父の願い
少しだけ錆びのかかった鉄製の司令室の扉は、やや経年劣化が見られるも元は高級感漂う造りの良いものであることがすぐに分かるものだ。俺は扉のノブに手をかけ、体重を乗せて押し開いた。赤の絨毯をはじめに暗い赤をモチーフとした部屋の中央に、白の軍服を着た2人の下級の兵が、総指揮官である父から指示を受けていた。
丁度話が終わったようで、一礼をしたあとこちらに向き直った。俺に会釈をした彼らと目を合わすことなく、彼らをすり抜けて父のデスクの前へいく。立ったままの姿勢で父は、ずっと禁煙していて吸っていなかった煙草に火をつけて俺を一瞥していった。
「きたか」
父は煙草を口に持っていき、ひと呼吸おくと、煙を横の方へと吐き出す。
「しみるな。久々の煙草は」
「こんなときに、良いご身分だな。そんな余裕があるのか」
実際、長い間禁煙していた父は、親しい友人が帝国の人間に逆らって殺されたときの弔い宴のときだって、煙草はおろか酒すら飲まなかった。
「こんなときだから、だ。それより状況が気になるだろう。大まかに話そう」
父は煙草を片手に携えたまますらすらと話し始めた。
「まず、わかっていると思うが攻めてきたのは帝国で、宣戦布告などもない。はじめに攻められたのはアルゴの村とその近辺で、そこに駐在している兵からの通信からしても、敵の数はかなりのものだとわかっている」
父はそこで一度言葉を切ると、煙草を一服する。話される内容とは裏腹に、彼の声は淡々としており、やけに落ち着いていた。
「それで、今は偵察隊を出し、近隣の住民を避難させている。また隣町のヴィルドーに多数の兵と武具を送り込みそこで敵を抑え込む体制を取りながら、ここでも防衛の準備を整える。ヴィルドーはここの次にでかい町だ、それなりに時間は稼げるだろう」
そこまでいうと、やはり父は煙草を口に運び、煙を宙へと吐き出す。俺は、これまでの父の振る舞いと報告から、大方予想はついていたが、念の為思っていた疑問を訊くことにした。
「大体の状況は分かった。それで、奇襲隊がまだ出ていないようだが? 」
父は日に焼けて皺の目立つようになった顔の表情を動かすこともないまま質問に答える。
「あぁ。奇襲隊は防衛の為に使う。状況が状況だけに、兵の数は多い方がいいからな」
「それは、父上の判断か」
「そうだ」
俺は、敵の者がこの国の内部と繋がっており、そのパイプで奇襲隊を出す指示が出ない、あるいは奇襲隊が潰されていた、という可能性が消えたことに安堵した。だが奇襲隊は本来、緊急時の為の機動性を重視し、高い連携を取れるように特化して訓練されているので、その面で起用した方が圧倒的に効果的である。更に奇襲隊には増援や救助といった意味もある。そのことは父もわかっているはずだった。
その上で、俺はあえて父に、厳格で排他的でありながらも情に厚い父に、彼の心の内を抉るような質問を投げかけた。
「見捨てるのか。」
それまで平静を保っていた父の表情が僅かに歪んだのを俺は見逃さなかった。これまでの父の話を聞く限り、偵察や待ち伏せの防衛ばかりで前線に迎撃兵を出す指示は出ていない。ヴィルドーに送る兵ですらも時間稼ぎの為であり、敵は手薄の状態のこの国を、思うままに蹂躙しながら進軍してくる。父の話しからは、首都以外の者を護る意思が無いことは明らかだった。
だが、それでも父は質問には答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。自国が搾取される状態にあり、帝国にいいようにされながらも、親しい国の援助要請に答え、自分に余裕がない状態であろうと、他者を顧みる優しい彼が、今回の判断を何ら苦悩することなく下せることがないことはわかっていた。
父は、俺にとって最も尊敬すべき人間であったが、俺は、そんな優しすぎるが故に持った彼の甘い一面を、嫌いでもあった。
