終末戦争
─ーこの陳腐で平凡な日常には、一体の怪物が存在することをご存知だろうか。いや、存じていないわけがない。この国に住む住民であるならば、誰もがその存在の名を聞くだけで怯え、耳を塞ぐだろう。
その存在はまさに『天災』だった。
足を一歩踏み出せば、大地震を齎らし大地を破砕させた。一度吠えれば、おおやじを巻き起こし木々を悉く枯らした。比喩のように聞こえるが、全くもって嘘偽りのない真実である。まるで凩のように現れ、そして台風のように去って行く猛進の災害であった。奴はまさに禽獣草木の頂点……いや、万物の王と呼称しても過言ではないだろう。
そのような常軌を逸する規格外な“化け物”と、人類は太古から壮絶な戦いを繰り返してきた。その度に天を裂き、地を砕き、野を炭へと焼き払った。決して誇張した表現などでは無い。それだけ大規模な戦争だったのだ。勿論、その戦場で命を落す者も少なくは無かった。飛び火によって集落が消滅することも少なからずあった。親が殺された者。愛する息子を亡くした者。心を許す友人を失った者。怪物に犠牲になった被害者もまた大勢存在した。
そして幾度となく壮絶な戦場を潜り抜けた人類は、生き残った人間は嫌という程思い知らされた。現実はそう甘くはないという事を。何度も鼓舞して怪物に挑もうとも「人間」は所詮「人間」だった。極論してしまえば、戦争を挑むこと自体が無駄なのだ。どのような科学力を用しようにも「天災」には敵わないように。それにここは小説や漫画のように、必ずハッピーエンドへ向かうような出来レースではない。都合良くに異能力に目覚めたり、突然変異して怪物と渡り合えるなどというようなご都合主義は一切無い。怪物にとって人間など尩弱で、床に散らばる塵芥同然の存在なのだろう。それはどのような巧緻な策を弄そうとも、どれほど強力で破壊的な兵器を扱おうとも。無慈悲にもその印象が覆ることはなかった。
この事実から想像できる通り、人類は現在まで全戦全敗。ただ無残にも命を谷底に投げ捨てるだけだった。
怪物は実に白痴で放埓な生物である。まるで幼子が人形で遊ぶように兵士を突いて倒し、飽きたら乱雑に投げ捨てていく。いくら雲霞の如き兵を並べようとも、優秀な兵が徒党を組んで方陣を敷こうとも、怪物の目には丁寧に並べられた玩具の山にしか映らないだろう。どうやって遊んでやろうか、どうやって壊してやろうか。奴の腹の中はきっとそんな感情に違いない。感情があれば、だが。
それだけ戦争の回数を重ねながらも、人類が未だ凱歌を上げる事が出来ていない理由は二つあった。
一つは、怪物が『不可視』であること。光学迷彩を全身に纏い、カメレオンのように景色に溶けこむ。そのようなインビジブルな相手にどう戦えというのだろう。最早反則だろう。皆闇雲に銃を放ち、そして一方的に蹂躙されるのだ。銃弾が一発でも命中したかどうかすら怪しい所なのだ。しかし、それは過去までの話だ。散々苦しめてきた「不可視性」については、攻略する方法が遂に発見された。これは科学の日進月歩によって成された偉業だと称えても良いだろう。これで相手の姿を捉え、本当の戦いが出来る。そう思うだろう。しかし、それは敵わなかった。
それがもう一つの理由……これが奴という存在を崩せない完全で万全な鉄壁だった。人類が為す術なく、絶望面を貼り付けて立ち尽くすしかなくなった理由だった。その正体は「物理攻撃が全く通用しない」という手に負えない力だ。ミサイルやマシンガン。はたまた核爆弾。この世に存在するありとあらゆる兵器を何十発、何百発と打ち込もうが、言葉通り全く効果が無いのだ。その光景はまさに不可視の動く要塞であった。誰も勝てない。誰も逃れられない。その意識を刷り込ませるには十分すぎる程であった。
ーーその言わずと知れた、天上天下唯我独尊の存在の名は………『月曜日』だ。
◆
時は日曜日ーー午後11時頃。
“月曜日対策機関”
施設内は何時もに比べて慌ただしく、廊下を駆け回る職員の足音が何重にも重なって聞こえた。昨日までの寧日は霧のように消え去り、平和で安寧であった私の街も今ではけたたましいサイレンが終末を告げている。その警報音に被せるように、自動車のクラクションが絶えず響いている。街の人々は慌てふためき、我先にと押し合いながら安全地帯ーーどれだけ頑丈な地下シェルターもあってないような物なのだがーーへの避難を開始していた。このスクランブルな混迷状況の全ては、『月曜日』襲来の緊急避難警報が原因であった。夜の帳が降りたこの街は今、喧騒と恐慌によって月曜日に踊り狂わされていた。
