8
「なにしてるんですか」
まさにビシオン様の首に歯を立てようとした、そのとき。
後ろから口を押えられて、ぐいっと身体ごと引き寄せられる。
そして、目の前にいたビシオン様が吹っ飛んだ。
吹き飛んだビシオン様はそのまま気絶したのか動かない。
なにが起こったのか分からなくなる。
思わず見上げれば、イグニスがいた。
イグニスがビシオン様を蹴飛ばした、のか。
蹴飛ばした先を見ていたイグニスの目がわたしに移った。
その目も、まとう空気すらあまりの怒りに冷たく震えている。
「あなたの『餌』は俺だけでしょう」
口の中にイグニスの指が入ってくる。
あ、駄目だ。
喉が鳴る。渇く。……飲みたくなる。
イグニスは、きっと『おいしい』
――――っ。
噛みつく前に、イグニスの手を掴んで無理やり外した。
自分で自分の口と喉を押さえる。
こうしないと、真っ先にイグニスに噛みつきそう。
イグニスはわたしの口を押えていた自分の手を見てから、改めてわたしを見た。
青銀の目を持つ、きれいな、イグニス。
ずっとわたしを支えてくれた人。一緒にいてくれた人。ずっと一緒にいたい人。
なんてところを見られてしまったんだろう。
昔、吸血鬼に襲われたイグニスにとって、人間を襲っていたわたしの姿はどう映ったんだろう。
イグニスを『おいしそう』と思ってしまったわたしをどう思うんだろう。
「ご、ごめん、なさ、い。離れて……。いま、なんだか、おか、しくて……」
イグニスの指が舌先に触れたときから、喉の渇きは一気にふくれあがっている。
なんで。今まで、こんなにも強く渇いたことなんてないのに。
このままイグニスと一緒にいたら、あの吸血鬼と同じようにイグニスを襲ってしまいそうだ。
それだけは嫌だ。
下を向いて、少しでもイグニスと距離を取るために後ずさる。
「……喉が渇いたんですか?」
イグニスの声も冷たくどこか渇いたものだった。
イグニスの靴先が近付いてくる。
なんで……っ!
逃げようと踵を返せば、走り出す前に後ろから腰を引き寄せられた。
後ろから抱きしめられているような状態。
イグニスの匂いがして、喉が鳴った。
イグニスにも聞こえたかもしれない。恥ずかしくて怖くて、嫌になる。
「だったら、俺の血を飲めばいいでしょう」
「な、なに言ってるの。そん、なこと、できるわけないでしょう」
「どうして? 俺はあなたの餌ですよ」
「なん、で、そういうこと、言うの。……わたし、にとって、イグニスは……餌、なんかじゃない……」
口を押えている手に、イグニスの手が重なる。
驚いて体がビクッとなる。イグニスは笑ったようだった。
「我慢しなくてもいいのに。俺の血はおいしいらしいですよ」
「……っ! なんで!」
今の言葉じゃまるで……。
「あの男、あなたにそんなことまで言ったの!?」
イグニスを襲って血を飲んだ吸血鬼を思い出せば、怒りで頭が真っ白になる。
抱きしめられたままの状態で首だけで振り返れば、すぐ目の前にイグニスの顔がある。
思わず言葉に詰まった。
イグニスは一瞬キョトンとしてから、なぜか楽しそうに笑う。
体の向きを変えられて、イグニスの手がわたしの腰の後ろで組まれた。
イグニスの腕の中、そのゆるい拘束になんだか焦りが生まれる。
「違いますよ。アルバ様も知っているでしょう。一度だけ、ヴァイオレット様に味見をしてもらったことがあるんです。あまりにアルバ様が飲んでくれないから、俺の血はおいしくないのかと思って」
一度だけ、ヴァイオレット様がイグニスの手首から血を飲んでいたのを見た。詳しい事情を聞く余裕もあのときはなかったけど、あれはイグニスから頼んだことだったのか。
「な、んで、そんなこと……」
「どうしても、あなたに俺の血を飲んでほしかった。……どんな形であれ、あなたに必要とされたかった。あなたと一緒にいられる理由が欲しかった」
イグニスは左手でわたしの腰を抱く。ゆるかった拘束が、少しだけ強くなる。
右手の指が、わたしの唇に触れた。
「昔の俺は奴隷でした」
「え?」
「あなたと出会う前のことです。あの頃の俺はゴミのように扱われて、このままゴミのように捨てられて死んでいくと思ってた。それが嫌で、あるとき隙を見て逃げ出したんです。そして、あなたに拾われた」
イグニスの指が、わたしの唇をなぞる。
青銀の目が、わたしを映す。
「どうせ死ぬなら、一思いに死んでしまいたかった。吸血鬼の餌になったと聞いた時は、餌だったら一瞬で食べられて終わりだ、良かった、なんて思いました」
辛かったはずのことを、イグニスは笑って言う。どこか懐かしさすら含めて。
胸が痛くなった。思わずイグニスの頬に手を添えると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、俺は吸血鬼の餌になって初めて人間扱いされるようになりました。柔らかな布団でたっぷりと寝て、美味い食事を腹一杯食べられて、勉強を教わって、森の中を駆け回って遊んで……。人間扱いされなかった俺が、初めて一人の人間としてあなたに必要とされた。……でも、それだけじゃ足りなくなった」
わたしの手にすり寄り、彼はスっと目を細めた。
「俺にとってはあなたがすべてだったから……あなたにも俺がすべてであってほしいと思った。どんな形でも俺を必要としてほしいと思った」
「……わたしにはあなたが必要よ」
「知っています。でも、足りない。俺は人間としてあなたに必要とされたいし、執事としても友人としても家族としても、恋人としても必要とされたい。あなたが持つ関係性のすべてに俺がなりたいと思った。だから、俺は餌としてもあなたに必要とされたい」
わたしの唇を撫でていた手が、イグニスの頬に添えたわたしの手と重なる。
イグニスに見つめられて、なんだか泣きそうになる。
「愛しています、アルバ様。だからどうか、あなたのすべてで俺を必要として」
胸が痛い。甘く、引き絞られるよう。
「……ねえ、イグニス。わたし、昨日からちゃんと考えていたの。考えようとしたの。自分の将来とか、どうするべきなのか、とか。色々考えようして……でも、すぐにイグニスのこと考えていた。イグニスは将来どうするんだろうって。イグニスの未来にわたしはいるのかな、って。もしイグニスと離れることになったらって思うと怖くてたまらなかった」
わたしはもう片方の手も上げて、イグニスの頬を両手で挟む。
ずっと一緒にいた人。ずっと一緒にいてくれた人。ずっと一緒にいたい人。
「イグニス。好きよ。大好き。わたし、あなたのことが好き。わたしもあなたに必要とされたい。ずっと一緒にいたい」
わたしはこのときのイグニスの表情を一生忘れないと思う。
赤く染まった頬も、きらめくような青銀の目も、とろけるような幸せそうな笑みも、ずっと永遠に忘れない。
イグニスの手がわたしの口元にきて、親指が、唇をなぞる。
うながされるように唇をうっすらとひらくと、親指は犬歯をそっとなぞり、舌先に触れた。
渇きが起こる。
イグニスを見ると射るような目でわたしを見ていた。
まるでイグニスのほうが渇いているみたいでおかしい。クスッと笑いが漏れれば、わたしが笑ったことが意外だったのか、イグニスはキョトンとした。
そんなイグニスの親指を食んで、わたしは歯を立てた。