あぁ、ここにいたのね」
璃子が声をかけてきた。
坂下を探していたようだったが、機嫌が悪そうなのを見て、
敢えて何かあったのかと問うて来る。
「何でもないよ。っていうか、ここでは勘弁して」
とりあえず、付き合っていたことは社内では伏せていた。
おそらく、璃子が喋っていなければばれてはいないだろう。
璃子も周りにばらす様なタイプではないと思う。
だが、璃子が結婚してしまったとはいえ、
今更明るみにする情報でもないため、
親しそうに話すのは避けておきたかった。
「冗談よ。ハンコが今あったら頂きたいんですけど」
クスリと笑い、璃子はいくつかの書類を坂下に手渡してきた。
左手の薬指には、先日から嵌っているプラチナのリング。
豪勢にダイヤモンドがちりばめられていた。
書類の内容は、月末決済に向けての決済書が主だった。
高額決済が必要なものになると、毎回捺印が必要になる。
当たり前のことだが、面倒な作業だった。
手元には認印も持っていなかったため、デスクに戻る事にした。
二人で廊下を歩きながら、小声で話す。
「お前、新婚旅行いつからだっけ?」
「ヤケに親しいわね、課長。2月からよ」
厭味ったらしく璃子が返す。
「あぁ、そうかい」
どいつもこいつも、適当に話しやがって
と、坂下はイラついた様子でハンコを押した。
「お土産、適当に買ってくるわね」
ふふふ、と璃子は笑い、決済書を経理部に届けるべく、
さっさと坂下の下を離れて行ってしまった。
疲れる…と坂下はため息を漏らしながら、
先ほど買ったコーヒーが、アイスコーヒーだったことに気付き、
自分の情けなさにまたため息を付くのだった。
思えば璃子と付き合った期間は1年も経っていない気がする。
何となく付き合ったといえば聞こえは悪いが、美人だし、悪くなかった。
適当に付き合ってしまったがために、
結局はお互い浮気を繰り返してしまったし、
最後は適当に終わりを迎えてしまったし、
先日とうとう向こうは結婚してしまった。
金がかかりそうなわがままな女だとは思っていたし、
実際その通りだったのだが、
何だか思いも寄らない相手と結婚すると聞いて、最初は驚いたのだった。
今思い出しても不思議だったが、なぜ付き合ってしまったのだろうか。
「ねぇちょっと、捺印抜けてる」
イラついた表情で、璃子が再び書類を差し出してきた。
「あぁ…ごめん」
経理部からお預けを食らった様子で、璃子は再び戻ってきたのだった。
また自販機の所に向かおうと、坂下は璃子と並んで歩き出す。
途中での二人の会話は全くなかったが、
別れ際に意を決して坂下は璃子を呼び止めた。
休憩スペースにあるベンチに二人で腰掛ける。
「まいってるのかな、オレ。お前と話したいと思うってさ」
「女関係?っていうか斗真は今彼女今いないの?」
「社内では勘弁して…」
璃子がわざと名前で呼んでくる事に、抵抗するのも疲れる。
「今晩で良かったら、話聞くわよ。旦那いないから」
意地悪く璃子が笑う。
こういうセリフ言ってみたかったのよね、と付け加えて。
「…一杯だけ付き合って」
「たまには食事でも行かない?久しぶりだからいいでしょ」
OK、と返事をすると、璃子はまたすたすたと歩いていった。
つくづく綺麗な、自分勝手な女だと思っていた。
でもそのわがままさになぜか惹かれてしまい、一年近く付き合ったのだ。
付き合った頃によく行っていたレストラン。
そこに行くのは流石に気が引けるので、
適当にホテルのバーで待ち合わせる事にした。
接待で使うことも良くあったため、勝手知ったるバーの一つだった。
「今日旦那は?」
「香川まで出張行ってる。明日帰ってくるけどね」
ということは、美和も一緒なのか。
それならば連絡が取れないのも仕方ないかもしれない。
「で、何かあったわけ?面白そうだから聞かせてよ」
冷やかすように璃子が話を持ちかける。
「私と付き合ってるときに、そんなに悩んだりしてくれてた?」
「ないね。お前とは喧嘩ばっかりしてた気がするよ」
「お互い浮気ばっかりだったもんね」
「酷い女だよ、全く…」
「あのねぇ、わざわざ付き合ってんのにその言い草って」
もう一杯お願い、と璃子はバーテンダーにグラスを見せる。
「お互い適当で丁度良かったでしょ?
あなた仕事人間のクセして、恋愛に本気にならいでくれる?」
「……どういうことだよ」
「知ってるのよ。斗真がずっと海外事業部に異動希望出してること」
「……」
璃子は新しいグラスを受け取り、中に入ったオリーブをつまみ出した。
綺麗に塗られたネイル。
結婚前と少しも変わらず、美しかった。
「本気で恋愛してるのを止めようとは思わないけど。
ねぇ、どんな相手なわけ?」
坂下は璃子のペースに乗せられないよう、水割りを飲み干した。
「連絡一つよこさない女だよ」
璃子はなるほどね、と相槌を打ち、困った表情の坂下を見て、また笑った。
ハマったら負けよね、と付け加えて。




