『冷たい熱帯魚』と『淋しい熱帯魚』と、どっちがより詩的なのだろう?
とあるエッセイ集を投稿していて、その中で誰も聞いてくれない中で、好き勝手にグダグダくっちゃべってた。最近、少しだけ考えている。どういう話の「エッセイ」なら、より読んで頂けるようになるのだろう?
で、短編で、ほぼ同じ内容の文章をこうして投稿させて頂いている。
あなたの好きなお話は何?
そんなことを、知りたくて。
どーだ?
勤勉家だろ?(勤勉家、なんて言葉、あったっけ?)
いままでの「まえがき」、「あらすじ」とかぶってます。
本文どころか、あらすじまでかぶるとは、なんという!
まぉ、そのあたりはあまり気になさらず、でわ、本文をお読みください、ね?
今日は、グダグダ話になるなぁ。おそらく。
とある事情で、『冷たい熱帯魚』と言う言葉を聞いた。
とある映画のタイトルらしい。
聞いた瞬間勘違いをして、ウィンク(という過去のアイドル)の『淋しい熱帯魚』(という歌謡曲)を即座に思い浮かべてしまって、ウインク主演のアイドル映画じゃないかと思ってしまった。うそ。
それはうそだとしても、その時ふと思ったのが、冷たい熱帯魚、と、淋しい熱帯魚、とのイメージの差。
歌詞をちゃんと覚えているわけではないので、これは少し想像になるが、「あなたは来ない。わたしの気持ちをジョークにしないで」と言うフレーズがあったのも覚えているので、1匹の熱帯魚を「あなたを待つ淋しい自分」にたとえた歌詞なのだと推測ができる。
翻って、冷たい熱帯魚、と言うのは字面は確かに、えっ?と思わせるようなイメージを与えるが、実際水の中を泳いでいる魚は冷たいものに決まっているのだから、「そこにあることをそのまま表現している」に過ぎない言葉なのである。
そこに私は、冷たい熱帯魚、と言う言葉がそこにそのままある事実を表している言葉だと言う事実に、詩的な衝撃を受ける。
さらに言うならば、その根本である、熱帯魚、と言う言葉を聞いたとき我々が思い描く画像は、そのもの魚が暖かいというイメージでは当然なく、極彩色の魚が温かい海の中で泳ぎ回っている姿ではないのか。しかし、まぁ、考えてみればわかることだが、水は冷たいものである。温かいものはお湯と言う。暖かい水などない。無論暖かい海水もない。ならば熱帯魚が泳ぐ海水は、冷たい海水である。ならば熱帯魚そのものも常に冷たいものである。
冷たい熱帯魚、という言葉とは、それをそのまま表しているに過ぎない言葉だ。
これによく似た言葉を人間の世界に当てはめるならば、女々しい男、というのがそれにあたるだろう。男なんて女々しいに決まっているものなのに、あえて対義語のような字ズラにはなってしまうという。
はは。
違うか?
お読みくださり、誠に有難うございます。
またお会いできる日を楽しみにしています。
でわ。