第5章:至達大学の亡霊と「記述」の重み
深夜の国立至達大学。中庭のソメイヨシノが、深夜の月光に照らされて幽玄な白さを放っていた。その足元には、数え切れないほどの花びらが、まるで誰かの書き損じた原稿の破片のように散らばっている。夜の静寂の中で、木の葉が擦れ合う音だけが、不自然に鮮明に聞こえてくる。徳永は五感を超越した「観」の感覚を研ぎ澄まし、空間の「記述」を読み取ろうとする。視覚を切り捨て、聴覚を超え、この空間の情報の揺らぎそのものを読み取ろうとする試みだ。
深夜の研究室、閉ざされた扉の向こう側から、微かな打鍵音を聞こえてくる。カチャ、カチャ、という、万紗子特有のリズミカルな、それでいてどこか焦燥感の混じったタイピングの音。それは、この場所から離れるように促したあの残留思念と同じ周期を持っていた。物理的な音ではない。空間の記録領域に刻み込まれた、情報の反響だ。 「……万紗子は、死んだんじゃない。宇宙という巨大なストレージの、通常のアクセス権限では届かないセクタに『隔離』されただけなんだな。そして、彼女は今もそこで、書き換えを続けている。僕をこの地点まで運ぶために。このタイピングの音は、彼女が未だに自分という情報を記述し続けている実存の証拠だ」
徳永は、かつての自分のデスクに向かった。そこには、三年前の事故の日と同じ状態で、一客のコーヒーカップが置かれていた。カップの底には、黒く干からびた液体の痕跡が、まるで宇宙のインデックスのようにこびりついていた。玲子がその底を指差す。そこには、光の反射の加減で見えるか見えないかの、微細な引っ掻き傷のようなものが刻まれていた。 それは如月教授の数式の一部であり、同時に、一つの「アドレス」を示していた。
「重力波干渉計……地下数百メートルの、あの場所か。万紗子が最後まで研究していた、存在の優先順位を決める特異点。情報の最深部、ルート・ディレクトリへ至るためのポインタ。彼女はそこに、宇宙を救うための最後の一行を隠したんだ。質量、時間、重力。それらすべてを無効化する、神のバックドアへ至るための鍵を」
徳永の肉体が、かつての准教授としての熱量を取り戻していく。無精ひげに覆われた顔に、鋭い学究の光が宿る。窓の外では、春の月が静かに移動し、桜の樹影をコンクリートの壁に長く伸ばし、刻一刻と迫る終焉への秒読みを刻んでいた。




