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雨の翌日には、水たまりのそばに野生動物を見つけることができる。腰かけていた切り株のそばの水たまりに警戒心の薄い野ウサギが水をのみにやってきた時に、ジェシカはウサギを射る弓矢も直接狩ることのできる小刀も持っていた。だが、水を飲み終えた白うさぎのくりくりとした目と目が合うと、とてもその命を奪う気にはなれなかった。
「お嬢様、収穫はいかがでしたか」
「きのこを取ってきた。食べられるかは分からないけど」
ジェシカは分かれて森の中を散策していたジェイに、背中に負ぶっていた籠の中を見せた。籠の4分の1くらいはキノコでうまっているが、思っていたほどの収穫はできなかった。それが情けなくて俯いていたジェシカの頭をポンポンと片手で撫でた。
「帰ったら、選別してもらいましょう。俺の方では仕掛けておいた罠に鳥が2羽もひっかかっていたんで、今日の食事は豪勢になりますよ」
ジェイが励ますように明るく言うと、ジェシカも少しだけ表情を明るくした。
「それは、楽しみだね」
森の中はまだ夜が明けきらず、白い霧が立ち込めている。ジェシカが呪文を唱えると、彼女の手のひらには丸い空飛ぶ火の玉が現れた。それはすうっと二人の頭上に浮かぶと、道案内でもするように二人より先に進み始めた。ジェシカはまるで息を吸うように魔法を使うことができる。それ自体一般庶民の間では異質なのだが、ここは森の中だ。誰に見られるということもないので、ジェイはあえて苦言を呈すことはしなかった。
「ただいま」
「お帰り、ジェシー!収穫はどうだった」
「おいおい、ごあいさつだな。俺にもお帰りといってくれよ!そうしないと、今日の鳥のシチューはお預けだぜ」
「お帰り、ジェイ!籠は俺にくれよ。ちゃんとしとくからさ」
そう言うとジェシカに抱き着いていた子どもは、ジェイの籠を素早くおろし、部屋の奥へと消えていった。
「やれやれこれからさばくつもりだったのにな」
ジェイに意味ありげに見られ、ジェシカはこぶしを握った。ジェシカは捕まえた獲物の解体が苦手だ。女王時代に鷹狩りや鹿狩りなどの催しに参加したことはあったが、その時は獲物を射止めればおわりだった。あとは従者が躯を拾ってきて、次にジェシカがそれを見るときには、美味しい料理に代わっていたのである。森の中で盗賊に荷物をすべて持っていかれた日に、いきなりアンヌにうさぎの解体を見せられたが、その日以来ジェシカは好物だったウサギのシチューが食べられなくなってしまった。
さっきの子どもリディエルは、ジェシカのそういう気持ちを知っているからジェイが捕まえた鳥をジェシカの見えないところに持っていってくれたのである。ジェシカもさすがに鳥くらいであれば解体はできるのだが、率先してやりたい作業ではなかった。
「ジェシーさん、ジェイさん、今日はたくさんのキノコと鳥を取ってきてくださったそうで、ありがとうございます」
家の奥から出てきたのは、リディエルの母のノルカだった。非常に痩せているのは、永く病気を患っているからだ。
「起きてきていいんですか」
「少し身体を動かさないと、ずっと寝ているのもつらいんです。それに今日は息子のエイジェルが医者を連れてきてくれる日ですから」
「ああ、ご長男の!それはよかったですね」
愛想のよいジェイが笑って応じると、ノルカも嬉しそうな笑みを浮かべた。息子が帰ってくるのがよほどうれしいのか、今日は朝からノルカが腕を振るってくれて美味しい朝ごはんが食べられた。リディエルやアンヌやジェイが作る料理は食べられればいいという代物なので、ジェシカは久々に人心地ついた気がした。
盗賊たちにすべて奪われた日に、ジェシカは野宿をするつもりだった。それこそ、森の獣でも取って食べようと思っていたのだ。だが、アンヌにウサギの解体を見せられてちっとも寝られなくなってしまった。そのアンヌから、森には森番がいるので、一晩なら宿を借りられるという話を聞いて、それを思いつかなかった自分がジェシカは情けなかった。森番は父が作った制度なのだ。旅人が安心して旅ができるよう、森の案内人がクリスタル王国の各地に置かれている。女子どもだけでできる役目ではないが、2年前にノルカの夫が亡くなってからは息子のエイジェルが森番を務めていたものの、母の薬代のためにどうしても王都で働きたいと1年前に山を降りたのだそうだ。
「森番には十分な給金が出ているんじゃないの?」
「どうかしら?夫がいたころは、夫も王都にまで呑み行くお金もあったし、旅人を泊めたり薪を売ったり猟をしたりでそれなりの収入もあったけれど、今は盗賊も出て旅人は滅多にこないし、この身体じゃ猟にもいけない。それに息子がいうには、王都にもっていっても、森番は宿賃がとれるだろうといってずいぶんと買いたたかれるんですって。だから息子は獲物が取れても猟師に譲って金をもらうことを覚えたって言ってたわ」
