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王宮の宴会よりトイレ掃除の方がいいわ

 こちらは古代エジプト新王国時代、ラムセス二世治世下にある新都ぺル・ラムセスの王宮である。

 夕日がナイルデルタ地帯の西側に浮かび、空を赤く染めている。

 空が夕日に染まりだすと、繁華街に軒先を並べる商人たちはぼちぼちと店を畳み始め、娼館や酒場は灯りの準備を始める。ナイル川に小舟を浮かべる漁師たちは、今日の収穫が入ったカゴを担ぎながら家路につく。

 その夕焼け空より赤い髪をした一人の乙女が、城の一角に与えられた自室の出窓から下の様子を眺めていた。

 眼下に広がる中央庭園では、今夜の宴に招かれた華やかな貴賓達が集まりつつあった。男女問わず金や奇石が施された貴金属を身につけた招待客達のその装いは、男性は荘厳で、女性は熱帯魚のように華やかである。

 エジプト軍セト師団弓兵隊小隊長ライラは、寝台に広げた自分の衣装をちらりと振り返って見ると、面白くなさそうにため息をついた。そしてまた、正面に向き直り窓辺にもたれかかる。


「行きたくないなー・・・」


 ふてくされたような顔で、ひとりごちた。

 今夜ライラは、眼下の来賓客同様、ラムセス二世主催の宴に呼ばれていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 夕日が沈み、建物の輪郭が暗がりに溶け始めた頃。午後からアーデスに剣の手ほどきを受けていたジェトとカカルは、武器庫の前で腰をかけのんびりと談笑していた。

 魔物戦を終え、カエムワセトの従者になった元盗賊の二人は、アーデスに時間の余裕がある時は今日のように剣や槍や体術等の闘い方を学ぶようになった。

 王族に仕えるのだからいつ何時でも主の為に闘えるようにしておけ、というライラの指示もあったからである。ちなみに、弓の使い方はアーデスではなくライラからスパルタ教育を受けている。


「ライラは血筋だけで言えば、かなり高貴だぞ。何しろファラオと遠縁だからな」


 ライラとも王家とも付き合いの長い傭兵アーデスは新参者の二人に、主たる臣下達の出自や血縁関係などを説明していた。

 無限に出て来る罵倒と共に自分達をしごき倒し、時には踏みつけにまでにしてくる赤毛の弓兵小隊長が、実は大貴族のお姫様だった事を知ったジェトとカカルはショックのあまり硬直する。


