36 子ども扱い
アイリスは少し黙って準備をするべき、と結論付けてから、ぼんやりとしながらアイリスの咲かせた花の花弁をゆっくりと撫でるレナルドに視線を戻した。
いくら決意をしたとしても、急に会話の内容が変わったら驚くだろうと思うので、レナルドが言っていたことについて言及してみた。
「……ウィリアム王太子殿下の心の傷、ですか」
「うん。普通はあのぐらいの年頃なら、あんな風に親のそばを離れなかったりせずに一人で勉強なり稽古を受けられるはずなんだけど、やっぱり革命騒動があってから、自分の母親以外に信用を置けなくなているみたい」
悲しそうに言うレナルドにアイリスは、母親とそしてレナルド以外には、だろうと思った。
あんなに懐いていて、レナルドは彼からの信頼が得られていないわけがない。
革命のときにあった出来事で、レナルドなら信用に値するとウィリアムが判断する出来事があったに違いない。
しかしわざわざそこを否定するのは意味もないだろうと思いアイリスは別の事を問いかけた。
「幼いうちから心の傷を負うことは不憫ですが、セオドーラ様と常に一緒といっても、やはり離れなければならない時もあるでしょう? そういう時はどうなっているのでしょうね」
「……」
「あの、答えづらい質問でしたか?」
「……いや、その……何と言うか、君に故意に黙っていたわけではないんだけど」
「はい」
「俺が……一応おそばに……」
「……随分と懐かれているんですね」
レナルドはバツが悪そうにそういって、アイリスの事を窺うように見た。
それに指摘すまいと思っていたウィリアムとレナルドの関係について、アイリスはつい指摘してしまった。
するとレナルドは「うーん」と困った顔で唸ってから、とても渋い表情で言う。
「ごめん、よその子に構ってばかりなんて嫌だよね。俺と君は夫婦なんだし、忠誠を誓っていた一族だとしても自分たちの事を優先するべきだ。セオドーラ様にも言われたし。
それにアイリスに我慢はしてほしくない、これからは少しずつでもウィリアム様と適切な距離にしていきたいとは思っているんだけど……」
それはもちろん一般的にはそうなのだが、アイリスたちはとても普通とは違う状況下で結婚したし、もちろん子供を産んだらいろいろあるのだろうが。
それにしたってウィリアムはすでに十歳前後だ。
アイリスたちが子供をと望むぐらいの時には分別がついているだろう。
特に不満はない、しかし気になる点といえば、アイリスはどうやら彼に嫌われているらしいという所だ。
完全に対抗心を向けられているような気がしたので、その点がすこし心配ではある。
「……急に、関係を絶ってほしいなんて、私は思いません。……ただ、レナルド様に確認しておきたいことがいくつか」
「うんっ、なんでも言って、俺に答えられるものならなんでも」
アイリスの言葉にレナルドはすぐに食い気味に返答してきて、二人の間にあった花瓶をテーブルの端によけて、アイリスを真正面から真剣に見つめた。
そんなに、意気込まなくてもいいし、何と口にしたらいいのかわからなくてアイリスは明確に伝え方を決めずに話した。
「……えっと、ウィリアム王太子殿下に会った時、私に対する多少の対抗心というか、そういうものを感じた気がしました」
「それは、そうだね。ウィリアム様は基本的に朗らかな子だけどアイリスにはむくれていたね」
「はい。ですからその彼には、きっと大好きなレナルド様を独り占めする酷い人に見えているのではないかと思いまして。
もちろん、ベクトルは違うはずですけど……その、私、もレナルド様に少し、ほんの少しだけ子ども扱いされているような気がしますから。
ほら、頭を撫でてもらったり、手を引いてもらったり、後は、だっこはしなくても抱きしめてもらったり。
でも、ち、違いますよね。レナルド様。私はレナルド様にとってウィリアム王太子殿下と同じベクトルにいる子供ではありませんよね?」
ただそれだけが心配なのだ。
長年の付き合いがある人に、アイリスが同じベクトルで勝てるわけがない。というかもちろん同じ土俵で争っているつもりなんてひとかけらもないのだ。
だから全然心配ではないのだが、仮に、仮にだ。
同じベクトルで、長年の付き合いのウィリアムとぽっとでのアイリスが比較されて、体裁があるからアイリスを大切にしようとはするが、心の底で二人に邪魔だと思われていたらとっても悲しい。
そんな風に邪魔をしたいわけではないし、そもそもレナルドにだっこされて頭まで撫でられているウィリアムにアイリスがどうこう思うわけがない。
まったくうらやましくなんてない。だって違うベクトルにいて、違うすごろくの道を歩いているのだから関係なんてないのだ。
それを確認したいだけなのだとアイリスは自分に言い聞かせた。
「もちろん。……全然、違うよ」
アイリスの質問にレナルドはとても平然と返して、自分の質問がそんなに的外れなものだったかとアイリスはとても恥ずかしくなり顔が途端に真っ赤になってしまった。
「い、イエッ、わ、わかってはいるんです。もちろんです。私だってレナルド様の事を慕ってはいますが、同じ大人として支え合えたらいいなと思っています。
ただ、ほんの少しばかり、ウィリアム王太子殿下にしていたことと普段の私との触れ合いが似たような性質のものでしたから、そこが少し気になってしまって。
とてもその、レナルド様と遊んでいるときも抱きしめているときも、ウィリアム王太子殿下はとてもうれしそうというか満たされているような表情をしていて。
