校舎裏の誘拐犯
化学実験室の扉を開けた僕を出迎えてくれたのは、ホコリの臭いと、机の上に寝転がって本を読む女子生徒だった。
窓から差し込む夕方五時過ぎの夕焼けが、室内に舞う細かいホコリを照らしキラキラと輝いている。そんな幻想的な光景の中で、ボサボサの長髪を縛ることもせず、制服にシワがつくことも構わず寝転がり読書をする彼女は、いささかミスマッチだった。
女子生徒、東京子は読んでいた本から顔をあげ、モデルのように大きな目で僕のほうを見て一言、「えっと……どちら様?」と尋ねた。どうやら、出迎えてくれたというのは僕の気のせいだったようだ。
「葉原千秋。同じクラスなんだから、そろそろ名前くらい覚えろよな。ほら」
そう答えると僕は、左手に持っていた缶コーラを東に差し出した。
「下駄箱のところにあるだろ、ルーレットつき自販機。アレってほんとに当たるものなんだな」
せっかく当たったものだが、喉を潤すには右手に持っている自分のぶんのコーラだけで充分だ。かといって、こういった缶ジュースをカバンに入れておくと、結露によって発生した水滴がノートや教科書をグチャグチャにしてしまう。僕は何度もその過ちを繰り返しているため、カバンに缶コーラを入れるつもりはない。そのために余ったコーラを処理するため、放課後の化学実験室に無断で侵入して読書をしている東のもとを訪れたわけだ。
「うわー、葉原くんはダイエット中の女の子にコーラを飲ませる鬼畜だったんだー」
「なんだよ、いらないのか?」
「そうは言ってないでしょ」
東はようやく起き上がると、読みかけの本に丁寧にしおりを挟み、僕の手から乱暴にコーラを奪い取った。僕たちは同時にプルタブを開けると、乾杯もせずにコーラを口の中に流し込んだ。
「ふぅ」
東が息をつく。よほど喉が渇いていたのだろうか。コイツはまた食事を忘れて読書をしていたのかもしれない。
「今日はいつからここにいたんだ?」
「三限が終わってからここに来たから、十二時ごろかしら」
「午後の授業はサボりか」
「大丈夫。こっちの旧校舎には滅多に人は来ないから、誰にもバレないわよ」
「そういう話をしているんじゃないんだけど」
相変わらずのマイペースだ。僕は口から出かけたため息を、二口目のコーラで喉の奥に押し込んだ。そのとき、東が読んでいた本に目が留まった。文教堂のロゴがプリントされた紙製のブックカバーが着けられており、タイトルはわからない。
「授業をサボるほど夢中になって、いったい何を読んでたんだ?」
「これ? ウミガメのスープだよ」
初めて聞く料理名だ。ウミガメって美味しいんだろうか。
「料理のレシピ本か?」
「……ハァ」
ため息をつかれた。
東は持っていたコーラを机に置いて再び本を手に取ると、パラパラとページをめくり、そこに書かれている文章を音読した。
「男がレストランに入り、メニューから『ウミガメのスープ』を頼んだ。それを一口食べた彼はレストランを飛び出し、持っていた拳銃で自殺してしまった。なぜだろう?」
出来の悪い生徒の補習を担当する教員のような口調で東が読み上げたのは、小説とも詩とも言いがたい奇妙な物語だった。
「なんだそりゃ。『なぜだろう?』って言われても困るんだが」
「なぞなぞの問題集みたいなものよ。こんなヘンテコな話がたくさん載っていて、出題者がそれを読み上げる。そして回答者はこの物語の真相を推理するの」
「そんなこと言ったって、わかるわけないだろ」
「だから回答者は出題者に『質問』をする。そしたらその答えをヒントにして考えるの」
なるほど、もしかしたら東は一緒にクイズで遊ぶ友達がおらず、問題集を黙々と読んでいたのかもしれない。そんな危機的状況は、クラスメイトとして放っておくわけにはいかない。
「よし。君に僕の推理力を見せてやる。どんな問題でもかかってこい」
