無産市民
腹いせのように小説を書いてはいけない(戒め)
あなたの人生に何かしら役立つものがあれば幸いです
朝起きて顔を洗い、食事をする。服を着替えて電車に乗る。大学の講義前にできることは限りがある。それが一限へ出席するつもりなら尚更だろう。それとも起きる時点で躓く人もいるだろうか。しかし彼は、相良亮介はごく自然に当たり前のことをする。自分ができないことを人は羨ましがるが、これはその類ではないようだ。たったひとりを除いては。
駅から校舎に向かう道は寒く、人通りは少ない。季節が一巡しないうちに、昼からが本番だと錯覚する人がどれほど多いことか。彼はそれを軽蔑するでもなく、少し嘆きながら他人事のように足を早める。ここは寒すぎる。
教室の最前列に彼女はいた。暖房はついたばかりで外と大差ない。
「はよー。えっとバサラ君?」
「惜しい。最後だけあってた」
彼女の顔が無邪気にほころぶ。日焼け跡のような色素の濃い肌は窓から差し込む陽を受けて輝く。紅い髪の毛は相変わらずクシャクシャだ。
「昨日も徹夜?」
「そうらよ」
水曜日の一限。彼女は朝の惰眠を貪るより、出席することを優先しているらしい。受け答えする呂律がどことなく怪しい。
「えーと、サクラ君は毎朝早くに来てるよね。何かコツでもあるの?」
器用に名前を間違えるのはいつものことだ。後期の授業が始まってからもう三ヶ月目だが、彼女の口からサガラという言葉が出たことは一度もない。
「夜にスマホをいじらない、以上。あと徹夜麻雀もダメだよ」
周回できないじゃ~ん。机に突っ伏しながら放った呟きはやや悲壮に満ちていた。予鈴が鳴る。講壇にいつの間にか現れていた教授がプリントを配りながら喋り始めている。今回取り上げる部分が嫌いだからといって早く終わらせようとするのはどうかと思う。大学一年の冬の朝は弛緩した空気の中、過ぎていく。
校舎から食堂の横を通り過ぎ、突き当りの階段を登る。古ぼけた看板が今日も陰気なステップでドアノックにまとわりつく。出迎えたのは机を寄せ集めた一角に群がる数人。文字をこねて遊ぶ旅の同行者共。
「お疲れ〜」
「お疲れさま」
集団の中から手を上げるひとりの男。口調は丁寧だが、いつも楽しげだ。うぃーっす。机にかじりつく残りの二人もまばらに挨拶を返してくる。机の上には広げられた緑のシートと雀牌。今日も同じ景色が広がっていた。
「終わったら入っていい?」
「いいよー、俺これ終わったら行くけど」
「悲しいなあ」
そりゃそうだ。授業は毎週あるのだから。そのようなやり取りを毎週続ける自分を自嘲気味に鼻で笑う。そしていつものように手近にあるベンチに座り、惣菜パンを手に取る。目に入った配牌は悪くない。いい具合に順子があり、字牌も一九牌もない。ドラ一枚、タンピンにリーチ、ツモがのれば満貫確定だろう。
しかしそううまく行かない。三巡目で早いリーチをかけたにもかかわらずツモも直撃もない。結局対面の撥のみのツモに潰される。
「運だけのカスが」
「高いの張っても上がらなければ意味ないんだよなあ」
お互いに罵り合いながらゲームは進む。そして半荘が終わり次第彼らの半分は授業へ、ひとりは昼食へ行った。残ったのは違う学部のひとりのみ。
「そういえば、前書いてた巫女の話どうなった?」
彼とは書いている小説のジャンルは違った。SFやファンタジーが主な自分に対し、歴史やそのifが多い。どの作品も彼自身の膨大な知識とそれを支える探究心を余すことなく表している。この一年でキャラクターの描写能力も向上しており、毎回惹き込まれる小説を書いてくる。
「あれ? 書いてるよ。けど全然終わりが見えないですねぇ。締切間に合わないから短めの作品出す予定かな。そっちはどうよ?」
「まだ三千字くらい。プロットも結局前と同じようなものかな。これじゃあ先輩方から批評会でボコボコにされる」