それは少し私も、思う所がありましてその気持ちはなんだか少しわかるなとか、レナルド様に抱きしめられると安心する心地になるなとか、思う所があってですね。
だからその決して別に何も、私は、まったくウィリアム王太子殿下とは別の関係性だと理解しているけれど共通点もあって……」
アイリスは羞恥心そのままにペラペラと話を続けてしまい、自分の中でまったく収拾がつかなくなっていた。
言いたいこと、確認したかったこととはまったく違う方向で変なことをいってしまうし、これではまるでウィリアムをうらやましく思ってしまったみたいな言い草だ。
「ほら私ったら少し子供っぽい要求をしてしまうことも多くあって、同じように見られていてもおかしくないなと思ったんです。
でもだからつまりどういうことかといいますと……」
アイリスは頭の中がこんがらがって、自分が何を言おうとしたのかよくわからなくなってしまった。
顔が熱くて頭がくらくらしてしまって、もうまともにレナルドの事を見ることができない。
しかしそれでも収拾がつかなくなった口はひとりでに動き回り、「あのそのつまりですね、子ども扱いというのはどういうことかというと」ととりとめのない事を話し出そうとしていた。
……なんだか、いろいろと間違えた気しかしません。
心ではそう気が付いているのだが、止まり方がわからなくてアイリスは頭から煙が出そうであった。
「……それなら、子ども扱いしているつもりはないと示せばいい?」
ふいに、彼は椅子から立ち上がってテーブルに手をつき、アイリスの真っ赤になっている頬にすこし触れた。
アイリスは顔が熱くなってしまっているからか、レナルドの手がとても心地よい温度に感じて、これ以上、喋ってもいい事はないと思い黙って彼を見上げた。
「アイリス、一旦落ち着いて、俺はアイリスが不安に思っていたことを聞けて嬉しいよ。対処できるからね」
「……」
「それで、俺が君とウィリアム様を同じように愛しているかっていう話だったっけ?」
問いかけられて、とても簡潔な言葉にアイリスは小さく頷いた。
「答えはもちろん違う。だけど、君からすると、俺は君の頭を撫でたりするし同じに感じるときもあるって言いたのかな」
「……はい」
まったく子ども扱いしていないと彼はいうのに、子供にするような確認の仕方をされて、アイリスはまたいたたまれない気持ちになった。
しかし、そんなアイリスにレナルドはうっとりしてしまうほど優しい笑みを浮かべて「君ってばそんなこと心配するなんて可愛い」と朗らかに言った。
「……でもね、君の不安を払うのは簡単だけど、君はそれでいいの?」
「? ……具体的にいうとどういう事でしょうか」
レナルドはアイリスを気遣うように問いかけてくる。
その言葉の意味が分からずにアイリスは質問を返した。
「子供にはしない事、君にしても良いなら、話は簡単だよってこと」
言いながらレナルドはアイリスの頭を撫でて、アイリスはつい心地よさに目を瞑った。
「……手を絡めてつないだり、首筋にキスをしたり、それからいろいろ」
小さくつぶやかれるような言葉から、アイリスはその様子を想像して”いろいろ”の部分がどんなことを示すのか、やっと気が付いた。
……子ども扱いではない事……って……。
つまりは大人の関係に移行しても構わないのかとアイリスに問いかけてきているのだ。
急にそんなことを問いかけられたら困ると、アイリスはすぐに思った。しかし急なんかではない、むしろアイリスが言ったことが発端でこうなっているというのは明白だ。
アイリスが言ったのだ子ども扱いされていないか、ウィリアムと同じベクトルでアイリスが邪魔者になってしまっていないか。
そういう不安があるのだと。
ひとしきりアイリスの頭を撫でたレナルドは、アイリスの手を取ってその手のひらにキスをした。
手の甲にする形式的なものではなく、彼の思いから来る懇願の証。
すでにこの行為が子供相手にするものではない。
「っ……」
それに、手にかかる吐息がとてもくすぐったく感じて、触れた唇の感触は柔らかかったような気がする。
恐る恐るレナルドを見上げる。しかし、表情はいつもと同じで優しく微笑んでいるように見えるが、目が合うとその瞳の奥に、明らかに違う感情が渦巻いていることがわかるのだ。
きっとアイリスがそうしてと言ったら、多分そうなる。
そういう間というか、空気感だ。
……それで、そうだとしたら、私はどうするべき?!
もちろん大人っぽく雰囲気に乗って、このまま流れに身をゆだねるのはとてもスマートだろう。
しかし、そんな風に受け入れられるほどアイリスはまだまだ成熟した大人ではなく、心の中で小さなアイリスがたくさん慌てふためき頭の中は先程以上の混乱状態に陥った。
いよいよ頭の中がパンクして本当に煙が出てきそうだったその時、レナルドはぱっと手を放して、キチンと椅子に座り、適切な距離感に戻っていく。
「でも、それだと一足飛びに関係を進展させすぎだよね。俺も君とはゆっくり速度を合わせて関係を作っていきたいし、急いでるわけじゃない」
「は、はい」
「だから、今日はこのぐらいで、わかってもらえたらうれしいんだけど、どうかな」
彼はあっという間に、いつもの無害そうな優しげな雰囲気に戻って、先ほどの大人っぽい雰囲気などみじんもない。
しかし、そういうつもりがあって、アイリスが望めばそうなるのだとわかっただけでアイリスはもう十分すぎるほど十分だ。
まったくウィリアムとは同じではない。アイリスはアイリスだ。
それを実感してアイリスは「もちろんです!」と珍しく大きな声で言ったのだった。




