第8章:三年前の「バックアップ」 ―― 事故の再定義
玲子が震える指で制御パネルに触れると、ホログラムのように、三年前のあの雨の夜の「ログ」が再生され始めた。映像には激しいノイズが混じり、時折「Read Error」の文字が虚空を走る。かつて彼が何度も頭の中で再生した光景が、客観的な情報の記録として展開される。
「隆明さん、ごめんなさい。黙っていて」 映像の中の万紗子は、大学の正門前で徳永を待っていた。降りしきる雨が、彼女の薄い肩を濡らしている。大型トラックが物理法則を逸脱した速度で突っ込んでくる。それは事故というよりは、システムによる「バグの強制排除」のように見えた。世界を正常化するために、不都合な記述を消し去るための、冷徹な排除プロセス。
その夜、徳永は自らの研究の多忙さを理由に、彼女の呼びかけを無視して研究室へ戻った。それが、彼が最後に見た、実体としての妻の姿だった。彼は三年間、自らの傲慢さが彼女を殺したのだと、自分を呪い続けていた。だが、映像の中の万紗子は、トラックが激突する直前、彼の方を振り返って微笑んでいた。その微笑みは、許しではなく、託された未来への確信だった。彼女はトラックが物理法則の一部として自分を消去することを知りながら、その運動エネルギーをデータの送信出力へと変換したのだ。
「この世界はもうすぐ壊れるわ。だから、私たちの子だけは、物理的な『死』という削除を超えた場所に逃がすの。隆明さん、いつかこの種を見つけ出して。 ...そして、宇宙の記述そのものを書き換えて。記述されることを待つのではなく、自ら物語を書く者になって」
万紗子は激突の瞬間、自分の胎内に宿っていた未定義の情報を、宇宙のストレージの深淵……事象の地平線の「内側」へと、強引に流し込んだ。 それが、三年前の事故の真相だった。彼女は自分の魂と肉体の情報を演算リソースとして使い果たし、娘という名の「究極のバックアップ」を生成したのだ。物理的な死は、データのアップロードのための手続きに過ぎなかった。徳永は、目の前に立つ玲子が、自分が三年前救うべきだった家族の「結末」であり「始まり」であることを静かに受け入れた。




