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マイルス・デイヴィス物語  作者: はまゆう


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1/1

第1話 ジュリアードの教室で、マイルスが立ち上がった日

 マイルス・デイヴィスの話をすると、たいていの人は、まずあの背中を思い出すんだよな。客に背を向けて吹く、あの感じ。あるいは、サングラス。あるいは、あの、喉の奥で笑ってるのか怒ってるのか分からない声。

 でもね、俺が最初に思い出すのは、背中でもサングラスでもない。教室なんだ。ジュリアードの、白くて、よく響くくせに、音楽のいちばん大事なところだけはぜんぜん響いていなかった教室。

 その話を最初に聞いたのは、もうずいぶん昔だ。ニューヨークで、朝方の店じまいのあとだった。ピアノの蓋は閉じて、グラスの底に溶け残った氷が、もう音を立てる元気もないころ。トランペット吹きがひとり、煙草を指にはさんだまま、マイルスの昔話をしてくれた。

 「あいつ、授業中に立ち上がったんだよ」

 そいつはそう言って笑った。

 「しかも、いちばん立ち上がっちゃいけない種類の授業でな」

 ジュリアードの音楽史の授業だったらしい。講師は白人の女で、いかにも“教養として黒人音楽を理解してます”って顔をした先生だったそうだ。そういう顔、分かるだろ。差別してるつもりはない。むしろ理解者のつもりだ。だが、その理解が、最初から人を標本にしてる。

 その先生が教壇で、ブルースについて何か言い出した。

 「黒人がブルースを演奏する理由は、貧しくて綿花を摘まなければならなかったからで、その悲しみがブルースの根源になった」

 だいたいそんな調子だったらしい。

 いま聞いても、ひどい話だ。

 ひどいっていうのは、単に無知だからじゃない。無知なら、まだ学べる。あれは無知に、善意の顔をした傲慢さがくっついてる。ブルースを、黒人を、歴史を、ぜんぶ一枚の説明図に押し込めて、「はい、分かりましたね」で済ませる種類の暴力だ。

 で、マイルスが手を挙げた。

 あいつは、若いころから、黙って飲み込むタイプじゃない。誤解しちゃいけないのは、いつも怒鳴る男だったわけじゃないってことだ。むしろ逆で、ほんとうに腹が立ったときほど、声は低くなる。温度が下がるんだよ。

 それで立ち上がって、こう言った。

 「ボクは東セントルイスの出身で、父は歯科医なので金持ですが、でもボクはブルースを演奏します。父は綿花なんか摘んだことがないし、ボクだって悲しみに目覚めてブルースをやっているわけじゃありません。そんな簡単な問題じゃないはずです」

 先生は真っ青になって、それ以上何も言えなかった。

 マイルスは後年、自伝で、もっと刺のある言い方をしてる。だが芯は同じだ。ブルースは、白人の想像する“かわいそうな黒人の悲しみ”なんかじゃない。そんな安い話じゃない。

 ここが大事なんだ。

 マイルスは、自分の父親が歯科医で、家が比較的裕福だったことを、引け目じゃなく武器として使った。そこがあいつらしい。

 黒人であることと、貧困であることを、白人の頭の中で勝手に一つにされるのが、あいつは我慢ならなかったんだ。東セントルイスの黒人社会には、貧しい人間もいれば、職業人もいた。教会の音も、街角のブルースも、ダンスホールのバンドも、クラシックの気配だってあった。マイルスの家は、そういう複数の世界の交差点にあった。父親は歯科医で、母親は音楽の素養があった。家柄の誇りもあった。だが、だからといって人種差別から自由だったわけじゃない。

 つまり、ブルースは「貧しいから」だけでは説明できないし、「悲しいから」だけでも説明できない。もっと複雑で、もっと身体的で、もっと土地の匂いがして、もっと誇り高いものなんだ。

 俺はピアニストだから、ブルースを理屈で説明したくなる気持ちがまるで分からないわけじゃない。12小節だ、ブルーノートだ、I-IV-Vだ、そういう話はできる。授業ならなおさらだ。

 でも、マイルスがあの教室で怒ったのは、音楽理論の不足に対してじゃない。人間理解の貧しさに対してだ。

 ブルースは、悲しみの音楽ではある。だが、悲しみ“だけ”の音楽じゃない。

 笑いもある。見栄もある。色気もある。喧嘩もある。歩き方もある。服の着方もある。昨日殴られた男が、今日の夜には女を口説く、そのどうしようもない生の厚みがある。

 マイルスは、その厚みを知っていた。知っていたというより、その中で育った。

 東セントルイスの話になると、あいつはいつも少し複雑な顔をした。誇りもあるし、怒りもある。父親のことは尊敬していた。歯科医で、土地も持っていて、家族を食わせて、息子に教育を受けさせた。黒人がそういうふうに立つこと自体が、当時のアメリカではひとつの闘いだった。

