この後ブチ切れる事になる未来を未だ彼女は知らない
一時的にざわついたとはいえ、流石に冷静にならざるを得ない。
汗舐めるのはいけるとか、何ならゲロもいける、とか言い出した猛者もいたけれどそんな発言をした者はとりあえず露骨に手が滑ったらしいクロムによって蹴り飛ばされていた。一応加減されているので壁際に吹っ飛んだものの死んではいない。
というか、ここ最近鍛えた魔術師たちの身体ではそこまでのダメージにもなっていないだろう。当初、ステラたちが召喚されたばかりの頃のひょろひょろなもやしのような体躯であれば骨の一本や二本折れていた可能性はあるけれど。
流石に尿もいけるとか言い出されていたらステラとしてはクロムがどうこうするよりも直接ぶん殴っていた可能性がある。お前のわけわかんない性癖を暴露するでない、とか言ってとりあえず自分の名前や己の過去を忘却するレベルまで殴ったに違いない。
そういうプレイは流石にお断りである。
「まぁ、汗は流石にどうかと思うのよ。いくら呪いで眠った状態に等しいアズリアだって、その呪いを解くためとはいえ見知らぬ女の汗経口摂取させられるとか、起きた途端にゲロ吐く可能性あるじゃない?」
美少女だろうとイケメンだろうと、流石に汗はちょっと……とステラは思う。
というか、汗は口に入れて飲むものではない。冷静に考えて医療行為とか言われても拒否する自信しかない。
同様の理由で鼻水とか尿とかもお断りだろう。
起きた途端に真実を知って胃液ごとリバースしてもおかしくない代物だ。
それが、世界樹の雫ですとか言われたとしても。むしろそんな事を言われたら正気を疑う。
むしろステラならそんな事されたらいくら助けるためとはいえ実行した相手をぶん殴る可能性もある。いっそ寝かせたままにしておいてくれと思うかもしれない。
「血に関しては微妙なのよね……私の旦那が作ったお守りがあるから、下手に傷つけるとちょっと」
怪我をした時に自分の血を舐めるのはセーフだと思うけれど、他人の血を舐めるのはいかがなものか。
気心知れた相手が怪我をした時につい反射的に、とかいうのはまぁ、展開的に無いとは言い切れない。少女漫画とかでヒロインが指先に怪我をした時に、相手の男が咄嗟に指をくわえる、とかそういうシーンがあった覚えがあるしある程度の仲であれば……まぁ、うん、そういうのあるよね、って言えるような言えないような。
けれどもそれは前提として、その血の持ち主に何らかの病気がないと断言できる場合である。
これ、血液から感染する病気とかあったらまずやらかしたらあかんやつ。
ついでに唾液もまぁ……男女の仲であればそういう行為の際に、と考えられるがステラとアズリアは直接的な関りはない。ステラは一方的に呪いで眠っているかのようなアズリアを見たけれど、アズリアからすればステラは見知らぬ女でしかない。
そんな相手に自分の意識がない時に唇奪われた挙句唾液流し込まれるとか、いくら医療行為ですとか言われても……という話である。
「そういうわけでまだマシなのって涙かなぁ、と思わなくもないんだけど」
つらつらと理由を述べていくステラに否定する者は誰もいなかった。
確かにそういった理由を聞けば、一番無難なのは涙である。
味的に汗とそう変わらないだろ、とか言われるとそれまでだし、衛生的な意味でもなんというか……どっちもどっちという気がするけれど、それでもまだマシかなと思えなくもないのは涙の方だ。
「ただ、私も最近すんなり泣けるような事なくて。嘘泣きで涙流したりしてた事もあるけど、今はちょっと出そうにないのよね。
そういうわけで玉ねぎのみじん切りとかしないといけないんだけど……」
玉ねぎのあの目にくる成分がどうにも好きではない。
世界樹の精として復活してからはそもそも料理をする機会も減ったけれど、それでも自ら調理する際玉ねぎに関わる時は大体一瞬で終わらせていた。涙を流す暇もないくらいに一瞬でスパッ、である。
けれども今回は涙を流さねばならない。意図的にゆっくり玉ねぎを切るのか、と考えるとちょっとだけ気が重くもなる。他に気軽に涙が出る方法があればいいのだが、生憎すぐには思いつかなかった。