「なんだって!この国の安全を守る森番にそんな仕打ちをするなんて!役人に訴えるべきだ!」
ジェシカは憤ったが、ノルカは静かに首を振った。
「所詮、卑しい森番のいうことだもの。役人様もまともに取り合ってはくれないわ」
諦めのにじんだノルカの言葉に、ジェシカは何も返せなかったが、心の中は悔しくて仕方なかった。その昔、父が地方に視察に言った折、盗賊に襲われ、撃退したもののひん死の重傷を負って、そこを親切な森人に助けられたのだと幼い頃に何度もジェシカは聞かされた。ただの親切で森を守ってくれていた彼らを保護し、森と関所の安全を守るために、父は森番という制度を作り、その数を増やしたのだ。森をよく知り、他国の人と交流もある彼らは決して蔑まれるような人間ではない。ジェシカが女王をしている間に森番たちをそんな立場に追いやってしまったのかと思うと何とも悔しかった。女王として、ジェシカは完璧だったわけではない。あとのことはロゼとクリスに任せるしかないのだ。
ウサギや鳥の一羽も自分で獲れず、女王としての権力もない。そうだとしても、父が大事にしていた森番の現状をエイジェルにも聞いてみようと、彼が帰ってくるのをジェシカも今か今かと待っていた。
しかし、昼過ぎに現れたのは、医者一人だった。
「いやあ、この家のすぐ近くで置き去りにされましてなあ。帰りはどうしようかと難儀しておりましたのや。まさか、こうして美女二人に送り届けてもらえますとは、この年齢まで医者は続けてみるもんですなあ」
そういう医者は、腰も曲がり頭の毛も真っ白だというのに、危なげなく山道の下り坂を杖を突きながら軽やかに降りていく。
「いえいえ、親切なお医者様。こんな山奥まで来ていらっしゃるなんて頭が下がります。腕も確かなものですし、どうして王都ではなく、関所の方で診療所を開いてらっしゃるのですか」
「王都はしがらみが多くてなあ。それに病人は王都にのみいるわけでなないからね。ただ、もう今後この山には当分来ないであろうな」
「どうしてですか」
こんな山奥まで来てわざわざノルカを診察してくれる親切な医者がそうそういるとは思えない。ジェシカが慌てると、医者はニカッと髭に埋もれた口を開けて笑ってみせた。
「医者は病人のいるところに行くもんじゃ。病人がいないのに、来てもしょうがない。あの奥さん、仮病じゃよ。事情がありそうだったから、何も言わなかったが。確かに昔、どこか悪くしたような痕は感じられたが、心臓も力強く動いておったしの」
「やはり、そうでしたか」
ジェシカは驚いたが、アンヌはどこか納得したようにうなずいた。
「アンヌ、あなた気づいていたの?」
「ええ、初めて宿を借りた時からあの森番の宿舎の中は綺麗に整えられていいました。聞けば息子は1年前から月に一度しか帰らないというし、まだ小さいリディエルがあれだけの数の部屋を綺麗にできるとは思えません。ノエルさんが働いているのだろうと思っていましたよ。それに、今朝だってウサギをさばいたのはノエルさんですよ」
はじめて森番の家に行ったとき、ジェシカはなんて薄暗くかび臭いところだろうと思ったが、アンヌの感想はまるで逆だったということだ。確かに1年も放っておけばごみやほこりもたまるだろうが、あの家はそんなところはなかった。それに、アンヌが掲げて見せたように鳥は関所の村に売りに行くように言ったのはアンヌだった。捕まえたウサギでごちそうを作るというので、ウサギを誰がどこで捕まえてきたのか疑問に思ったが、案外ノルカが自分で獲ってきたのかもしれない。確かに医者だけ現れて息子がいないと分かった、ノルカの様子はどこか投げやりにも見えた。息子が来ないなら仮病を使うのも馬鹿らしくなったのだろう。
「夫は死に、息子も帰らないというのであれば、役所に届け出て山を降りるという選択肢もあったはずです。もちろん、リディエルが大きくなるのを待って継がせる気かもしれませんが、見ているとあまり向かないようだし、長男が心変わりして帰ってくるのを待っているのはノルカさんの意志なんでしょうね」
「アンヌ、あなたって本当によく人の気持ちがわかるんだな」