「なんだ。お前ら知らなかったのかよ。有名な話だぜ」


 城勤めを始めて既に二カ月になるというのに、情報に疎い二人をアーデスは笑った。


「ライラの親父さんはメンフィスで宮廷医の任についてるんだが、ラムセスの祖父とライラの祖母が兄妹なんだよ。ライラの優れた戦闘力や赤毛はおそらく、現王家の血筋だな」


 それから背の高さもか、とアーデスは思いだしたように追加した。


 ラムセス二世は183㎝と、当時のエジプト人の中では抜きんでて身長が高い。その父親であるセティ一世も、大柄だった事で有名である。

 ライラの母親は、ライラを産んですぐに亡くなったということだった。

 一人娘だったライラが軍人になると宣言した時には父親は大層驚いたが、反対はしなかったらしい。そこは流石、軍人王の家系であるとジェトとカカルは納得した。


「あいつがお姫さんかよ・・・」


「人は見かけによらないんすねー・・・」


 ライラは2人が思い描く貴族の姫君のイメージには爪の先ほども合致しない。何となく信じられない思いで、二人は感想を口にした。


「くだらん話してないで、さっさと帰りなさい」


 後ろから聞こえた声に身の毛のよだつ思いをしたジェトは、びくりと身体を震わせ、「わあっ!すいません!!」と殆ど反射的に謝罪した。

 誰でも無い、ライラの声である。

 ここ二月あまりの訓練で、ジェトの恐怖心は、すっかりライラに支配されていた。

 しかし、後ろを振り返った二人は、声は確かに聞きおぼえがあるのに姿は見覚えのない女の登場で、仲良く揃って首を傾げることになる。


「「・・・誰?」」


 ライラはアイシャドウに縁取られた目をスッと細くすると、失礼な新米二人を睨んだ。


「その反応は称賛ととるべきなのかしら。それとも侮辱ととるべきなのかしら?」


 その刺々しい口調で目の前の女性がライラだと確信したカカルが、わお!と目を輝かせる。


「ライラさん、凄くキレイっすよ」


 身を乗り出して、ライラの変身ぶりを褒め称えた。素直なカカルに、ライラも「ありがと」と笑顔を返す。


 黒いドレスと豊かな赤毛のコントラストの美しさもさることながら、やはりライラを最も魅力的に映しているのはその完璧なボディラインだった。普段のシンプルなチュニックでさえ目立つその理想的な曲線美は、女性の美しさをひき立てるドレスのシルエットで、更に魅惑的に仕上がっている。


「いつもながら見事なお姫さんぶりじゃねえか」


 口には出さないが、しょっちゅうライラを遠目で見ながら『着飾りゃ高官をたらしこんで悠々自適の生活をおくれるのになあ。もったいねえ』とお節介な事を考えているアーデスは、今まさに高官を余裕でたらしこめる装いをしているライラに心からの讃辞を送った。


 褒められているにもかかわらず、ライラは憮然と腕を組んだ。腕を組んだ事で、その豊満な胸がより一層強調される。

 三十路の独身と16歳のお年頃の少年の視線が、思わずそこに注がれてしまうのは致し方のない事である。


「好きでこんな格好してんじゃないんだから。宴なんて面倒くさいだけよ」


 幸いにも自分の胸に向けられた数秒間の熱い視線に気付かなかったライラは、フンと鼻を鳴らして、口紅で鮮やかに彩られた小ぶりの唇をひん曲げた。


 ライラの言葉に、カカルがどんぐり眼を瞬く。


「なんで?宴会はご馳走いっぱいでるんでしょー?羨ましいっす」


「なるほどね。居残ってるのはそれが目的なワケ」


 夕方を過ぎても家路につかず珍しく残業しているようなので何かあったのだろうかと来てみたら、夕飯目的だと知れ、ライラは呆れてため息をついた。

 余談だが、ジェトとカカルはカエムワセトから、王宮にほど近い場所に宿舎を一軒支給されており、そこに二人で住んでいる。


「そこまで意地汚くねえっつーの。さっきまでアーデスに剣を教えてもらってたんだよ」


 卑しんぼ扱いされたジェトは、ムッとしてライラに口答えした。

 いつものライラならここで、生意気な態度をとった制裁としてゲンコツの一発でも飛ばしてくるのだが、今日返って来たのは「あそ」という気の抜けた返事だけだった。

 しかも、次にライラが口にした言葉には、ジェトも思わず自分の耳を疑ってしまう。


「食欲があるのは健康の証なんだから、別にいいじゃない。抜けれそうなら、適当に見繕って持ってきてあげるわ」


 へ? と拍子抜けしているジェトと残る二人に、ライラはひらりと手をふると、「じゃ」と赤毛とドレスの裾をひるがえして行ってしまった。 


「おう。王子達によろしくな」


 廊下の奥へ小さくなっていくライラの背中に、アーデスが声をかけた。再びライラが『はいはい』の意味で、ヒラヒラと後ろ手に手をふって答えた。


「なんか、今日のライラさん優しいすね」


「ていうか、完全に別人だろ」


 十分な距離までライラが離れてから、ジェトとカカルは各々感想を口にする。本人が耳にしたら足早で戻ってきて2・3発は殴られそうな発言である。

 言ってから、二人は念のため廊下の向こうを確認した。

 ライラは戻ってきていない。


「お前らにメシを運ぶのは、会場を抜ける口実なのさ」


 剣の刃零れ具合を確認しながら、アーデスが二人に説明する。


「王族貴族が集まる宴はあいつにとって、気取ってて憂鬱な場所でしかないんだろうよ」


 自分よりも大柄な男達をねじ伏せたり、滑走する戦車から一つ残らず的を射落とす事には喜びを感じるが、着飾りその美しい肢体を見せびらかす事には未だ楽しみを見出せないライラである。