一応ステラの持ち物に催涙スプレーがあるけれど、威力を考えると玉ねぎ切った方がまだ安全。
――そういうわけで、急遽台所から運ばれてきた玉ねぎを切る事になったのである。
正直ステラだけ涙を流せばいいのだが、自分一人がこんな目に遭うのとか冗談じゃないわ、というわけで数名見守る係が任命された。見守るというか、どう考えても同じ空間で玉ねぎの目にくるあの被害に一緒に遭え、というとばっちり係である。
ついでに流れた涙を回収する係としてキールも任命された。
助ける相手は彼の師であるので、そういう意味では適任と言えるだろう。
大きめの玉ねぎを運んできたモリオンは、まな板と包丁をステラの前に用意してすっと下がった。
テーブルの上に置かれたそれを見て、ステラは包丁を手にとった。
普段は涙が出る前にさっさと刻んでしまう玉ねぎを、今回は涙を出さなければならないので少しばかりゆっくり切らねばならない。それを考えると若干気が重くなったが、仕方ない。
玉ねぎの上下を少しばかり切り落としてから皮をむいて半分に切る。
そうして切断面を下に、ざっくりと切っていく。
「あっ、あっ、目が……」
ステラよりも先に近くにいた魔術師の涙腺に直撃したらしい。目をおさえてもだもだしている彼を横目に、ステラは更に細かく玉ねぎを刻んでいく。
結論から言うのであれば。
ステラの涙が出たのは、周囲の魔術師たちに被害が出てからやや遅れてからの事だった。
隣で涙を確保するべく小瓶を構えていたキールなんかは涙と鼻水で顔面が酷い事になっている。むしろ皆が被害に遭ってからようやくステラも涙が出てきたのだ。
もっと早くに出ていれば良かったものを……と内心で思いつつも、そうすると被害に遭うの私だけって事よね、それもそれでどうかしら。なんて思ったのも事実だが、流石にこれは酷い。
周囲にいた魔術師たちの顔面は皆くしゃくしゃである。
けれども、どうにか涙を回収はできた。
小瓶に数滴、といった具合ではあるが流石に小瓶を全て満たすまでとなるとキール達の方が酷い事にしかならない。今でさえ顔面ぐしゃぐしゃなのに、これ以上と考えるともう目も開けられないんじゃないだろうか。
ぐい、と乱暴に袖で顔面を拭うとキールは小瓶の中身を零さないように丁重に蓋を閉めて一先ずテーブルの上に置いた。
他の魔術師たちも事前に用意してあったタオルで顔を拭いたり自分の服で拭いたりと、ともかく酷い有様である。玉ねぎ一つでこの惨状。皆普段はここまでじっくり玉ねぎと向き合う事もないから余計に酷い事になってしまっている。
終わった頃合いを見計らってなのか、ルクスが魔術で室内の空気を清浄化させた。
途端目や鼻にきていた玉ねぎ成分的なものが薄れていく。とはいえ、既に出ている分に関してはすぐに消え去ったわけでもない。まだ若干残っている感じはあるものの、それでもかなり楽になった。
ベルナドットに至っては部屋の隅にいたけれど、ゴーグル装着していたので何というか完全に他人事である。ゴーグル装着して、更に鼻を押さえるように布をあてていたのでこの室内で一番無傷といってもいい。
ある程度落ち着いてから、キールは何度か深呼吸を繰り返してそれから瓶を手にとった。
アズリアをこちらに運ぶ事も考えたが、それよりは目覚めさせて彼女にこちら側に来てもらった方がいいだろう。そもそも彼女をここまで運ぶにしても、置く場所が無い。椅子を並べた上に寝かせるにしても、テーブルの上に乗せるにしてもどちらにしても光景的に微妙極まりない。
ベッドごと運ぶにしても、部屋の入口ギリギリなので下手をするとベッドか部屋の入口の壁だとかそこら辺に傷がつくかもしれない。
「……行って、くる」
鼻をすすりながらも何とかそれだけを告げて、瓶を手にキールは部屋を出た。
半信半疑ではある。世界樹の精、と言われてもすぐに信じられなかった。
もしかしたら騙されているのでは? という気持ちはある。
けれど同時にこれで師が目覚めるのならば……という期待もあった。