「藤堂さん。もう、そろそろですね。」
施設内の幅広な廊下の途中にある喫煙所。その壁に不恰好に腰を下ろしていた私に声を掛けてきたのは、一人の若人だった。名は笠山健太というらしい。軍服で身を包み、長身で端正な顔立ちをした青少年だ。彼には爽やかという言葉がよく似合う。彼の瞳は常に希望を抱いているように光が灯っており、私の死んだ魚のような瞳とは対照的であった。きっと学生時代にはよく女子にちやほやとされていた事だろう。非常に妬ましい。
「あぁ。そうだな。」
私はズボンの衣嚢から煙草を取り出しながら、気怠げに返答をした。この施設に集められた兵士は皆、国軍が発行した『赤紙』によって召集された不運な者達だ。それまでは普通に職に就き、普通に家族と暮らし、普通に日常を送っていた事だろう。私もそうであった。しかしここに連れて来られることによって、普通とは無縁な生活を送らされる。まるで出荷を待つ家畜の気分だ。これでは「対策機関」と呼ぶより「収容所」と呼んだ方が適切なのではないか。政府が今行っている事は、遥か昔に勃発したと言われている世界大戦と何ら変わってはいない。嫌がる無辜な市民を朱に染めた一枚の紙切れで拘束し、頼りにならない武器を抱かせて黄泉に旅立つ特急列車に乗車させる。当然、片道切符と言う名の紙切れだ。死人の数はその頃に比べれば極めて少ないそうだが、決して死人が無しという訳ではない。残酷だが死の可能性は私を含め、この場にいる全員に平等にある。そう考えると憂鬱で仕方がない。ただでさえ、相手はあの世紀の大怪物。
『月曜日』なのだから。
◆
少し、ここで昔話をしようと思う。
『月曜日』の存在が初めて確認されたのは、紀元前1世紀のギリシャでのことだった。当初は矮小で尫弱。姿も肉眼で認識でき、特別危険視はされていなかった。ただ未知の存在として、当時の学者によって研究対象として引き取られたらしい。当時の記録は断片的にしか残されておらず、それが月曜日の生態の謎へと繋がっている。残っていたレポートには、月曜日の著しい成長性について綴られている。餌は変わらず林檎を八等分したものを与え続けた。しかし、突如として急成長したそうだ。理由としては、人類が発する負の感情や欲望を自らのエネルギー質として吸収していたそうだ。奴の本当の餌は林檎などではない。人間の感情を養分として呑み込んでいたのだ。そしてそれから数年後、遂に月曜日は檻から脱走した。その時期から怪物による被害報告は、年々徐々に件数が増えていった。最初こそ「畑を荒らす」だの「道に飛び出して危ない」だの、言ってはなんだがまだ可愛いと言える悪戯の範疇であった。
だが、悲劇は起こった。
誰も想定も想像もしていなかった、予想外の事態だろう。怪物はよりにもよって『人を殺めた』のだ。
被害者は仲睦まじい男女の二人組だった。樹木が生い茂った山道を歩いている時、木々の隙間を縫うように月曜日が勢いよく飛び出したそうだ。遺体の状態は酷く、まるでトラックにぶち当たったかのような損傷を受けていたそうだ。その事件の発表により、人類は震撼した。まさか、このような事態が起ころうとは夢にも思っていなかったのだろう。これが俗に言う「月曜日の悲劇」である。
それからの決断は実に迅速であった。人類は危険の芽を積むこと、つまり『月曜日』の排除の道を選択したのだ。それが『終末戦争』の始まりを告げる角笛が鳴らされた瞬間だった…しかし、それからズルズルと引きずるように時は流れ、気が付けば時は21世紀となっていた。
遂に人類は、楽観視できない状況にまで追い込まれてしまっていた。
止まる事を知らずに成長を続けた怪物は、どういった進化の過程なのか不可視となり、物理攻撃は通用しなくなっていた。日本では、『地震、雷、火事、親父』ーー本来は「親父」ではなく「おおやじ」なのだがーーという世の中で最も恐ろしいとされている物を並べた有名な諺が存在する。それが近年、その諺が改定され、『地震、雷、火事、月曜日』となってしまった。月曜日は親父以上に恐ろしい存在となってしまったのだ。恐らく現時点では、如何なる方法を用いても討伐は不可能とまでされている。魔法や超能力なんて便利な力がこの世に存在していたならば話は別だったのだが、当然そんな物は存在しない。それでも無様に足掻く人類に対し、最早手遅れだと諦めの声を上げる者も多かった。