 もしトイレ掃除か宴会かの二択を与えられたら、ライラは迷わずトイレ掃除を選んだだろう。それくらい、ライラは宴会が苦手である。


「で、元気がねえってわけか」


「毎日が宴会ならいいのに・・・」


 ライラには申し訳ないが、ジェトとカカルにとっては、先程のように元気をなくしているくらいで丁度いい。殴られないし夕食代も浮くし、いいことづくめである。


「そりゃ無理だろ」


 アーデスは笑った。

 今日は、ファラオに息子が産まれたとかで開かれる誕生祝いである。

 もう何十回目だろうか。

 あとは、ちらりと聞いた話だが、成長した王子達の為の出会いの場となれば、という目論見も有るらしい。

 その王子たちというのは、やはり皇太子やカエムワセトあたりのことであろう。第2王子と第5王子はテーベに派遣されていてめったに戻ってこないし、第6王子以下は出会いを求めるには少々若すぎる。


――集めるだけ無駄だと思うがなあ。


 アーデスは、器量は良い割に浮いた話にはてんで縁がなさそうな年頃の王子二人を思い浮かべた。


 皇太子アメンヘルケプシェフは、はっちゃけたオヤジに振り回されて日々疲れきっているし、カエムワセトは恋愛よりも古代遺跡に夢中で、公務も多い。女性関係に関しては、二人は父王の間逆を突き進んでいた。恐らく、父親の女好きが反面教師として働いているのだろう。もしくはただ単に、父親の様子を見ているだけで、お腹いっぱい、なのかもしれない。

 だが、招待されている貴族の姫様達にとっては、そんな事情はどうでもよいことである。宴会をきっかけにご縁ができたら万々歳だ。


―― 今日は特に姫さん達が集まってるって話だしな・・・可哀想なこった。今夜は受難だな。


 心服している主と同じ宴に出席できるというのに、心底面白くなさそうにしていた同僚の顔を思い出す。

 一緒に行ってやれたらいいが、貴族以上の人間しか入場を許されない場に、傭兵のアーデスが足を踏み入れる事は未来永劫ないだろう。アーデス自身、入りたい、とも思っていないが。


 ――チクチクした攻撃は俺も苦手なんだよな。問答無用で殴られた方がまだスッとするぜ。


 アーデスもライラ同様、貴族たちが使う敵意をオブラートに包んだような話し方が苦手だった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ライラが会場に入った時、既に来賓客と側室の殆どは用意された絨毯の上に腰をおろしていた。

 会場の最奥。ラムセスが座る玉座の両隣りには、正妃ネフェルタリと、本日の主役である王子とその生母である側室が座る椅子が用意されている。

 そして、その三つの椅子から両腕を伸ばすように、王子や王女たちが座る椅子がずらりと並べられていた。毎度思うが、本当にこれだけよく子供を作ったものだとライラは感心する。

 並べられた椅子の数は、数えるのも面倒になる程に多い。

 しかも、これは極一部だ。他にも、ラムセスの子供はその産みの母とともにエジプトに点在している各都市部に散らばっている。

 もしラムセスの側室と子供がここに全員集まったら、多分この会場は来賓客の座る場所がなくなるだろう。

 ライラは給仕役の男に席に案内され、大きなウェーブがかかった鬘を被っている中年の女性の横に腰を下ろした。

 別の男がライラにワインが入った乾杯用の杯と香油の塊を渡してきた。頭に乗せろ、という意味だ。

 この香油の塊は、時間が経つにつれ体温と熱気で溶けだし、香りを放つ。

 ライラはこれも苦手である。

 召使の男には悪いが、頭には乗せずに絨毯の上に置いておく。


「まあ、ご覧になって。陽に焼けたお肌が素敵ね。男の方みたい」


「さすが軍人ね。腕も脚も強そうでいらして。私なんてこんなに細くて恥ずかしいわ」


 どこからか、若い娘の声が聞こえてきた。座るなり早速、ややオブラートからはみ出し気味の悪口を頂戴してしまったようで、ライラは小さく嘆息した。

 これもライラが宴を嫌う理由の一つである。

 花も恥じらうほどに美しく着飾り上品な微笑みを口元に浮かべるお姫様達の口から出てくる言葉の数々は、なかなかに毒々しい。


―― 私はあんたたちと違って、一日中団扇片手に日陰で涼んだり楽器を演奏したりできる暢気な立場じゃないのよ!


