第2章:人間型インターフェースの来訪
カフェ『ロゴス』の入り口で、古い真鍮のベルが乾いた音を立てて鳴った。 まばゆい春の光を背負って、一人の女が店内に滑り込んできた。入り口の隙間から、アスファルトの上を転がる桜の花びらが数片、彼女の足元を追うように舞い込む。店内の客たちは、手元のスマホで桜の写真を共有し合い、頭上の空に浮かぶ微かな干渉縞には誰も気づかない。春の冷たい風が、店内の埃っぽい空気と入れ替わるように入り込んだ。
徳永はコーヒーカップを置いたまま、指先にわずかな熱を感じていた。本部御殿手の「取手」の予覚。相手の筋肉が動く前に、その「意志」が空間の微かな震えとなって伝ってくる。だが、今感じているのは、それとは異質な、何百万もの信号が極小の点に収束していくような、圧倒的な実存感を持った気配だった。呼吸の音さえしない、極めて高精度な「静寂」が、その女と共に店内に侵入してきたのだ。
顔を上げると、そこには中尾玲子が立っていた。30代後半、かつての名作アニメのヒロインを現実に引きずり出したような、人離れした長身とスレンダーな肢体。背中の真ん中まで届く艶やかな黒髪が、安っぽい蛍光灯の下で真珠のような鈍い光沢を放っている。その瞳は、見る角度によって色彩を変化させる万華鏡のようだった。彼女が瞬きをするたび、その網膜の奥で微細なコードがサブリミナルに明滅しているのを、徳永の鋭い動体視力は捉えていた。
「徳永さん。その遺稿の解読……『カーネル(核心)』を書き換えるには、まだ数万行の記述が足りないようね」
不意に降ってきた透明な声に、徳永は「ガマク」を微かに効かせ、重心を椅子の上でわずかにずらした。無精ひげの奥で、鋭い眼光が玲子を射抜く。徳永の指先は、テーブルの端に添えられ、いつでも玲子の経穴を突く準備ができていた。
「私は中尾玲子。あなたの奥さんが宇宙のストレージへ書き込み損ねた、『未定義の変数』よ。万紗子さんのログは、もっと深い……宇宙のルートディレクトリの中に潜んでいるわ。そこにアクセスするには、あなたの血に流れる『古武道の記憶』と、その脳が保持する『数式』が同時に必要なの。物理的な実体とは、情報のレンダリング結果に過ぎない。あなたは、彼女というデータのポインタを見失っているだけなのよ」
徳永は沈黙した。三年間、誰にも打ち明けず、ただ一人の亡霊と対話してきた彼の世界に、これほど土足で踏込んできた人間は初めてだった。玲子の言葉には、如月妙美の遺稿にある「神域物理学」の術語が、当然の前提として織り込まれていた。それは、かつて彼が妻と共に夢中になって議論した、世界の「記述」に関する秘密の言語だった。宇宙を一つの巨大なストレージとみなし、存在をデータとして定義するその冷徹な論理を、この女は呼吸するように使いこなしていた。