実を言うと、私もその意見を主張する内の一人だ。
だが、幾ら必死に説いたとしても社畜人生を忌避したいと願う強情な者達は、その意見を決して認可しようとはしなかった。何より、国が月曜日の討伐報酬を「一切の労働を放棄して良い」と定めたことに原因がある。働きたくない自己中心的な人種がこの組織の上層部というだけあり、かなりタチが悪い。彼らの仕事は常に司令室に引き籠り、私達兵士に理不尽な指示を煽るだけだ。きっと司令室ではコタツにでも入って蜜柑を貪りながら、仲良くポーカーでもして遊んでいるのだろう。自ら戦場に赴く勇気を一握りの砂程度も持っていない癖に、口だけは一丁前に「我々は月曜日と戦わなければならない」と街に喧伝している。何も知らない市民からは英雄視されていようと、我々兵士からすれば、所詮は社会不適合者の譫言だ。
「月曜日が来れば、嫌でも我々は働かなければならない。だから仕留める。」
彼らの発言は、断固として働きたくないという揺るがぬ決意があるからこその発言だろう。何よりも力の入りようが違う。
だが、ここではっきりと明言させてもらう。私は汗水垂らして必死に働く事よりも、この死と隣り合わせの状況の方が余程過酷だと感じている。事実、月曜日は敵意を持たない者には決して攻撃はして来ないという研究記録もある。なので近頃は被害も兵士のみに止まっている。だからといって、放っておくのは良くないという意見もわからないではない。偶にではあるが、逃げ惑う市民に敵意があると勘違いされて襲われるケースも確かにある。だがそれ以外では被害はない。つまりは現時点では上層部の者達が只ならぬ嫌悪感を抱いている意外、戦う理由もないのだ。実に胸糞悪い。混乱の場に乗じて上層部の奴らを誤射で葬ってやりたいとすら考えた。
「僕はもう、出来ることなら戦いたくはないですね……。」
笠山は情けなく吐いた溜息につられて、弱々しい言葉を漏らした。私のような中年ならまだしも、彼はまだ若い。故に同情する。希望あふれる未来をこんな馬鹿げた戦で棒に振って欲しくはない。上層部にも私ほどの良心があるならば、泣いて謝った上で我々を解放ほしい。
「……私も、全く同意見だ。」
私はタバコの煙を苛立ちと共に吐き出した。煙はゆらりと立ち昇ると、最初から何も無かったかのように空気に溶けた。何時もは味わい深い筈のタバコも、今日はどうにも口に合わなかった。私は再び溜息をこぼし、首の力を抜いて俯いた。しばらくの間、無言が続く。何も言葉が出てこないのだ。この重苦しい空気が私の口に枷をしているのか。はたまた沈黙を命じているのか。まるで縫い合わされているかのように私の口は閉ざされていた。隣を見れば、笠山もまた良くないことがあったかのように項垂れていた。いや、今現在進行形で良くないことの真っ最中である。彼がこのような顔を人に見せるなど珍しい。彼もまた口を結ぶように閉じており、どこか言葉を探しているようでもあった。
その深い静寂を躊躇なく破り、高らかと響いた声は私達を更に鬱々たる感情にさせた。出来ればこの先、一生涯聞きたく無かった言葉だ。
「そろそろ戦場へ向かうぞ、気を引き締めろ野郎共。」
遂にこの時がきてしまったのか……と私は深くため息をつくと、吸いかけのタバコを灰皿に強く押し付ける。タバコはまだ少々燻っていたが、暫くして煙は立たなくなった。その光景を傍目で眺めていた私は、この様に消えるかもしれないと覚悟した。
◆
討伐兵の指導者を筆頭に、私達は隊列を編成して長い廊下を行進する。膝を直角まで上げ、足並みを揃えて進行するなど幼少期いや、実際には“連行される”という表現の方が正しいのかもしれない。何故なら、誰一人として自分の意思で行進をしていないからだ。誰が見ているわけでもないのに、このような立派なものを求められる。私たちは上層部のオモチャのように扱われているのだ。それから私たちは玄関ホールに辿り着くと、一時待機命令が出された。一列に縦横共に一寸の乱れなく整列をさせられ、休めの形を取らされる。座ることも水分補給も許されず、肩幅に足を広げてただ待たされた。それから数十分経った頃だろうか。私たちの列の前に、数人の兵を引き連れたスーツ姿のの男性が現れる。彼は連れの兵士に何かを告げると、大きな箱を台車に乗せて運んできた。彼らもまたいいように使われている内の一人なのだろう。同情するよ。