 ライラは苛立ちを払うように、ダチョウの羽で作られた小型の団扇でバタバタと顔を仰いだ。仰ぎながら、耳を塞ぎたい衝動をぐっと堪えた。


「ラムセス二世陛下、ネフェルタリ陛下、御側室ティイ様、ならびに王子王女さま方のおなりでございます」


 執事長らしき男が、良く通る声で王族の来場を告げた。


 賑やかだった会場が静まりかえり、会場の全員が、王族のみが出入りを許された出入口に注目した。

 そこからラムセスが姿を現すと、みながお辞儀で迎える。

 王子か王女の最後が着席するまで頭を上げてはいけない決まりになっているため、出席者達は王族の足音や椅子の脚が床をこする音を聞きながら、執事長の声掛けを待った。

 

 椅子が動いた音を最後に、再び会場が静かになる。


「どうぞお直り下さい」


 許可が下りて、ライラは頭を上げた。

 空だった上座は王族で全て埋まっている。


 ライラの目線の先は、丁度王子たちの列だった。

 ライラはそこに、自分の主人である第四王子カエムワセトの姿を見つける。

 皇太子の隣。いつもは簡素な神官の装いをしている彼だが、今日は他の王子や王女たちと同様、幅広の襟飾りを身に付け、正装をしていた。

 ラムセスや皇太子に比べれば素朴な印象が否めないカエムワセトだが、正装に身を包むとやはり王族らしい風格がある。

 主の正装姿に見惚れていると、突然目が合った。ライラの姿を見つけたカエムワセトは、いつも通りの柔和な微笑みでライラに小さく手を振ってきた。

 ライラは跳ね上がった心臓を押さえながら、礼をして返した。


 王子王女の手にまで乾杯用の杯がいきわたると、ラムセスが立ち上がり、杯片手に口上を述べる。


「お集りの諸君。知っての通り、このたび、余は再び王子に恵まれる栄誉を得た。これで王家も益々の繁栄を遂げるだろう。更に、今年も無事にナイルから豊かな土が多量にもたらされた故、豊作は間違いない。周辺国との関係も平静を保っている。これらは全て、諸君の日々の働きによるお陰だ。今夜は大いに食べて飲んでくれ。諸君にラーの栄光を」


 そしてラムセスは最後、


「エジプトに幸あれ!」


 と盃を掲げた。


 会場中で「エジプトに幸あれ」という復唱とともに杯が掲げられ、杯に口がつけられる。


 そこからは参加者達は酒や料理を口にしながら自由に席を行き来し、会話に興じたり王族に挨拶に行ったと思い思いに過ごした。当然ながら、ラムセスの前は長蛇の列が出来ている。生まれたばかりの王子は早々に退散したようだ。給仕達は来賓客に酒を注いだり料理を取り分けたりと、忙しく会場を回っている。


 ライラも誰かと話せばよいのだろうが、ライラが普段つるんでいる連中と言えば筋肉と下品な単語と下品な話題と酒と喧嘩が好きなやんちゃ坊主(軍人)達と、背中に哀愁が漂い出した30過ぎのおっさん(アーデス)と、新米の元盗賊二人ジェトとカカルくらいである。

 思い浮かべても碌なのがいないのだが、職場がガサツの代名詞なのだから仕方がない。

 貴族のお友達など一人もいないライラには、会場のどこに行っても、談笑相手などいなかった。

 唯一相手にしてくれるのは主であるカエムワセトくらいであるが、彼は列席者達の相手で忙しくしている。邪魔をするわけにはいかない。


 ライラは2杯目のワインを飲みながら、非難がましい視線とともに聞こえてくるヒソヒソ声に耐えていた。

 聞こえてくる声は、「貴族のくせに」や「男ばかりの中でよく働けます事」など、女の教養を放り出してエジプト軍に身を投じたを貴族娘を揶揄する声が殆どである。


無視無視無視無視無視無視無視無視無視・・・・


 呪文の如く繰り返して心にバリアを張る。

 

