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わたしの餌発言事件はまだある。
第三次餌発言事件。
これは本気で問題ある事件だったりするのだけど……事件現場は同じく食堂に繋がる廊下。
第二次から一年くらい経った日のことだ。
その日、ヴァイオレット様を訪ねに男の吸血鬼が来ていた。
ヴァイオレット様のところには吸血鬼も、ときには人間も訪ねてくることがある。彼もその一人で、そのときはたまたまヴァイオレット様が突然の所用で外出されていた。
ヴァイオレット様が戻られるまで彼の話し相手をするべく応接間へと行ったのだが、その男の姿はない。
オンブルさんにお客様がいないことを伝えると、いつも落ち着いているオンブルさんが真っ青になって走り出した。わたしも思わず後を追う。
そして、その光景に、わたしはオンブルさんがここまで慌てた理由を知った。
イグニスの首元に顔をうずめる吸血鬼。
イグニスの身体は細かく震えて、細く声が漏れている。
廊下に充満する甘くて、かぐわしい、血の、匂い。
「イグニス!」
わたしは吸血鬼に突進していた。がむしゃらにイグニスを取り戻す。
彼の服の襟元は破られ、あらわになった首元には二つ、赤い点が浮かんでいる。
赤い点を隠すようにイグニスに抱き付き、吸血鬼を睨んだ。
「イグニスに触らないで! イグニスはわたしの餌です!」
またもとっさに出たのは、そんな発言。でも自分がなにを言ったのか、そのときは深く考えられなかった。
わたしの叫びと一緒に吸血鬼の男の動きが止まる。
彼は血走った目を見開き「馬鹿な……」とか呟いていた。
わたしはそのとき、この吸血鬼に暗示をかけていたらしい。「イグニスに触るな」という願いは「動くな」という暗示になった。
同じ吸血鬼に暗示をかけるとなると、相手より強くなければいけない。
それなのに、わたしより絶対に強いであろう大人の男の吸血鬼に暗示をかけることができたなんて、火事場の馬鹿力ってあるんだと思う。
当時、そんなことも分かっていなかったわたしは、その後はもうイグニスのことしか考えられなかった。
きれいな顔からは色がなくなり、震える唇をおさえて、イグニスはわたしの腕の中で身をよじった。そして、吐いた。泣きながら吐く彼に、わたしもボロボロ泣いた。
そして、ゼーゼーと喉を鳴らす彼をさらに強く抱きしめる。弱々しく抵抗された。イグニスが本気で嫌がったら、わたしを引き離すくらいどうってこともないのに、それも出来ないくらいに弱っていたのだろう。
「き、たな、いから……はなれ、て」
漏れて聞こえたのは、そんな言葉だった。
建前か本音か分からないけど、それが理由なら離れる必要はないと思って、わたしは離さなかった。離せなかった。イグニスの手がわたしの背中に回って、ドレスを強くつかむ。そのまま強く引き寄せられて、わたしたちはお互いを守るみたいに抱きしめ合った。
オンブルさんが動けない吸血鬼を拘束して、わたしたちを部屋へと連れて行ってくれた後も、着替えもしないでずっとそうしていた。
ほどなくして帰ってきたヴァイオレット様は、事態を知ってキレた。
キレて、この吸血鬼をボッコボコにしたらしい。そして絶縁を宣言した。
人間からも吸血鬼からも信頼が厚いヴァイオレット様は、吸血鬼同士、ときには吸血鬼と人間の間だって取り持ち、揉め事の仲裁もされたりする。
そんなヴァイオレット様に見捨てられたと広まれば、他の吸血鬼からも見放されることになって、吸血鬼社会でも生き辛くなるそうだ。
だからこそ、ヴァイオレット様がここまで強硬な態度をされることは滅多にないけど、今回は違った。
それはイグニスが襲われたから……ってだけじゃなくて、かつてオンブルさんもこの吸血鬼に襲われかけたことがあったと分かったからだ。
同じようにヴァイオレット様が留守の時に訪ねてきたあの吸血鬼は、もともと人間を「ただの食料」だと下に見ており、オンブルさんのことも襲ったらしい。
そのときオンブルさんは返り討ちにしたらしいけど。オンブルさん、何者!?
「あの野郎、温情をかけてやったのに反省もせず……こうなったのは私の責任でもある」と若干裏の顔を見せつつイグニスに謝ったオンブルさんの隣で「さっさと報告しなかったお前が悪い。全部悪い! 先にこのことを知っていたら、とっくにあいつを殺してた!」とヴァイオレット様がオンブルさんをペチペチ叩いていた。
ここまで荒れるヴァイオレット様は初めて見た。こうなることが分かっていて、オンブルさんはずっと黙っていたのかもしれない。
とにかくこの事件をキッカケにわたしは考えるようになった。
このままイグニスはここにいてもいいのか。
同じ人間と暮らしたほうがいいんじゃないのか。
でも、イグニスがいなくなってしまうのは、やっぱりどうしても寂しくて……。
うんうん悩んで、イグニスに心配かけて、うんうん悩んで、オンブルさんに労わられて、うんうん悩んで、ヴァイオレット様に呆れられた。
呆れながら「もう一人で悩んでもしょうがないんじゃないの」とヴァイオレット様に言われてしまえば相談するしかないと思う。
イグニスがこのままここにいてもいいのか。
また同じことがあったらどうすればいいのか。
でも、イグニスがいなくなったら寂しい。
というようなことを、あっちこっち話が飛びながら、まとまりなく説明すれば、ヴァイオレット様はよりにもよってイグニスにそれを伝えた。
結局はイグニスがどうしたいか、ってことだろう。ってことらしいけど、そのときはなぜか慌てた。本人に聞くのが怖くてたまらなかったからだと思う。
アワアワするわたしに、イグニスは「俺はずっとここにいたい」と言ってくれた。
その頃のわたしは、その言葉を聞いただけで安心した。
イグニスはここにいたい、わたしもイグニスにここにいてほしい。
ここで、イグニスと、オンブルさんと、ヴァイオレット様と、ずっとずーっと一緒に暮らすのだ。
イグニスの言葉に、わたしはその未来が約束されたんだと思って嬉しくてたまらなかった。
変わらないことなんて、あるわけないのに。