彩香編第19話 ~今後の予定は?~
彩香編第19話
改名手続きが進むまでの間に、十日間が経過している。
十日間の間には、牟田口の処罰を受けて沈静化してきたとはいえ、やはり私にまつわる噂は完全には絶やすことはできなかった。
二年生や三年生の中でも話題に上ることも時折あり、私は手続きの日以外は登校しながらも神経を尖らせていた。意地の悪い生徒の中にはわざわざ一真と呼んでくる生徒も居たが、私は努めて無視することにしていた。
下手に相手にすれば付け上がり、それ以上のことを言ってくるのは目に見えているからだ。こういう相手は最初から相手にしないのが一番の対策であると私は思っている。
そんな中で私の慰めになったのはお昼休みの友人たちとの触れ合いであり、調理部での触れ合いであり、お姉さまとの触れ合いだった。
「手続き、うまくいくと良いね。」
とみんなが言ってくれた。私にはそれが嬉しかった。
戸籍の変更が終わった翌日、私は学校に登校した。
登校して一番に向かったのは、三年二組の教室だった。一番に報告したい相手はここに居る。
お姉さまの姿を探して、私は声を掛ける。
「お姉さま、おはようございます。」
いつもよりも清々しい気分で挨拶をする。
「お早うございます、彩香さん。」
三年生にも私の噂は届いており、伊藤先輩や榎本先輩、如月先輩も心を痛めてくれていた。もう登校していた三人は私に心配の声を掛けてくれる。
「彩香さん、もう大丈夫?」
「何か力になれることがあったら言ってね。」
「早く悪意のある噂が無くなりますよう願っていますわ。」
三人はそう私に声を掛けてくれる。その心遣いが私には嬉しい。
「ありがとうございます、先輩方。」
私は頭を下げ、お姉さまに向き直る。
「お姉さま、私、本当に瀬戸彩香になりましたよ。」
「え、それじゃあ…。」
「はい、戸籍の変更は昨日済ませました。」
と、私は笑顔で答える。
「そっか、そうか…。良かったね、彩香さん。」
お姉さまは私の手を取って喜んでくださる。
「ありがとうございます、お姉さま。」
私は手を握り返して、そう答える。
三人の先輩たちも、それぞれの言葉で言祝ぎしてくれる。私は返礼の言葉を述べる。
そこで予鈴が鳴り、私は自分の教室へと慌てて向かっていった。
放課後、再度の生徒会室への呼び出し。
「…すると瀬戸さんは、もう過去の名前とは決別されたのですね。」
副会長がそう言って、良かったというように微笑んでいる。
「これで噂が沈静化するかどうかは解りません。」
と、私は冷静に言う。でも、沈静化しないまでも、もう過去の話だと済ませることはできるようになる。
「でも、これで本当に『今は瀬戸彩香だ』って、自信と根拠を持って言えます。」
私はそう言って、副会長に笑顔を返す。
「そうですね…。学校側も公式書類の記述もすべて瀬戸彩香で統一できると歓迎しているそうですよ。」
どうやら、今までは書類によって必要に応じて戸籍名と通称名を使い分けていたという事らしい。それでも戸籍名が漏れなかった辺り、うちの学校の先生方の情報の取り扱いは丁寧なようだ。
私達は生徒会室を退出し、人気のない廊下を歩く。
「後は手術して性別を変更するだけですね…。早く手術できるようにならないかなぁ。」
と私が言う。
現在の国内のガイドラインでは、一八歳以上の年齢に達していない者は手術できないことになっている。未成年の場合は両親の同意も必要だ。
「彩香さんはどういう予定でいるの?」
お姉さまがそう尋ねてくる。
「大学に入学したら夏休みや春休みが長いですから、その間を利用して手術しようと思っています。二か月から三か月程度は休めますから…。」
と私は答える。入院期間は一か月程度だから、上手く予定を組めば療養する期間も取れるだろうと思っている。
「予定通りに進むと良いね。」
とお姉さまは私にに笑顔を向ける
「はい!」
と私は元気に答える。
「手術か。俺も似たような予定で考えていたよ。」
と加藤先輩が言う。
「やっぱり、早いうちに済ませてしまいたいですよね…。就職してからだといろいろ、大変そうですし。」
と私は言う。実感としてわかるわけではないが、会社というのはそう簡単に休めるものではないし、そう簡単に性別変更を受け入れてくれるものでもないだろうと思っている。
そうなると大学のうちに戸籍変更まで済ませて、希望する性別で就職活動をした方が良いのではないかと思うのだ。
もっとも保険適用で手術できる病院は現在数か所しかないから、長い待ちが生じているとも聞く。希望通りに行くかは別の問題だ。
保険適用でない美容外科のクリニックもあったりはするが、入院施設がないなどいろいろ問題もある。
いっそ私も海外で手術したほうが早いかもしれない。
私達はそんな話題を話しながら、廊下を歩いて行った。
六月になり、校内の話題はインターハイ県大会に移る。うちの学校は運動部の方が盛んだから、どうしてもこれが話題の中心になるのだ。
二年生でもレギュラーを取ったり個人戦で出場したりする人はそれなりにいるようで、私のいる二年一組でもインターハイの話題が花盛りである。
お陰で私に関する噂などどこかへ吹き飛んでしまった。もとよりそれほど面白い噂でもなかったから、まあ霞んで消えても不思議はないだろう。
上旬、県大会が行われる。例によって私達調理部は応援に回る。
本当なら炊き出しくらいして応援してあげたいところだけれど、全部の運動部にそうして回る訳にも行かないから、割り当てられた所へ行き運動部員の指示に従って応援するだけである。