ノルカたちの様子をしっかり観察しているアンヌに、ジェシカは感心した。リディエルは山暮らしに向かない繊細な子だ。聞けば、亡くなった父親は元騎士だったらしく、その父から教えをうけたというリディエルは計算が得意で字も綺麗だった。怪我で戦場に行けなくなった男たちを積極的に森番にあてたのは父王なので、ジェシカはそのことに疑問も覚えず、こっそり、リディエルに勉強を教えていたらすっかり懐かれてしまったのだった。リディエルは関所の村の学校に行きたいと言っていたが、たった8歳であれだけ賢いリディエルが学ぶようなことがそうそうあるとは思えない。できれば、王都にある全寮制の学校に連れていってやりたいと思いながら、ジェシカはずっと言い出せずにいるのだが、もしかしたら、そんなこともアンヌはお見通しなのかもしれなかった。
「あなたには、完敗だよ、アンヌ。私、一人で仕事を得て生きていくなんてできそうにない。獣もさばけないし、一人で山も下りられないし、お金の稼ぎ方もよくわからない。ノルカが病気でないというのなら、山を降りてどこか修道院にでも入ることにする」
ジェシカが力なく言って立ち止まると、アンヌは湿った土の上にズボンが汚れるのもためらわず片膝をついて、頭を垂れた。
「ジェシカ様!そのようなことをおっしゃらないでください。私も、少々意地を張っておりました。私は、ジェシカ様が一生じょ・・・主でいてくださることを疑っておりませんでした。あなたの治世が私は大好きでした。ジェシカ様のために、一生を終える覚悟でいたところ、このようなことになり私自身も人生を見失って戸惑っていたのです。私は、あなたに自信を失ってほしくない!なぜ、ジェシカ様がそのような行動をとられたのか、ロゼ様のことも私は母より聞いて知っております。それなのに、あなたは私のことなどいらないと置いていこうとなさるし。あなた様が、広く世界をお知りになりたいというのであれば、ぜひ私も連れて行ってください。あなたが、見る世界を私も見たい。これは、私の我儘なのです!」
いつも厳しい顔をしているアンヌがそう言ってぽろりと涙をこぼしたので、ジェシカは慌ててハンカチを取り出して、彼女の涙をぬぐってやった。そうすると、アンヌはさらにぽろぽろと涙をこぼし始めた。こうしてアンヌの涙をぬぐってやるハンカチも、アンヌやジェイが服にお金を仕込んでおくという用心をしておいてくれたから手元にあるのだ。今ジェシカが来ている服だって、その金でアンヌが買ってきてくれたものだ。彼女がジェシカのことを心配して、行動してくれたことはジェシカ自身もよくわかっていた。アンヌの発言で自分たちの素性がバレたかとジェシカが医者に視線をやると、彼は好々爺な顔をして笑っていた。
「なにやら、あなた方も事情がおありのようだのう。ほら、虹が出ていますぞ。顔を上げてごらんなさい。こうして夕立の後には虹もでる。あなた方はまだお若いのだから、これからきっと良いことも悪いこともいっぱい待っていますぞ」
「良いことも悪いこともかあ」
医者に促されるまま、ジェシカは空を見上げた。空には大きな七色の虹がかかっていた。
森番のことも盗賊のこともジェシカは女王でありながらどうにもできていなかった。至らないところも多かっただろうが、ジェシカの女王としての治世を惜しんでアンヌが泣いてくれるくらいだから、悪かったところだけでもなかったのかもしれない。
ジェシカたち三人は、それから言葉少なに山を降りると、医者とは街に出てすぐに分かれた。
***
「それで、3人の様子はどうだったかな?」
医者が家に戻ると、白い生成りのシャツに黒い洗いざらしのズボンを履いた若い男が待ち構えていた。服装はどこにでもいる町人のそれだが、漂う気配がただ者ではなかった。短い黒髪は前髪だけ妙に長く、男の目を隠しているが、そこに見え隠れする青い瞳は川の清流よりも澄んでいる。
「この年寄りを殺す気ですか。相変わらず、心臓に悪い登場をなさいますな。まあ、お見立ての通りかと思いますよ」
山歩きで汚れた手足を盥の水で洗い流しながら、男には目を向けず医者は飄々と答えた。しかし、その医者が水で顔を洗うと、目を覆っていた白い眉毛も口元のひげも綺麗さっぱり洗い落とされてしまった。
「誰が、年寄りだ。大収穫じゃないか。すぐにでも会いに行きたいが」
「それはやめておかれた方がよいですよ。彼女からはとんでもない魔力を感じましたし、さらってくるにしてもそうそう簡単にはできますまい。どうやら、旅をするつもりのようですから、しばらくは様子を見て好きにさせてあげたらどうですか」
「どうした。短い間に、絆されたのか?お前らしくもないな」
「ええ、あまりにも可愛らしいお嬢様方でしたから、帝国の餌にするにはおしいと思っただけですよ」
白髪が不似合いな若い男の姿に戻った医者は、ジェシカとアンヌの姿を思い出しながら独り言ちた。本当にらしくないとは思うが、泣き崩れる従者に優しく寄り添うジェシカのことが頭から離れなかった。
そんな医者の姿を見ながら、黒髪の男は胸元に光る細長い水晶のペンダントを指で弄んだ。水晶は扉の隙間から差し込む光を反射して怪しく輝いていた。