「マジかあ、先輩容赦ないよねぇ」
週一のペースで行われる、批評会と呼ばれる会合は所属しているサークルの活動の一つである。ついでに部誌を年四回発行している。この集まりは会合前に行われる会議で部誌に掲載された作品の中からランダムでふたつ選び、それを評価する。作者も出席することが暗黙の了解であり、その評価対象は作者の年次に関係なくバッサリと切り捨てられることが多い。ぬるま湯の中では作品は完成しないのだ。入会して初めて出席した批評会はひどい有様だったことを思い出す。キャラが定まってない、文章が読みにくい、このお題でこの話を書く必然性とはエトセトラ。自身の作品は目の前で粉砕され、切り刻まれる。降り注ぐ絶望に耐え、作品の昇華のために有用なコメントを取り込む。
「なんのために書いているんだろうな」
ふとそんな言葉が零れ出る。その言葉は思いの外、自分にグサリと突き刺さる。
「まあ、かけるときになれば書けるよ」
「一夜漬けの感覚で行くか」
ふたりして冗談を言い合って笑う。実際はとてもそんな感覚で書けない。たとえ自分がそうして書き上げたものがあったとしてもただのゴミが出来上がるだけだ。
大学生の本分は、学習すること。それと同じか、それ以上に遊ぶことである。意識の高い方からは大目玉を喰らうか、馬鹿にされるが、それくらいが丁度いい。
「で、試験は申し込んだのか」
質問ではなく、詰問。彼の問いかけはこちらに二択ではなく一つの返答しか要求していない。
「申し込んだよ」
できるだけ簡潔に返す。実際そのとおりなのだから問題ない。しかし使う予定もない、興味のないものにどう向き合えというのか。
「今回はどれくらいスコアアップするつもりだ」
「100ポイントあげます」
「前回もそう言ったよな」
少しの沈黙の後に、
「今回は取れると思います」
根拠となる積み重ねもなしに答える。ポーズだけでもとらなければ1時間のお説教コースが始まる。彼は何か言いたげだったが、もういい。捨て台詞を吐いて背を向ける。前は期待をかけているような意味の言葉をかけられていた気がするが、そんなものはクソの役にも立たない。無責任な応援は見向きもされないことより意味がない。そいつはプレイヤーに寄り添うつもりなどない、ということを宣言しているに等しい。それにプレイヤーはその言葉を投げかける者ではないのだから。
自分の部屋に戻り、パソコンを開く。遅々として進まない原稿を数行埋めた後、閉じる。
「なんのために書いているんだろうな」
ポツリとつぶやく。自己満足か。過去の自分を見返すためか。それとも。
「なんのために、どうして書いているんだろうか」
ベッドに横たわり、言葉が漏れる。自分の中のものを表現する方法なんていくらでもあるはずだ。耳の奥に流れる川の水源を探り当てることも、記憶の砂をかき分けてオアシスを探し当てることも。一日の数時間、文字の羅列を垂れ流し、推敲する。そういったことに使う意味はあるのか。
「ないな」
ただ醜くしがみついているだけだ。そこには何の意味もない。ただ他の方法を身につけることに真剣に向き合えないだけだ。窓に打ち付ける雨をぼんやりと眺めながら目を閉じる。瞼の裏を流れる水滴はどこかで見覚えがある気がした。
人の少ない通りを歩き、寒い教室内に入る。時々自分はループに閉じ込められているのではないかと疑ってしまう。
「はよー。タカラ君」
彼女の姿を見るまではいつもそう思う。毎日同じ人に同じ言葉を投げかけられるとしても、その言葉だけは違う。
今のループの中から何も生まれないが、その言葉から何かを取り出すことはできるだろうか? 彼は最前列の席、彼女の隣に座り、返事する。
「惜しいなぁ。1.5文字分合ってた」
久々に書きました。
前より書くスピードが遅くなりました……