第4章:如月妙美の遺稿 ―― アルファでありオメガであるもの
二人はタクシーを拾い、かつての研究拠点であった国立至達大学へと向かった。車窓を流れる東京の街並みは、玲子の付与した視覚によって、崩れかけたワイヤーフレームのように頼りなく見えた。首都高速の防音壁の向こうに、公園の満開近い桜が淡いピンク色の雲のように連なっているのが見えるが、それさえも描画の負荷を軽減するために簡略化されたテクスチャに見えてしまう。徳永は無意識にシートを握りしめた。自分の指がシートに触れる感触さえ、演算の結果として返ってくる電気信号に過ぎないという実感が、彼を苛んでいた。
「如月教授は、物理学と神学を統合しようとしたのではない。彼女は、この世界が『誰かに記述された物語』であることを、数式で証明しようとしたのよ」 玲子が膝の上で指を組む。その仕草一つ一つが、精密なプログラムの実行結果のように無駄がなく、同時に痛々しいほど美しい。 「神はサイコロを振らないのではない。神は、ストレージの節約のためにサイコロを振る必要さえないのよ。すべては決定論的なコードの中にある。ただ、そのコードがあまりに膨大になりすぎて、神自身の演算処理が追いつかなくなった。それが、私たちが観測している『終末』の正体。宇宙という巨大なシステムが、自身の複雑さに耐えきれず自壊し始めている」
徳永は鞄から、如月の遺稿を取り出した。手垢で汚れ、何度も読み返されたその紙束には、宇宙の終末を回避するための等式が、預言者の宣告のように刻まれている。 $∞≒0$ 「無限はゼロに近似する。情報量が極限に達した時、意味は飽和し、システムはそれを虚無として処理する。如月教授はこれを『ロゴスの熱的死』と呼んだ。記述が増えすぎれば、個別性は意味を失い、全情報は等しく無価値になる。……それが今の世界だ。この公式は、情報の絶対値が増大した結果、システムが全記述を『なかったこと(ゼロ)』にして負荷を解消しようとする究極の破滅を示唆しているんだ」
徳永は、自分の手が震えていることに気づいた。物理学者として絶対的だと信じた素粒子は、ただの「重い命令文」に過ぎなかったのだ。愛も、憎しみも、科学さえも、宇宙の容量を食い潰す高コストな記述に他ならない。
「如月先生の『アルファでありオメガである』という言葉は、情報の最初と最後が一点で結ばれていることを示唆していたんだな。万紗子はこの等式の欠陥に気づき、無限とゼロを繋ぐための『第三の変数』を探していた。それが何だったのか、僕は未だに解けないままでいる。ただの数学的な帳尻合わせじゃない。存在を存在たらしめるための、最後のパリティチェック……。彼女は言っていた。『隆明さん、物理学が愛を記述できないのは、愛が数式を上書きする特別な記述言語だからよ』と」
「彼女はそれを見つけたのよ、徳永さん。見つけたから、彼女は消去された。……いいえ、『隔離』されたの。その変数を, あなたに届けるために。そして、その変数の名は『記録』ではなく、『経験』だったのよ」
タクシーが至達大学の正門に滑り込む。かつて徳永が教鞭を執り、万紗子と共に素粒子の向こう側に神の顔を探した場所だ。今やそこは、EDS(消失症候群)への恐怖に駆られた人々が、かつての理性の府に「救済」を求めて彷徨う、現代の廃墟と化していた。街灯は不安定に明滅し、校舎の時計台は、針が逆回転を始めていた。時間が巻き戻っているのではない。時間という変数の処理が、完全に破綻しているのだ。