普段はあまり人も寄り付かない師が眠っている部屋に向かい、やはり目覚める様子のない師を見てもしかし思うのは今までのようなどうにもならない現状を嘆く事ではなく。
これで助かるのだという気持ちと、師が目覚めたらどうしようという思い。
目覚める事が悪いわけではない。けれども自分はやらかしてしまった。叱られる覚悟はあるけれど、少しばかり気が重くもあった。
けれどもいつまでもこうしているわけにもいかない。
あまりにも遅ければ同士たちの誰かしらが様子を見にやって来るだろう。
キールは覚悟を決めてアズリアの口元に手をやって、そっと唇を開かせる。そうしてステラから回収した涙をそこに落ちるようにして瓶を傾けた。
別に、何があったわけでもない。師の身体が淡く輝いただとか、眩い輝きが部屋を埋め尽くしただとか、そういういかにもこれから凄い事が起こりますよといった変化はなかった。
けれども、今までぴくりとも動く様子のなかったアズリアの瞼がかすかに震える。
少しの間をおいて、ゆっくりと開かれていく瞼を確かにキールは見ていた。
「師匠……」
「……キー、ル……?」
掠れてはいたものの、それは確かに師の声で。
まだ焦点が合っていないのか視線を彷徨わせながらも、それでもどうにかキールを視界に確認できたのだろうアズリアは、ゆっくりと腕を伸ばした。
「どうして、泣いているのですか……」
師の言葉に。
あぁ、自分は泣いているのか、と今更のように理解した。
仄かな温かさをもった手が、キールの頬に触れる。
「これは、その……玉ねぎが、ちょっと」
実際に玉ねぎのせいではないけれど、それでもキールはそう誤魔化した。
解けるはずだけれど、自分たちが本当に解く事ができるかどうかわからない先の長い話であった師の呪いを解くという行為。それが果たされて、思う事がないわけではない。自分たちが生きている間に本当に目覚めさせる事ができるかどうか、長らく不安であったのだ。
良かった、ちゃんと無事だ。
そういう気持ちで胸がいっぱいになる。
けれど、思ったままにそれを告げるのも何だか躊躇われて。
つい先程までの出来事から、キールは玉ねぎが、なんて口にしていた。確かについ先程までは自分も玉ねぎによって顔面ぐしゃぐしゃになっていたけれど、今のこれは違う。違うのだけれど、それでも。
アズリアは何が起きたかなんてわかってはいないのだろう。きょとんとした顔をしていたが、ややあってかすかに笑う。
「そう、キール、貴方相変わらず料理苦手なのね……」
なんて言ってふふ、と笑い声が漏れた。
「いえ、これでも大分上達したんですよ。師匠が知らないだけで」
頬を撫でるようにしていた手をキールは両手で受け止めて笑う。
だって師が呪いで眠りに落ちてから、それなりの時間が経過しているのだ。
「……そういえば、キール、貴方少し大きくなった……?」
「えぇ、貴方が眠っている間、それなりに時間が経過してるんです。起きられますか? 話は皆が集まってるところでしたいのですが」
「…………そう、わかったわ」
そう答えたものの、アズリアの身体はすぐには動けなかった。今までずっと眠っていたも同然なのだからすぐに動けなくとも無理はない。キールもそれを承知していたからこそ、手を、肩を貸してアズリアの身体を支えて立ち上がった。
「目覚めたばかりの師には申し訳ないんですが……その、色々とお話する事がありまして」
「そう。いいお話かしら、悪いお話かしら」
「大半悪いお話になるかもしれません。いいお話は師が目覚めた事くらいなので」
「あら、もしかして、ここにいた皆が死んでしまったとか?」
「いえ、生きてます。途中で事情があってここを抜けた者もいますが、ここに残った者で死んだ者はいません」
「それなら。悪いお話っていってもそこまでではないんじゃない?」
などと言って微笑むアズリアであったが。
これはまだ彼女が事情を把握していないからこそ言えた言葉であって。
この直後に起こり得る事態をアズリアは知らないからこその事で、割とこの後すぐにブチ切れてキールを平手打ちするだなんて事、今のアズリアには思ってすらいない出来事だったのだ。