「ちょっと。なんで私が君とクイズで遊ぶ流れになってるのよ」
「今、君は問題を読み上げて『出題者』になった。そしたらそれを聞いた僕は『回答者』になるはずだ」
「前提が間違ってるわ。このクイズに参加するには、出題者や回答者である以前に『友達』である必要があるわ。わかる? ゲームは友達とやるものなの」
そういうと東は再び黙読を始めた。どうやらコーラを差し入れした程度では彼女の友達にはなれなかったらしい。
「でもさ。それ一人で読んで楽しい?」
その質問に東は答えない。僕の声が聞こえないほど集中しているのか、それとも聞こえているけど答えないのか。どちらにせよ、こうなってしまった東はしばらく動かなくなるのを知っている。僕は彼女に話しかけるのをやめて、三口目のコーラを飲みながら窓の外を何の気なしに眺めた。
旧校舎の三階から見える風景のなかに人影はなく、遠くから運動部の掛け声がかすかに聞こえる。学校の敷地内でも末端である旧校舎裏にわざわざ足を運ぶ人間はいない。葉を散らした大きな木が寂しげに佇み、その周りを花のない花壇が囲んでいるだけだ。
いつもと変わらないそんな光景を期待して窓の外を見た。しかし今日に限っては僕の期待に反し、一つの人影がやってくるのが見えた。不良がタバコを吸いにやって来たのかと思ったが違う。女子生徒だ。彼女はそびえ立つ大きな木まで歩みを進める。
僕は彼女から目を離さずに、持っていたコーラを窓際の机に置いた。喉の渇きを忘れるほど、その女子生徒の奇妙な行動が、僕の好奇心を刺激した。僕は声をあげた。
「なぁ東。君が問題を出してくれないなら、僕が出題するよ」
たとえ東が本に夢中で聞いていなくても、無視されたとしても、たった今目撃したその『謎』を口にせずにはいられなかった。
「とある高校の放課後の校舎裏。女子生徒が持っていたスクールバッグを木の枝に引っかけ、その場を立ち去った。なぜだろう?」
既に女子生徒が立ち去った校舎裏には誰もいない。しかし、僕が目撃したものが夢でないということは、彼女が置いて行った(厳密には置いておらず引っかけたわけだが)バッグを見れば明らかだった。
視線を化学実験室内に戻すと、東は本から顔を上げ、何もない空間を見つめながらあごに手を当てて考え事をしている。どうやら僕が目撃したことは、東に読書を中断させるほどの興味を引かせることに成功したようだ。
「じゃあ質問」
僕のほうを見ないまま、唐突に東は声をあげた。
「な、なんだよ」
「その女子生徒は一年生?」
そんなこと言われても、僕がわかるわけない。
「えーっと、たぶんそう」
「たぶん?」
「いや、えーっと……」
「葉原、君テキトーなこと言ってない?」
「テキトーなわけあるか! ほら見ろよ!」
僕が窓の外を指さすと、東はようやく重い腰を上げ、窓のそばまで歩み寄った。そして木の枝に引っかけられたバッグを見るや否や、途端に興味をなくしたように、つまらなそうな顔をした。
「あれが、なに?」
「東は気にならないか? 身の回りであんなヘンテコな事件が起こってるのに」
「この世界のどこで何が起こってようと、私には関係ないわ。今私にとって重要なのは、貴重な放課後の読書の時間を、いかに有意義に過ごすかということだけ」
「君、探偵の素質ないな」
「あいにく普通の女子高生なので」
東はほったらかしにしていたコーラを一口飲んで減らず口を潤すと、また読書に戻ろうとする。そうはさせるか。僕の胸の内のモヤモヤを晴らすために、東には何としても協力してもらう。
「わかった。君が乗り気じゃないなら、僕が一人で推理しよう」
「……」
「あのバッグの中には現金、およそ一千万円の大金が入っている」
「……は?」
