第3章:渋谷、マトリックスの氾濫
玲子に導かれ、徳永は午後の渋谷へと繰り出した。 春の陽光が降り注ぐ2030年のスクランブル交差点は、卒業生たちの歓声と、春休みの観光客で埋め尽くされている。道沿いの花壇にはパンジーやチューリップが鮮やかに咲き誇り、街路樹の若葉はまぶしく光り、平和そのものの光景だ。ハチ公前広場には、消失を恐れる人々が「存在証明」と称して、自分の名前を叫びながらライブ配信を続けている。彼らは自分が画面に映っていることを確認することで、まだ自分が「削除」されていないことを確かめているのだ。
巨大なデジタルサイネージはこれでもかと彩度の高い色彩を垂れ流し、人々の視覚をジャックしているが、その光さえもどこか透けて見えた。建物の窓ガラスが、不規則にピクセル化して一瞬だけ崩れ、再び再構成される。その修復速度は、世界の崩壊速度を辛うじて上回っているに過ぎなかった。
「私には、世界がこう視えるの。あなたにも、一時的な閲覧権限をあげるわ」
玲子が徳永の側頭部に、氷のように冷たい指を触れた。 瞬間、徳永の網膜を爆発的な情報の濁流が突き抜けた。スクランブル交差点を渡る人々の群れが、肉体という「テクスチャ」を剥ぎ取られ、その背後にうごめく膨大なログへと還元される。視界の端には、ビットレートやエラー率を示す数値が滝のように流れている。まるで、世界そのものが一つの巨大なコマンドラインに制御されているかのようだった。
「見て、隆明さん。あのサラリーマンは、昨夜の不倫の罪悪感と、膨れ上がった住宅ローンという巨大なキャッシュを抱えて歩いている。あそこの女子高生は、数分後に起こる『消失』のフラグが、エラーメッセージのように真っ赤に点滅しているわ。……宇宙というストレージは、もはや個々の物語を保持するだけの空き容量を失っているのよ。記述が増えすぎた結果、メモリが断片化し、処理の優先順位をつけざるを得なくなっている」
玲子の視点を通すと、街の喧騒は意味を持たないノイズの集積に過ぎなかった。 「情報の飽和が臨界点を超えると、システムは最も手近な解決策を選ぶ。……不要なデータの削除よ。ガーベジコレクションの開始。それは、宇宙という物語が『要約』され、細部が切り捨てられていく過程なの。個性や思い出、そういった演算コストの高いデータから順に、神という名のOSは消去を選択する。この春の陽光を、誰もが本物だと信じているうちにね」
徳永は、琉球古武道の呼吸法「息吹」を使い、意識の混濁を必死に鎮めた。情報の奔流の中で、自分の「存在」という中心を死守しようとする。
一人のストリートミュージシャンが、ギターを奏でたまま「透過」し始めた。弦の音だけが空中に一瞬残り、次の瞬間には彼が存在したという事実そのものが、周囲の記憶から滑り落ちていった。最初から誰もいなかったかのように、通行人はその場所を避けて歩き続ける。記録されない存在は、最初から存在しなかったことと等価。それがこの世界の非情な真理だった。徳永はその虚無に、自らの数式が予言した終焉を重ね、深い溜息をついた。