 だが同時に、金があっても黒人は黒人だった。白人社会は、黒人が成功しても、それを“例外”としてしか見ない。あるいは、もっとたちが悪いと、「お前は特別だ」と言って、構造の問題をなかったことにする。

 マイルスは、そのどっちにも乗らなかった。

 「俺は例外じゃない。お前の見方が貧しいんだ」

 あの教室で言ったのは、つまりそういうことだ。

 ジュリアード自体、あいつには窮屈だった。理論や読譜や和声の勉強が無意味だったわけじゃない。実際、後年のマイルスを聴けば、あいつが構造を分かっていなかったなんて、口が裂けても言えない。ラヴェルやドビュッシーの色彩感、和声の置き方、余白の作り方、ああいうものを吸収していなければ、あの音楽にはならない。

 でも、学校の中で教えられていた“音楽”は、あまりに白かった。

 白い、というのは、単に作曲家の国籍の話じゃない。価値の置き方の話だ。何が高級で、何が低級か。何が研究に値して、何が“民俗的”なものとして片づけられるか。そういう序列の話だ。

 マイルスは、その序列の匂いに敏感だった。だから昼は学校にいても、夜になると52丁目へ行った。バードやディジーのところへ行った。教室ではなく、現場で学んだ。

 あとで誰かが「ジュリアードはどうだった?」と聞くと、あいつは平気で「白人的すぎた」みたいなことを言う。乱暴に聞こえるかもしれないが、あれは単なる悪口じゃない。音楽の中心から、黒人の経験と感覚が外されていることへの、正確な告発だったんだ。

 それにしても、あの返しは見事だよ。

 「父は歯科医で金持だが、俺はブルースをやる」

 この一言で、先生の説明は崩れる。

 しかも、マイルスはそこで「だからブルースは高級なんだ」とは言わない。そこがいい。ブルースをクラシックの側へ引き上げて正当化するんじゃない。ブルースの側に立ったまま、相手の見方の貧しさを暴く。

 つまり、ブルースは“かわいそうな人の音楽”だから価値があるんじゃない。ブルースそのものが、ひとつの知性であり、美学であり、世界の捉え方なんだ。

 それを、あいつは若いころから分かっていた。

 俺はその話を聞いてから、マイルスのソロを前より少し違って聴くようになった。

 たとえば、あいつが一音だけ長く置くとき。あるいは、フレーズを途中で切って、次の音をわざと遅らせるとき。あれは単にクールなんじゃない。説明されることへの抵抗なんだよ。

 「お前が思ってるより、こっちは複雑だ」

 そう言ってる。

 「お前の言葉で片づけるな」

 そう言ってる。

 あの教室で立ち上がった若いマイルスは、もうその時点で、後年のマイルスだったんだ。

 それに、あいつはブルースを“悲しみの吐露”としてだけ扱わなかった。むしろ、悲しみをそのまま見せるのを嫌った節がある。泣き崩れる代わりに、背筋を伸ばす。傷ついているほど、音数を減らす。

 それは強がりでもあるし、美学でもある。

 東セントルイスの家で、歯科医の父親を見て育ち、白人の町で黒人として生き、ジュリアードで白人講師の無知にさらされ、夜の街でバードとディジーの音を浴びた男の、美学だ。

 ブルースは、泣くためだけのものじゃない。

 泣かずに立っているためのものでもある。

 マイルスは、そのことを知っていた。

 だから俺は、あの逸話を、単なる“若き日の痛快な反論”としては見ていない。あれは宣言なんだ。

 「俺の音楽を、お前の都合のいい物語にするな」

 その宣言。

 そして、あの宣言は、のちのマイルスの全部につながっていく。

 白人批評家への苛立ちも、観客に媚びない態度も、ジャンル分けを嫌う癖も、全部あそこに芽がある。

 ジュリアードの教室で、白人の女教師がブルースを説明した。

 その瞬間、マイルスは立ち上がった。

 あいつはたぶん、先生ひとりに怒っていたんじゃない。

 もっと大きなものに、もっと長い時間をかけて積み上がった“見下し”に向かって、あの場で一度、音の代わりに言葉を吹いたんだ。

 で、そのあとどうなったかって?

 先生は黙った。

 それで十分だったんだろう。

 マイルスは、相手を教育したかったわけじゃない。

 ただ、そこにある嘘を、その場で嘘だと言いたかっただけだ。

 いいミュージシャンってのは、たいてい、音の前にそういう瞬間を持ってる。

 自分が何者かを、誰かに決められそうになったとき、

 「いや、違う」

 と一度、立ち上がる瞬間だ。

 マイルスの場合、その「違う」は、最初からずっと、ブルースみたいな響きをしていたんだと思う。


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