「あの女子生徒はおそらく、大財閥のお嬢様だ。髪に白いリボンをつけるなんて、お嬢様キャラの特権だ。それに立った時の姿勢や歩き方もビシッとスマートだった。お嬢様といえば幼いころからバレェを習うもの。だから姿勢がいいんだろう。お嬢様である彼女なら一千万円の大金を用意することも可能だ。ではなぜ彼女が大金を木に引っかけて立ち去ったのか。それは彼女の愛する妹が今まさに、誘拐事件に巻き込まれているからだ。妹を誘拐した犯人は身代金を要求した。その受け渡しの場所こそが、この校舎裏だったんだよ。つまり彼女は、身代金の受け渡し人として、犯人の指示通りに金の入ったバッグを校舎裏まで運び、目印として木に引っかけたのさ。東、どうだいこの推理は」
「文芸部にでも行ったらどう? あと、それは推理ではなく妄想ね」
「そうか。では次の推理、いや妄想だが、彼女はこの学校の教師たちに恨みを持っているデモ集団のリーダーなのさ。あのバッグの中には時限爆弾が……」
「ねぇ、まだ続くの?」
「君がやる気を出すまで続けるつもりだ。推理、いや妄想は僕の数少ない特技なのでね」
それを聞いた東は、今日何度目かわからないため息をつき、再び窓際まで戻り校舎裏をじっと見つめる。どうやら現場を再検証することにしたようだ。
「バッグの引っかかっている木の枝、ずいぶん細いわね」
指摘を受け、僕も木に注目する。確かに、葉の落ちた木は枯れ木と言ってもいいくらい元気がなく、枝も細い。
「それが何か関係あるのか?」
「もしバッグの中身が札束や爆弾だったら、枝が曲がったり折れたりするはずよ」
「あ、確かに」
「それと、葉原の言っていた『受け渡し』って点だけは私も賛成ね。相手に気づかせるために、あんな目立つところにバッグを置いているのかもしれない」
「置いているんじゃなくて、引っかけているんだがな」
「うるさいな……待って、誰か来た」
東の言う通り、空き地に本日二つ目の人影が現れた。誘拐犯が金を回収しに来たのかと思い注目するが、現れたのは僕と同じ制服を着た男子生徒だった。身長はスラリと高く、整った顔をしている。
「誰だあいつ」
「呆れた。クラスメイトの名前くらい憶えておきなさいよ。これだからコミュ障は」
「悪かったな」
「中島大我くん。出席番号二十番。帰宅部の君と違ってサッカー部のエースで、ファンクラブも作られるほど有名よ」
「ずいぶん詳しいんだな」
「君が無知すぎるだけでしょ」
僕たちが話している間も、中島は迷いなくバッグの引っかけられた木へと歩み寄る。そしてバッグを手に取り、そのまま立ち去った。
「どうやらあのバッグは、僕の見たお嬢様から彼へのプレゼントだったようだな」
誰もいなくなった空き地を見下ろしながら、僕は考えをまとめる。
「しかし重要なのは、あのバッグの中身だな」
そんな僕の言葉を受け、東はあごに手を当て少し考える素振りをした後ポツリと「思いつくものはあるけど……」とつぶやいた。
「それは妄想か?」
「君と一緒にしないで。私のは『想像』よ」
「どう違うんだ?」
僕の質問は無視して東は自分の想像を語る。
「あのバッグの中身、ノートが一冊入っていると私は考えるわ」
「ノート?」
「そう。友達のいない葉原には縁がないものでしょうけど。交換日記って知ってる?」
いくらなんでも僕をバカにしすぎだろう。交換日記くらい知ってる。
「それじゃあ、あの女子生徒と中島は、放課後の校舎裏で交換日記をしているっていうのか?」
「ええ。そうよ。二人はそうやって愛を育んでいるのではないかしら」
東、もしかして少女漫画が好きなのだろうか。だとしたら意外だな。
「でも今どき交換日記で愛を育むカップルがいるか?」
「忘れた? 中島くんは君と違ってファンクラブが作られるほど人気者なの。堂々と一人の女子生徒と仲良くするわけにはいかない事情があるのよ」