今年も女子バスケ部と女子バレー部の応援に行ったが、両方の部活とも地区大会出場を決めたという事だった。私達の応援が何がしかの力になっていれば嬉しいけれど、それよりも選手の皆さんの日頃からの努力の方が圧倒的に大きいだろうと思う。
女子バスケ部には伊藤先輩、女子バレー部には榎本先輩がいらっしゃるけれど、お二人ともレギュラーとして出場して活躍されていた。
身近な先輩が活躍されている姿を見るのはちょっと不思議な感じもしたが、それよりも感慨深さの方が上回った。普段気さくに接してくれる先輩たちが、こんなにも躍動的なのかと。
私も運動は下手な方ではないが、とてもかなわないなと感じる。やっぱり何か一筋の事に打ち込んでこられた方ならではの事なのだろうと思う。
六月中旬、中間試験が待ち受ける。私達文化部員はインターハイ前から準備しておけるから良いけれど、インターハイ前は猛練習の日々の運動部員には厳しい日程だろうなと感じる。猶予が一週間しかないのだから。
その一週間の間のある日、二年一組にて。
私は真剣な顔をして勉強をしていた。その向かいでは里中さんが同じく真剣な顔で勉強をしている。
私はお姉さまと同じ大学に行くという目標のため、里中さんは医療系の仕事に就きたいという自身の夢のため、中だるみと言われるこの時期にあっても手を抜くことなく勉強していた。
私に至っては、部活動に出ているとき以外は自由に使える時間は勉強している時間の方が多いくらいの勢いである。そのおかげもあって、去年頭に平均くらいだった成績は顕著に上がり、今では上位争いに加わる勢いを見せている。
里中さんはもともと上位の常連だったが、私のこの勢いを見て自分も負けてはいられないと気合を入れ直していると言っていた。
「彩香ちゃんはどうしてそんなに頑張れるの?」
と、一度里中さんに聞かれたことがある。里中さんが頑張れない自分に自信を失いかけていた昨年の事だ。
「好きな人が居て、その方と同じ大学に行きたいんです。それが今の私の原動力です。」
と、私は率直に答えた。その後の会話で好きな人はお姉さまの事だと里中さんには知れてしまったが。
里中さんは自分の好きな事って何だろうと考えて、自分は人の助けになることをしたいと思っていたのだったと初志を思い出して、今に至るのだという。
試験一週間後。成績発表が行われ、私は一五位、里中さんは一八位と二人とも良好な成績を収めていた。
「ついに逆転されちゃったね。」
それまでずっと私よりも上位だった里中さんだが、今回は私の方が上位だったのである。
「今回はたまたまよ。次も頑張ろうね。」
と私は笑顔を返し、
「そうだね、次は負けないから!」
と里中さんも笑みを返すのだった。
時は経ち、七月も中旬を迎え、夏休み前の終業式が行われた。
とは言っても七月いっぱいは夏期講習が午前中にあるし、私はほかのGDの生徒たちと一緒に午後からは水泳の補習も入っている。
お姉さまは夏バテ気味なのか、昼食が進まないご様子だった。私はそのご様子を見て心配になる。
一方で畑中君は食欲旺盛で、三月に会った時のやや華奢にも見えた印象はすっかりなくなり、むしろ筋肉質の体格になっている。心なしか顔立ちも男性的になってきて、男子制服を着ていても違和感はほとんどなくなっている。
加藤先輩から教わった筋トレの成果だという。筋肉は嘘をつかないというが、どうやらそれは本当の事らしい。
翌日も同様に補習がある。またお昼は五人そろって食べに来ていたが、
「私、今日はお昼いいや…。飲み物だけにする。」
昨日の疲れもあってかお姉さまはそう仰る。みんなが心配そうな顔をする。
さすがに飲み物だけでは体が持たないだろうと私も心配になる。
「大丈夫か? 今日の補習、無理するなよ。」
と加藤先輩。
「そうですよ、ゆっくり泳いでも怒られませんから大丈夫ですよ。」
と奥山さんも言ってくれている。
「ありがとう、二人とも。」
みんながご飯を買って戻って来るのを席で待ちながら、お姉さまは購入したらしいいちごミルクの缶を手にしていた。
「お姉さま、良ければこれも食べてください。」
と、私は自分の荷物の中から包みを取り出す。昨日のうちに作っておいたたまごボーロだ。
「たまごボーロ…? 懐かしいね、何だか。」
包みの中には、茶色い丸っこいたまごボーロがそれなりの量詰まっていた。
「食欲のないときでも、口の中で溶かすように食べられますから。少しでも食べて元気を出してくださいね。」
と私はお姉さまに笑顔を向ける。
「皆さんの分もありますからね。」
と、もう三袋を出して加藤先輩と奥山さんと畑中君に配る。
「ありがとう、彩香さん。」
お姉さまは微笑みながら礼を言う。
「どういたしましてです、お姉さま。」
私も笑顔でそう答える。
ほかの三人も礼を言い、彩香さんは返礼の言葉を口にしていた。
早速お姉さまがいちごミルクを飲み、その後にたまごボーロを召し上がるのを見て、私はちょっと安心する。
お姉さまの元気がないと、どうしても心配になってしまうのだ。
さすがにこれだけで夏期講習やプールの補習が乗り切れるとは思わないけれど、少しでもその助けになれば…と私は思う。
お姉さまはたまごボーロを食べると、
「美味しいね、わざわざありがとうね。」
と改めてお礼を言ってくださった。
「明日も作って持ってきますね。」
と私は言い、お姉さまは嬉しいような困ったような表情を浮かべていらした。
結局、プールの補習は全員何とか乗り切れたのだった。
本編60話から65話の彩香視点です。
今度は彩香さんがお姉さまの心配をする場面が出てきます。