結局父は、やや濃い眉をしかめたまま黙り込んで、質問に答えることはなかった。
「指示を出そう」
目力のあるぎらぎらとした目が、俺を捉える。俺は先の質問について、詳しく追求することもなく指示を待った。元より、答えが聞きたいわけではなかった。
父は短くなった煙草を、近くに灰皿が無いので、デスクの何も物が置いていない部分を探して、そこにぐりぐりと押し当てて潰して言った。
「先に言っておくと、納得行かない指示かもしれない。だが、それでも黙って聞いてくれるか」
父は一息ついてから、力強く俺の目を見据える。
「お前は、仲間を連れて、ここから逃げろ」
予想外の内容に、俺は一瞬言葉が出なかった。
「どういうことだ。奇襲隊ですら防衛に回っている中で、俺に逃げろと? 」
「不服かもしれないが、受け入れてくれ。これは、重要な命令だ」
「ラピーニャの護衛ということか? 」
ラピーニャは、この国を治める王女殿下で、民や兵、すべてのものから慕われ愛されている。確かにその護衛とあらば、当然にやり遂げるべき命令だろう。
「ラピーニャ様は、既にお逃げになっている」
「なら、なぜだ?俺が邪魔だからか? 」
「違う」
父の声が少し荒らいだ。それからひと呼吸おいて、気持ちを静めた様子を見せてから、落としたトーンで話し始めた。
「この国は、もう終わる。いくらこの国が技術において帝国を圧倒しているとはいえ、敵の数が多すぎる。恐らく、いや確実に、全勢力をかけても、この国は負けるのだ」
父は伏せていた目線をあげ、俺の目をみる。
「お前はここから逃げて、生き延びろ。生きて生きて、そして、やり直すんだ」
俺が息子だからそれで逃がそうとしているのか、と思ったが、父の性格からそれはないだろうと、その考えを打ち消した。恐らく父のことだから何か訳があっての指示だろうと思いながらも、戦場に赴く兵がいる中で、自分だけ逃げるべきなのかということに少し迷い、考えていた。
「もし、嫌だといったらどうする」
父は質問には答えなかった。
「我々は、ここで滅びるわけにはいかない。お前は凛とジデルと共に逃げて、ラピーニャ様と合流しろ。」
わかってくれといわんばかりの強い視線が、俺に向けられていた。
「この国は、絶対に滅んではいけないんだ。お前は必ず生き延びて、死んでいった者の意思を継ぐんだ。頼む」
そういうと、父は深くお辞儀をした。俺は、自分がどうするべきか迷っていたが、今まで父が自分に頭を下げることなんてなかったことで意表を突かれ、命令に従う考えを固めた。それと、後にラピーニャと合流する、ということが俺の決意の手助けをした。
「わかった。凛とジデルには、もう指示は出しているのか」
顔をあげた父の表情は柔らかくなっているように見える。
「ああ、もう逃げる準備をしているはずだ。」
「あいつらは、黙って指示を受けたのか」
「少し戸惑っている様子だったが、二つ返事で受けいれた」
「そうか」
「なら、俺ももうそろそろ出よう」
父はそうだな、と言って2本目の煙草を吸おうとポケットに手をのばしかけて、やめた。
「電衝と、ライフルを忘れるなよ」
「わかっている」
返事をすると、俺は回れ右をして、赤い絨毯の上を鉄扉へと歩き始める。ドアノブに手をかけたところで、後ろから声がした。
「ジルキア」
振り返ると、父と目があった。いつになく穏やかな顔をしていた。
「元気でな」
父はそのまま俺の目を見据えている。一瞬何を言い返そうか、何と言うべきか迷った。この別れが何を意味するのかということを、俺は分かっていた。父もそうだろう。だが結局、「ああ」とだけ答えて、前を向き、ドアノブに手をかけると、力いっぱい引き寄せた。
そのまま外へ出て、後ろ手に扉を閉めた。
廊下の空気が冷たかった。