「いちいち言葉にトゲがあるな。でも仮にそうだとして、なんで交換日記なんだ? 密かにやり取りするなら、スマホを使ったりすればいくらでもできるだろ」
「その女子生徒は、白いリボンが似合うお嬢様だったんでしょ? 過保護な両親からスマホの利用を制限されているのかもしれないわ」
「……」
反論がなくなってしまった。僕は鳥肌が立つのを感じた。僕たちは今、人気サッカー部員のスキャンダルに触れてしまったのだ。
「言っておくけど、『こいつはすごいスキャンダルだ』なんて考えないことね」
東のその言葉で、高ぶっていた僕の気持ちも徐々に落ち着きを取り戻した。
「今のは『とりあえず矛盾のない仮説』よ。答えなんていくらでも考えられるし、本当のことは当事者である彼らにしかわからない」
そう。今僕たちが向き合った問題は、学校の試験と違い、答えの知りようがない。しかし、先ほど僕の胸の中に現れた衝動のような好奇心はいつの間にか消えてしまっている。
どれほど奇妙な物語にも、矛盾のないとりあえずの仮説を立てることができる。そのことを知った僕は、本の世界へと戻ろうとする東を慌てて引き留めた。
「東、ついでにもう一つ、出題していいかな」
もう一つ、僕がずっと感じている胸の不快感を取り除き、脳内を支配しているこの謎にひとつの答えを出すことができるかもしれない。
東の返事も待たずに僕は語る。ほんの数十分前に僕が目撃した不可解な出来事を。
「ある男子高校生が、女子生徒からラブレターをもらった。男子はその手紙に記された場所で女子を待った。やがて現れた女子は、男子の顔を見ると突然、男子の手からラブレターを引ったくりその場を立ち去った。いったいなぜ?」
僕の言葉を聞くや否や、考える間も置かずに東は考えを述べた。
「近くで見たら、葉原が思ったよりブサイクだと気付いたからでしょ」
「それはないと信じたい。というか、なんで僕なんだよ。『男子生徒』だろ」
「女子から手紙をもらった経験なんてない葉原は、人生初のラブレターに大緊張して喉はカラカラ。しかし訳もわからず振られ、その帰りに自販機でジュースを買ったらなんとルーレットが当たり、そして今に至るというわけでしょ」
言葉の端々のトゲが僕を攻撃してくるが、東の語った流れはすべて合っているため、悔しいが訂正のしようがなかった。
「さすが名探偵。でも僕の顔は事件とは関係ないと思うな」
「確かに、葉原の顔がアレなことに気付いて振ったのなら、手紙を渡した時点で振ったはずね」
「僕の顔は関係ないと思うけど、今回のケースでは手紙は手渡しじゃなかったんだ。今朝、僕のロッカーの中に入ってたんだよ」
「ロッカーって、教室のロッカー?」
「そう」
この学校では、各教室にロッカーが設置されており、生徒一人に一つずつ割り当てられている。縦三段、横十列のしっかりした作りで、皆スクールバッグや教科書などを収納している。そして今朝、僕がホームルームの前にロッカーから教科書を取り出そうとしたところ、見覚えのないピンク色の封筒に気づいたのだ。
「そうだ、手紙を受け取ってから事件が起こるまでのことを、もっと詳しく教えてくれない? 覚えてること全部」
「木に引っかけられたスクールバッグには無関心だったのに、今度は随分積極的だね」
「君が女子に振られたなんて、こんな面白いことないでしょ」
今度は僕がひとつため息をつくと、記憶の糸をたぐった。
「手紙には、差出人の名前が書いてあった。同じクラスの若林だ」
「へぇ、若林さんが。なんか意外」
若林舞。出席番号は最後尾の二十七番。どこかの誰かと違っておしとやかな性格で、黒く長い髪が特徴。一番後ろの窓際の席で日の光を浴びながら優雅に読書をする姿は、誰かと違ってまさに大和撫子だ。
「正直、今日の授業の内容はほとんど覚えていない。気づけば放課後で、僕は待ち合わせの場所である旧校舎裏にいた」
