惚れられて
男の顔が近づいてくる。
鼻先10センチくらいのところで止まり、ジッと私のことを見据えた。
いつもは冷たい印象を受ける精悍な面長の顔も、今に限っては少し優しげに見える。
「アルシャ、君のことは最初に会った時から気になっていた」
男はボソリと、けれどしっかり聞こえる声で言った。
さっきまでのからかっているような素振りもどこかへ。唐突なカミングアウトに、体が硬直してしまう。
銃でもナイフでも、脅されたって竦まない足が、その時ばかりは言うことを聞いてくれない。
男の腕は書斎机に置かれていても、もう一方は完全にガラ空きだ。逃げたければ逃げて良いぞと、彼は示しているのだろう。
「あの時はまだ、子供も子供だったじゃんか……。何が気になったんだよ?」
昔出会った頃、男は淡々と業務をこなすだけの市任弁護士でしかなかった。
私の目には、そうとしか映っていなかったはずだ。
「なぜ、銃弾と死が飛び交う裏社会で、君のような少女が生き残っていたのか」
問い詰めるでもなく男は、その深淵のような黒い瞳を細める。
可愛げのないキャッツアイを覗き込んだところで、真実は話せない。しかし、口を閉ざそうと思えば思うほど、酷く罪深いことだと感じてしまう。
「アルシャが成長していくのを見続け、出会う度に膨れ上がって行った」
「何が……? 風船を欲しがるほど子供じゃないぜ」
男が真摯に気持ちを伝えようとするごとに、私は罪で自分を押しつぶしてしまう。
問い返さずとも、答えは決まっていたようなものなのに。
私はまるで、それを認めたくないかのように、精一杯おどけたフリして返事を引き延ばそうとする。
「君のことが好きだという気持ちが、だ」
耳朶を撫でた吐息に乗せて、愛の言葉が私に届いてしまった。
心がこそばゆく、耳を遠ざけようと顔を背けた。
私が今どんな顔をしているのかを考えて、さらに胸の動きが早まる。何かをされたわけでもないのに、呼気は強くなっていく。
「……」
無理に息を鎮めようとするから余計に辛く、部屋を包む静けさが逆に鼓動を助長させる。
ドキドキドキッ――。
ウルサイと、離せと、男を突き飛ばしてしまえればいいのに。
男の手が、私の頬に伸びてきた。
ためらいがちに少し指先が触れ、私がそれ以上身じろぎしないのを確認する。優しく顔を引いて、また見つめ合う形にしてくる。
「快活な顔も、ワガママに跳ねた茶髪も、俺は好きだ。ダメか、アルシャ?」
男の吐く甘い吐息は私を侵食する。
男の、男たる香りさえ嫌ではなくて、力いっぱい吸い込めたらどんなに楽だろうと思った。
頬に触れるペンダコのある硬い手さえ、とても安心感を与えてくれるのだ。
「私は……」
また流されてしまう。
男として人間として、私は彼のことを嫌ってはいない。だからこそ、打算で答えを出したくはない。
それでも、甘美な囁きに心が流されてしまう。
「アルシャ?」
不安そうな顔をしないでくれ!
「嫌いじゃ、ないさッ。でも、ここで答えを出しちゃったら、私は一生後悔することになる。ジョセフを、良からぬ企みのために利用したって、罪がつきまとう……」
饒舌に言葉を吐き出し、今度は答えを引き延ばす。
私にとって、この思わぬ告白は願ってもないチャンスだった。
そんな望んだ機会と、罪悪感とで秤は揺れ動く。
決して否定の言葉ではなかったことに、男は、ジョセフは小さく笑みを浮かべた。
ドキリ――。
珍しく見ない表情に、また胸が跳ねた。
「アルシャ、君は俺のことを誤解しすぎだな。君への気持ちは本物だが、それすらも俺の自分勝手でしかない」
ジョセフが己の本質を明かしてくる。
好きな女を手に入れるために、強権と力を振るうことも厭わないエゴイストなのだと。
だから、私を傷つけないよう制御している。
「私にも、そうしろって……?」
私がジョセフを傷つけないように、いつもの力が出ないのだろう。
酒か男かの違いだけで、酔えば力が弱まるなんて最低の体だ。
「どんなアルシャでも愛そう」
言って、顔を引き合わせる。
胸の高鳴りが、ドンドンッ、ドンドンッと痛いぐらいに盛り上がる。
唇が重なり合う瞬間、モジリと足をこすり合わせる。
なんてバカな私……!
「先生、次の方がお見えになられました」
「ッ!?」「あ、あぁ……」
扉の向こうから、助手の声が聞こえてきた。
体が飛び上がるのでは無いかというぐらいに、私は肩を跳ねさせる。
後コンマ数秒もあれば返事はできなかったことだろう。ジョセフも顔を上げて、苦い表情を取り繕う。
私は硬直から解かれ、慌てて駆け出した。
「お、お客さんッ?」
部屋を飛び出したところで助手とぶつかりかけたが、振り返る余裕などなかった。
「客人がコケた拍子に机がズレてね。直すのを手伝ってくれるか?」
「は、はい……」
ジョセフが誤魔化してくれる声だけが、少し後ろで聞こえていた。
どうしてこんなことになったのか、私はがむしゃらに街を駆け抜けながら思い返す。