やりたいこと
虫たちが飛び交う陽の光の中、馬たちは、小川の水を飲んでいた。
走り回ったので、かなり喉が渇いていたらしい。
ノイは、その音を聞きながら、顔を上げる。
木の枝に、ノスリが止まっていた。
ノスリは獲物を見つけたらしく、
ふっと、落ちるかのように枝を離れ、
ぱっと翼を広げると降下し、
藪の向こうへ消えていった。
それを見送り、振り向いたノイは、モーリスと目が合う。
彼は、馬と共に小川の中に立っていた。
「モーリス様」
そう呼んだノイに、モーリスは、笑いながら川から上がる。
「様と呼ぶのは、やめてくれ」
ノイは、セスが「モーリス様」と呼ぶので、自分もそれに従っていた。
「モーリス・・・あなたは、馬が好きなのね。
馬もあなたを好きみたい。
将来は、厩務員になるの?」
その質問も、モーリスを笑わせる。
「いや、僕は公爵になるんだ」
「馬を扱うより、その方がいいの?」
今度は、驚いて聞き返す。
「君は、公爵が何だが知らないのか?」
「公爵は貴族でしょう? わたしの祖父は子爵だし」
「だったら分かるだろう。公爵の方がいいに決まってるじゃないか」
「そう? セスは、厩務員の方がいいって言うと思うわ」
モーリスは、呆れてノイを見る。
比べても仕方の無い事を言ってるのに、彼女の目は真っ直ぐだ。
こっちの方が恥ずかしくなり、目をそらす。
彼は、ノイとの会話を不思議に思っていた。
世間知らずの様なのだけれど、無知ではない。
かと思ったら、突拍子も無いことを言ったりする。
自分が公爵家の後継者になると決まり、以前の友人たちは離れていった。
そして、利害関係で見る連中が集まってくる。
女の子たちも同じで、中には公爵夫人の座を狙っている者もいる。
ところがノイは、そんなことに関心はない。
「今日は、あなたのお友達は、半分しかいないのね」
モーリスは、はっとして顔を上げた。
「ああ、授業が始まるから、そろそろエスペビオスへ戻らないとね。
君の学校はどうなんだ?」
「学校? ラーウスに学校はないわ」
「ええっ? じゃあ、ラーウス人は字も読めないのか?」
「読めるわよ。
あなたが通うような学校が無いだけで、
だから、わたしの兄たちは、ウィリディス王国へ留学しているのよ。
妹は、最近読み始めたから、お土産に沢山の本を欲しがっているし、
弟は、まだ読めないけれど、そうね、地理の本がいいって言ってたわ」
「ちょっと待ってくれ。
君の弟は、八歳だろう? 字も読めないのに、地理の本が欲しいのか?」
「ラーウスでは、大人たちが、子供たちに本を読んで聞かせるの。
その内、興味が出てきたら、自分で読むようになるわ。
妹は、百科事典を読み終えてしまったし、本を選んでるんだけど・・・
ねえ、あなたのお友達で、いらない本を持っている人はいるかしら」
「大学の教科書?」
「本当!? 喜ぶわ。
わたしは、兄に貰ったんだけど、読ませろって煩いんですもの」
モーリスは、ラーウスは変わった国だと思った。
だからノイの価値観も違うらしい。
「モーリス、あなたは大学で、公爵になるための勉強をしているの?」
「えっ?」
彼は、その質問にも困る。
「公爵になるための勉強とは違うけど、
どうなのかな・・・
教養課程で学んだのかもしれないけど」
「教養課程って面白いの?」
「いや、基本的な教養は身につけた方が・・・」
と言いかけて、突然、心の奥に秘めていた思いが溢れ出す。
「僕が子供の頃の話なんだけど、
父が、荒野にある古い墓に連れていってくれてね。
考古学者が掘り返していて、
幾つかの棺が掘り出され、CT撮影をして、それから元に戻すんだけれど、
一つの棺だけは開けられらんだ。
それは数百年も前の若い女性で、ミイラ化していたのに、
数日前に死んだばかりのようで、
長いまつ毛が綺麗だった。
一緒に埋葬されていた物も調べ、穀物の種まで入っていてね。
それらの情報から、
その民族が、どこから来たのかを調べることが出来るんだ。
あの時の興奮は忘れられない。
それから僕は、アンソポロジーに興味を持つようになったんだ」
それから、はっとしてノイを見る。
「こんな事を女の子に話してもしょうがない」と思ったのだ。
それなのに、ノイは、ニコニコして聞いていた。
「それが、モーリスのしたいことなのね。
人類学者になりたいの?」
彼は、顔を曇らせる。
「いや・・・
じゃあ、ノイは何のために学んでるんだ?」
「幸せになるためでしょう?」
「幸せ?」
「だって、生まれた時は何も知らないから、
どうやって幸せになるのか、分からないじゃない。
わたしたちは、幸せになるために生まれてきたんでしょう?」
モーリスは、また彼女の顔を見つめる。
彼女の目は、銀色がかった緑色で美しい。
それは、キラキラと光って表情を豊かにしている。
「幸せになる」
当たり前のことなのに、何と難しいのだろう。
モーリスは、恐る恐る手を伸ばし、ノイの頬に触れようとする。
その時、セスの声がした。
「ノイ様。そろそろ行きましょうか」
二人は、振り向く。
ノイは、セスの方へ走っていった。