「胸を張って言うことじゃないし、君が授業をサボった私をどうこう言う資格はないと思うけど、手紙には旧校舎裏に来るように書かれていたのね」
「ああ。『お話ししたいことがあります。今日の放課後、旧校舎裏に来てください。 若林舞』と、シンプルな文面だった。」
「書かれていたのはそれだけ?」
「ああ、一言一句間違いないと思うぞ」
再び東は考え込んでしまった。手紙の文面に何か問題があったのだろうか。
「まあいいや。それで?」
先を促す声に、僕は語りを再開する。
「待つこと数分。若林がやってきた。僕は手に持っていた手紙を彼女に見せて『手紙、どうもありがとう』って言ったんだ」
「さぞ裏返った声だったでしょうね」
「すると突然若林は顔を真っ赤にして、勢いよく頭を下げたんだ。『ごめんなさい!』って叫んで。そして僕の手から手紙をひったくり、一目散に走っていってしまった」
その後のことは先ほど東が指摘した通り、自販機でコーラを買って化学実験室にやってきたわけだ。
「さぁ、恥ずかしい思いをしながら話したんだ。この謎を解いてくれるんだろうな」
「そのためにはもう少しヒントが必要ね」
「まだ必要なのか? もう僕が話すことはないぞ」
何しろ緊張しすぎて今日一日の記憶がないのだから。
「彼女の言った『ごめんなさい』ってどういう意味なのかしら」
「そんなの僕が知るわけないだろ」
「『ごめんなさい。やっぱりタイプじゃないです』かな」
それが一番考えられるが、とても悲しい。
「それは全ての可能性を潰した最後の最後まで取っておいてくれないか」
「もしくは、『ごめんなさい。間違えました』とか」
「間違えた?」
東の言っていることがいまひとつ理解できない。若林はいったい何を間違えたというのだろうか。
「葉原がもらった手紙、宛先は書いてあった?」
「本文のほうばかり注目していたが……もしかしたら書いてなかったかもしれない」
「それなら、若林さんが手紙を入れるロッカーを間違えたのかもしれない」
「これから告白しようってときに、相手のロッカーを間違えるなんてあり得るのか?」
高校生にとって一大イベント。細心の注意を払うと思うのだが。
「それじゃあ、こう考えてみましょう。ロッカーを間違えたのは葉原、君の方だったのよ」
「僕がロッカーを間違えた?」
今朝のことを思い出してみる。僕はいつも通り自分のロッカーを開けたはずだ。間違いない。
「いやいや。もう半年以上あの教室のロッカーを使っているんだから間違えるはずないよ。今朝もいつもと同じ、左から三列目、真ん中のロッカーを開けたよ」
「……え?」
信じられない。といった表情で僕のほうをみる東。何やらとんでもないことに気づいてしまったようだが、僕にはさっぱりわからない。
「葉原……君の出席番号って……」
「二十三番だけど……」
ロッカーは一列に三段。右上から下に向かって出席番号順に並んでいる。一列目は一番から三番のロッカー、二列目は四番から六番のロッカー。僕は二十三番だから八列目。ロッカーは全部で十列だから左、つまり後ろから三列目だ。このクラスでずっと使ってきたロッカーだ、間違えるはずがない
「君さぁ、人生初のラブレターで浮かれていたとしても、ホームルームの先生の話はちゃんと聞いておくべきだよ」
「どういうことだよ」
「じゃあ、若林さんの出席番号は?」
僕の問いには答えず、東は質問を重ねる。
「二十七番だろ」
「そう。そして彼女は窓際の一番後ろの席、つまり出席番号順で一番最後なのよ。ここで問題。ウチのクラスの生徒は全部で何人?」
「バカにするなよ。二十七人だろ」
「そう。じゃあ、三段積み上げられたロッカーを二十七人で使うとき、ロッカーは何列必要になる?」
「九列だろ。それがなんだよ」
話の要領がつかめない。いったい東は何が言いたいんだ?
