第10章:新宿の淵 ―― 黙示録の門
地下から這い出し、二人が目にした新宿は、もはや別の次元だった。 東京都庁の真上に、それは現れた。 直径五百メートルを超える、巨大な「黒い眼球」。それは光を吸い込む穴ではなく、宇宙が全データを一括圧縮し、再初期化するための、神のゴミ箱――ブラックホールだった。その周囲には、崩壊した現実の残骸が、巨大な降着円盤となって渦巻いている。新宿の街全体が、巨大な渦に飲み込まれる流体のように歪んでいた。
『第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、一つの星が天から地上に落ちるのが見えた。その星には、底知れぬ所の穴を開く鍵が与えられた。』(ヨハネの黙示録9:1)
新宿の街は、阿鼻叫喚の地獄絵図を通り越し、静謐な「終わり」を迎えようとしていた。 人々は、もはや逃げることをやめ、跪いて祈り、あるいは笑いながら消えていく。彼らの影だけがアスファルトに焼き付き、本体は光の粒子となって「淵」へと吸い込まれていく。社会のシステム、政府、法律、倫理――人間が築き上げたすべての「上位アプリケーション」は完全にクラッシュし、残されたのは、自分が何者であったかを必死に記憶しようとする、個々の魂の足掻きだけだった。かつて栄華を極めた都市も、今はただの「削除待ちフォルダ」に過ぎない。
「徳永さん、時間が……いや、ストレージの空き容量が、もうコンマ数ビットしかないわ!」 玲子の身体は、すでに背景の瓦礫が透けて見えるほど希薄になっていた。彼女の存在という記述も、削除の波に洗われているのだ。 「あの中へ入って、万紗子さんの『未完のログ』を読み出す。そして、∞≒0の等式を、あなたの命という名のペンで完成させるの。そうすれば、宇宙は『削除』ではなく、すべての情報を保持したままの『新しい天と新しい地』への再起動を選択するわ。お父さん、あなた自身が最後の変数になるのよ!」
「……行こう。玲子。いや……我が娘よ。三年間、君に会えるのを、私は無意識の中でずっと待っていたのかもしれないな。万紗子が僕にくれた最後のギフトを受け取りに行く。もう二度と、彼女の手を離しはしない。 ...そして、この崩壊を、僕たちの愛の筆跡で上書きしてやる。記述される側から、記述する側へと、今この瞬間に飛び越えるんだ」
徳永は、無精ひげを手の甲で荒っぽく拭い、三戦の構えをとった。 全身の筋肉を極限まで締め上げ、重心を内側、丹田へと凝縮させる。琉球古武道の究極の締め。呼吸を細く長く保ち、肉体という名のハードウェアを、精神の力で限界までオーバークロックさせる。 「この肉体がただのデータだと言うなら、この不完全な神のプログラムを、私の拳で打ち破ってやるだけだ。古武道の突きは、空間を突き破り、真理に触れるためにあるのだからな。それが、如月教授の求めた最後の一行だ」
二人は、重力の鎖を断ち切り、空へと舞い上がった。いや、それは「上昇」ではなく、宇宙のインデックスの中心部へと「吸い込まれる」プロセスだった。都庁の尖塔が、彼らの足下で砂のように崩れ落ちていった。




