短剣の秘密
夜の静けさがノートン城を覆う。
訪問者は去り、子供たちは寝室に下がっていた。
そしてフィニアスは、別の静けさに気付く。
フロースが、ひとり、広間の壁を見上げていたのだ。
「フロース」
と彼が呼ぶと、彼女は振り返る。
彼女が見ていたのは、壁にかけられた古い短剣だった。
フィニアスもそれを見上げる。
その短剣は、彼がフロースと別れた時、彼女に持たせたもので、
スパイス交渉の後、返してもらう約束をしていた。
ところが彼女は戻らず、短剣だけが送り返されてきたのだ。
「これは、わたしが借りていた短剣でしょう?
あの時は、使い古されていて、傷もあちこちにあったのに、きれいになって、
とても同じものだなんて思えないわ」
フロースは、関心しながら見ている。
「手に取ってみたらいい」
彼がそう言ったので、
フロースは手を伸ばし、短剣を取ろうとするのだけれど、フックから外れない。
彼は、外すのを助けようとして、彼女の頭の上に手をやった。
その時フロースは、懐かしい雰囲気に包まれる。
彼の手が作る影だ。
フロースは、彼の手が自分の額に触れようとして影を作り、目を瞑ったのを思い出す。
それはフロースが高熱を出し、エスペビオスにある彼の屋敷で看病された時のことで、
そうして彼女は、彼の優しさを知り、恋するようになったのだ。
フロースは、ふふふと笑う。
フィニアスは、短剣を取りながら怪訝な顔をした。
「また、変なことを思い出したんじゃないだろうな」
「そうじゃないわ。
あなたが、病気のわたしを看病してくれたことよ」
「ああ、それは・・・」
とフィニアスは言って、目をそらす。
そんなこともあったなと思う。
「あれは、家政婦のデルフェ婦人がやったことだ。
そういえば、あんたは、
エスペビオスへ戻ったその足で、婦人に会いに行ったそうだな」
「ええ、デルフェ婦人には、戻って来るって約束していたのよ。
それなのに、こんなに長く戻れなくて申し訳なくて・・・
元気な婦人に会えて、本当に嬉しかったわ」
「あんたは・・・」
とフィニアスは言って、言葉を止めた。
「戻ってくると約束したのは、自分にではなかったのか」と言おうとしたのだ。
そして、
「どうして、すぐに戻ってこなかった」と聞きたかったのだけれど、
今更、答えを聞いても仕方が無い。
フロースは目を輝かせながら、彼が言い終えるのを待っている。
「デルフェ婦人に、『また会いに行く』と言ったそうだな」
フィニアスは、言おうとしていたことを変えた。
フロースは、微笑む。
「ええ、ちょっと会っただけで、ゆっくり話せなかったんですもの。
『花のお茶会』の後に行くことにしているの」
そう言いながら、フロースは、フィニアスの持っている短剣を見る。
彼は、それを持ったままだった。
彼女が短剣を受け取ると、両手だったのに、重みで落としそうになる。
「こんなに重かったかしら」
「宝石を付け直したたからね」
その昔、フィニアスは、城から短剣を盗み、宝石を剥がして売り、
本体は護身用として持ち続けていた。
城を買い戻した後も、新しい宝石を付けることなく、
みすぼらしいままでも、直す気がしないでいた。
フロースは、指の先で、そっと、プリオベール家の紋章を撫でる。
フィニアスは、彼女の身を守るために、自分の短剣を持たせた。
スパイスの交渉は秘密裏に行われ、フロースの身分も隠さなければならず、危険が伴ったのだ。
短剣に付いた紋章は、はっきりと見ることが出来た。
男たちは、この短剣を持った彼女が、フィニアスの女であることを知るので、
手を出さないはずだった。
彼女は、その理由を知っていたが、「意味」には気付かなかった。
今でも、その深い意味を知らない。
フロースは、しばらくの間、短剣を眺め、それからフィニアスに戻す。
フィニアスは、それを壁にかけた。
短剣の装飾を直したのは、フロースが戻らないと知ったからだ。
フィニアスは、その時の自分の気持ちを思い出す。
あれから時が過ぎ、二人とも違う人生を歩んでいる。
たとえ彼女が、こうしてそばにいても、心に壁を築こう。
壁を築いて、気持ちを封じる。
その思いを、置き去りにするのだ。
「明日、ディフォーレスト家へ戻るわ」
フロースが言った。
フィニアスが振り返る。
「わたしも、『花のお茶会』の手伝いをしたいし。
モーリスが、ネイサンにジュニア馬術競技に出るよう勧めたでしょう。
これからセスは忙しくなるから、ノイは邪魔になるだけよ。
明日、モーリスもエスペビオスへ戻ってしまうし、
短かったけれど、ノイの恋も終わりね」
「ああ・・・」
とフィニアスは答えた。
モーリスは、「ノイに関心はない」と言った。
「そんなはずは無い」と思うのだけれど、それでもいい。
これから先、若い二人には、出会いなどいくらでもある。
そして、別れも。
モーリスとノイの恋は、終わったのだ。
とにかくフィニアスは、これで事は済んだと思った。
しばらくは、モーリスに会わないだろうと思っていたら、すぐに再会することになる。
アデールが、彼を、『花のお茶会』に招待したのだ。
アデールは、
「ネイサンを乗馬に誘ってくれたお礼を兼ねて招待した」と言うのだが、
次の公爵と交友関係を結びたいと言うのが本音だ。
フィニアスは、妻のしそうなことだと思った。