「まだ気づかない? あのロッカーは、一番左端の一列が今まで使われてなかったのよ。そしてあのロッカー、列と列の間を特殊な金属で留めてあって、業者に頼めば取り外しができるらしいのよ」
僕の脳内で点と点が少しずつ線になっていくのを感じた。同時に、なんだかとても嫌な予感もしてきた。
「……なんで君はそんなこと知ってるんだ?」
「今朝のホームルームで先生が言ってたのよ。別のクラスで転入生が来るからロッカーが必要になり、使っていないウチのクラスのロッカーを一列、急きょ向こうのクラスに移動させたって」
「それじゃあ……」
「今日からウチのクラスのロッカーは九列になった。君のロッカーは左から二番目。君が開けたのは別の生徒のロッカーよ」
「マジかよぉぉ!」
僕は叫び、机に突っ伏した。それほどまでにショックだった。
「まったく、どれだけ不注意なのよ」
なんてこった。僕は勘違いをしていた。僕が開けたのはひとつ隣のロッカー。そこに入っていたラブレターも当然ひとつ隣の生徒へと宛てられたものだった。
一列につきロッカーは三段なので、僕が二十三番だと思って開けたロッカーは、本当は二十番のロッカーということになる。若林にも、出席番号二十番の生徒にも本当に申し訳ないことをした。
「……ん? 出席番号二十番?」
最近どこかで聞いたような。
「ウチのクラスの二十番なら、サッカー部エースの中島くんよ」
そうだ。つい先ほど僕たちが交換日記の現場を目撃した中島だ。若林のラブレターの宛先は中島だったのだ。しかし、中島には甘い交換日記のやりとりをするほどの相手がいる。
「これって三角かんけ……」
「葉原」
僕の名を呼ぶ東の声に、僕は口を閉じた。それほどまでに彼女の声には、静かな迫力があった。
「何度も言うようだけど、私たちがたどり着いた答えは『矛盾のないとりあえずの仮説』よ。これが本当とは限らない。真相は私たちには知るよしもない」
「まぁ……そうだろうな」
「案外、あのバッグの中に本当に札束が入っていたかもしれない。考えられる答えなんて、水平線の上に数えきれないほど散らばっているのよ」
「水平線?」
「そう。ウミガメのスープを飲んだ男が自殺した理由が、いくらでも考えられるようにね」
そう言って東は、傍らに置いておいた『ウミガメのスープ』の本を手に取り、パラパラとページをめくった。
「部屋の中にはリンゴが六つ入ったかごが置いてあり、女の子が六人いた。女の子が一人一つずつリンゴを取ったが、かごの中にはまだリンゴが一つ入ってる。なぜ?」
突然、東は本に書かれている奇妙な物語を音読した。そして質問を促すように僕のほうをじっと見る。どうやらたった今、東が出題者に、僕は回答者になったらしい。
その問題に集中しようとしたが、僕の心の中にはもう一つだけ、解明していない謎があった。それは、僕と東京子の関係を何と呼べばいいのかということ。今年の四月に彼女と出会ってからずっと考えていたことだ。
同じクラスにも関わらず、教室では一切会話をしない。ときどき放課後の化学実験室でくだらない会話をするだけだ。友達と呼ぶには遠く、他人と呼ぶには少し近い。こんな僕たちを何と呼べばいいのか。
まあ、どうだっていいか。そんなことより、かごの中のリンゴの方がはるかに重要だ。
それに、この謎の答えは、たぶん考えたって出ることはないだろう。だって謎の答えは、水平線の上に無数に広がっているのだから。
そしてその答えのうちの一つは、炭酸の抜けたコーラが知っている。なんとなく、そんな気がした。