 確かにライラは、本来貴族の姫が受けるべき教育を受けていない。それくらいの年齢には、既にエジプト軍に所属していたからだ。だからライラは、パンも焼けないし、衣も織れないし、楽器も奏でられないし歌も知らない。字の読み書きはできるが、特技は弓術と体術。軍で教えてもらった事といえば、人の殺し方と、ここにいる姫君達が聞いたら卒倒してしまいそうな下品な罵倒語の数々である。

 

 ファラオの遠縁と言うだけで出席を強いられる軍人のライラは、どこに行っても、針でチクチク刺されるような心地がした。


「軍の犬」

 

 という単語が聞こえた。


はいはい。ワンワン。 


 本当に、蠅を叩き落とすみたいに手に持っているこの団扇であの小娘達をシバいてやれたらどんなに爽快だろう。

 そう考えたが、流石に実行に移すと騒ぎになる上、主のカエムワセトにも恥をかかせてしまうので、想像の中だけに留めておく。

 こういった悪口を言ってくる手合いには、やはり無視に限る。これまでの宴でも、無慈悲な心理攻撃に対し、ライラはひたすら無視で通して来た。

 転ばせる為にドレスの裾からこっそり出して来た可愛らしい爪先も、何食わぬ顔でひょいと飛び越して、ごったがえす会場の中を居場所を求めて進む。

 だが、次に聞こえてきた嫌味にはライラも思わず振り返ってしまった。


「赤毛で背も高くていらっしゃるから、よく目立つこと。まるで松明のようね」


「たっ――」


 松明はないでしょうよ! と叫びかけた。

 ライラは女性にしては長身の部類に入るが、抜きん出ているわけではない。平均より少々高い程度であるし、男達に混じってしまえば間違いなく小柄に見える。松明などと言われる筋合いは無い。

 ライラと黒いストレートの鬘をつけた女の視線の間で、火花が散った。


「ライラ――」


 その様子を見ていたカエムワセトが間に入ろうと一歩踏み出すより先に、玉座に座るその父親が赤毛の小隊長に手を上げて、呼び寄せた。


「ライラ!今日はいつにも増して綺麗だな。ほら、こっちこっち。こっち来い」


 会場中の視線がライラに集中した。

 ラムセスに悪気は無いのだが、これは、これまで頂戴してきたどんな心理攻撃よりも強烈だった。しかも、気を利かした招待客達が一歩ずつ後ろへ下がり、ライラとラムセスの間の道を開けてくれた。

 とんでもなく迷惑な花道である。

 隣の席にネフェルタリはいない。

 もしラムセスの横にネフェルタリがいたら、こうも派手な展開にはならなかっただろう。

 どちらにしてもライラは、内心の抵抗を抑えて従うしかない。

 ライラは必死に平静を装って花道を進むと、ラムセスの前でお辞儀した。


「陛下。王子様の御誕生、心よりお祝い申し上げます」


「もう何番目か分らんがな。子供が生まれた事は喜ばしい限りだ!」


 ラムセスは豪快に笑って祝辞に返事した。前半のコメントは完全に不要である。

 ライラは第○王子の母である側室の一人を哀れに思うと同時に、彼女が早々に子供と退出した事を幸いに感じた。

 ラムセスが「ほら、もっと寄れ」と手招きするので、ライラは応じて近くへ寄った。

 間会いに入った途端、すかさずライラの腰に手を回してくるのが流石である。


「こいつはカエムワセトの幼馴染でな。今は弓隊の小隊長だ。腕はなかなかのもんだぞ。俺のお気に入りだ」


 ラムセスは先程まで話していた大貴族らしい老年の男に、自分の左隣に立たせたライラをにこやかに紹介する。


「ほお。このような可愛らしいお方が弓兵でございますか。わたくしはてっきり、陛下のご側室のお一人かと」


 ラムセスの妾の多さはラムセス自身も誇りとしているので、老年の男は迷うことなくその話題をご機嫌取りに使用した。


「そうしたいのだが、ライラを軍から外すと兵士達にストライキを起こされかねんのだ。――な、ライラ」


 お気に入りの小隊長の名を呼んだラムセスはライラを更に引き寄せ、ライラにだけ聞こえるくらいの小声で言う。


「すまんな。小娘どもの戯言だ。耐えてくれ」

「過分のご心配とお心遣い、感謝いたします。陛下」


 やはり、小娘たちのこざかしい攻撃から助けるために呼びよせたらしい。ライラはその気遣いに心から感謝した。

 いくら怖いもの知らずの貴族娘でも、ファラオの“お気に入り”を攻撃するほど無謀ではない。これで今日は小娘たちが仕掛けて来る可愛い悪戯と悪ふざけから解放されるだろう。

 しかし、腰から尻を撫でまわしている左手をさっさと離してくれ、とまではライラは流石に言えなかった。

 ラムセスの場合、呼吸するのと女の身体を撫でまわすのは同等の行為に等しいとライラも承知しているのでそれほど嫌悪感はないが、されていて気持ちの良いものでもない。

 

 どうやってこの場から逃げようか考えあぐねいていると、後ろから甘い香りが漂い、完璧に磨き上げられた肌がライラの隣に並んだ。


「あなたまたお父さまを誘惑しようとしているの?いい加減になさいませ」


 会場にいる貴族娘たちとは明らかに一線を画しているその美女を目にした途端、ライラはあからさまに嫌な顔をした。

 乳房が透けるほど薄いカラシリスという織物のドレスを身にまとった彼女は、今宵もむせ返るほどに妖艶である。

 ラムセス二世側室の一人、ビントアナト。元はラムセスの実娘であり、カエムワセトの同母姉でもある。

 カエムワセトと幼馴染であるライラは、ビントアナトとも少なからずの交流があった。楽しい記憶は無く、思い出すのはカエムワセトと共に虐げられてきた“交流”ばかりである。

 だが、ライラもただ黙って虐げられてきたわけではない。持ち前の負けん気の強さで、許される範囲での反撃はいつも忘れなかった。

 そして今日も。貴賓客が次々と押し寄せる王座の隣にふさわしい笑顔と佇まいを崩すことなく、ライラは鮮やかに塗られた唇で辛辣な言葉を流暢に並べる。


「あんたにとっちゃ陛下の近くに居たら雌猫でさえ敵に見えるんでしょうよ。相変わらず腐りきったお目めだこと」

「お黙りなさい泥棒猫」


 次々に挨拶してくる来賓に笑顔を振りまきながら、二人の美女はファラオの頭上で小声で罵り合う。


「そういえば、最近態度が悪すぎるって愛しのパパに怒られたそうじゃない。可哀想にね。いつもみたいに怒鳴り散らしてこないから静かでいいわ」


 ラムセスに叱られた件は地雷だったらしく、カッとなったビントアナトは、ライラの胸元にかかっていた一房分の髪を握ると力任せに自分の方へ引っ張った。


「お父様の隣は私の席だと決まっているの!あんたは皇太子かカエムワセトとでもチチクリあってなさいよ!」


 娘の口汚い怒声とともにライラの腰が自分の手から離れた事で、ラムセスは自分の左斜め上で繰り広げられていた女の争いに遅まきながら気付いた。


「ビントアナト」


 厳しい声で側室の一人である娘の名を呼んだラムセスは、続けて「それくらいにしとけ」と短く叱責する。

 公衆の面前で叱られたビントアナトは、ライラの髪を放して両手を胸の前で組み、俯いた。香油がたっぷり刷り込まれた肩が小刻みに震えている。


 泣くのか。高慢ちきなこの女が。とうとう。


 ビントアナトはプライドが高い。貴賓達の前で叱責されるなど、彼女にとっては耐えられない屈辱だろう。泣いても何らおかしくはない。

 どんな風に泣くのだろう、とライラは興味をかき立てられた。

 だが、両手を強く握って顔を上げた彼女は、次の瞬間信じられない台詞を口にする。


「お父様!怒ったお顔も素敵ですわ!!」


 頬を染めたビントアナトは、がばちょと父に抱きつき、人目もはばからず顔中にキスを浴びせた。

 周囲の賓客たちは、気を利かせて一旦立ち去るべきか、そのまま笑顔をキープしてしばし待つべきか困っている。


「あ~ホント荒むわ」


 ライラはビントアナトに掴まれ前に流れてきた髪をさっと後ろに払いながら、結局ビントアナトの独壇場になってしまった最上座をさっさと立ち去った。


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