それから私達の元に、一人一機のライフルが支給された。いや、これはライフルと呼んでいいものだろうか。あまりにも最新すぎて、私のようなおじさんの理解を遥かに超える代物であった。しかし近年の流行はコンパクトタイプとされているのだが、今手に握っている物はかなりの大きさだ。立ててみると、私の腰ほどまで銃口は届く。弾薬は既に装填済みのようで、重量はかなりのものだ。購入した中くらいの家電を運ぶような重みが、常に私の手から全身にかけて重みが伝わっていた。その後に各前線部隊に配布された防刃チョッキを着用し、自分のサイズに合わせてベルトを締める。先にチョッキを着てからライフルを配布した方が良いのではないか、と思ったが死んでも口にはしなかった。彼らスーツの人間……上層部の人間に口答えした先の未来など想像すらしたくなかった。その上から私は自爆する目的でダイナマイトを体に巻きつけるような感情で、腰に予備の弾薬を巻きつけた。こういう兵器の類を身につけると、どうしても深く死を連想してしまうのだ。
『月曜日』という怪物は鋭利な鉤爪を持っているらしい。私が幼い頃に聞いた話ーー爺さんか、曾祖父さんだったか覚えてはいないがーーなのだが、その気になれば人間程度であれば容易に真っ二つに切り裂く事が出来る、という風説を聞いた事があった。当時の私は幼いながらに怖がっていた覚えがある。しかし、小さい頃の恐怖の対象など大人になれば薄れてゆく。しかし、もしそれが紛れもない事実であるならば、私は数十年越しにその噂に戦慄する事となるだろう。
各々の戦闘準備……もとい“死にに行く準備”が整うと、作戦決行の時刻までしばし待機を言い渡される。まるで「死ぬ前にやり残した事をしろ」もしくは「死ぬのだから、最期に好きな事をしておけ」と言わんばかりの時間を与えられたのだ。所謂、心の準備期間が今だ。この時間に軽く食事をとる者もいれば、イヤホンを耳にして涙を流す者。数人で気を紛らわすように談笑する者もいれば、家族宛てに遺書を書く者もいる。しかし独身の私には残してきた家族もいない。その上、気弱な私は飯を悠長に食える精神状態も持ち合わせていなかった。だから私は特に何もする事なく、静かにその場に佇んでいた。何もせず、何も考えず、ただ無心に下を向いていた。無機質な白い床が、とても目に優しかった。そして私の耳には、ホールの中央に設置された柱時計の秒針だけが聞こえる。周囲の雑踏とした雑音は耳に入らず、一定のリズムを刻んだ音だけが受け入れられる。普段ならば心地よい時計の残響も、今では憎らしく感じる。私は静かに目を瞑り、特に敬虔もしていない神に心の底から懇願した。どうかこのまま、時間が永遠に止まって欲しいとーーー。
◆
しかし時は私たちを突き放すように容赦なく刻み、現在午後11時50分。
遂にこの時が来たーーいや、来てしまった。作戦の決行時間だ。皆数秒前までを偲ぶようにしてライフルを持ち上げると、再び隊列を組んだ。そして玄関の重厚な鉄製の扉が解放されると、私たちは夜に放たれた。草木が微風に揺れるような静かな夜に、総勢二百という少数兵団の軍靴だけが虚しく響き渡る。大地そのものを踏みしめているような一糸乱れぬ足音は、何処か助けを求めて嘆いているようにも感じた。今宵は満月のようだ。私は雲ひとつない夜空に目線を移すと、心が揺れ動くような感情を抱いた。何故かこの星空ひとつで、私は幼少の頃から現在に至るまでを走馬灯のように思い返していた。生まれて初めて星座をなぞった夜のこと。夏祭りで母親と手を繋いで見上げた夜のこと。初恋の相手と手が触れ合いそうな距離で微笑みあった夜のこと。そして社会の荒波に揉まれて傷心した私を癒してくれた夜のこと。夜空は遠く離れた場所とも一つに繋がっていると言うが、時間の流れとも一つに繋がっているのだろう。それはきっと私の出鱈目ではない。ここにいる兵が皆感じている事だろう。心成しか、何処かで鼻をすするような音が聞こえたので間違いないだろう。
それから暫くして、私達は見晴らしのいい草原に両足を揃えた。周りは山々に囲まれ、高層の建造物はおろか小さな小屋さえも見当たらない。いつ、何処から奴が来ようとも、一切の被害を出す事なく対応することの出来る絶妙な立地なのだろう。その場で兵士は行進を止めて整列をすると、隊列の先頭にいた自称指導者がメガホンを通して声を張り上げた。
「皆の者よ、ここが正念場だ。ここが貴君らの墓場だ。そしてここが新たな夜明けの始まりの場所だ。『月曜日』と呼ばれる怪物が紡ぐ伝説に本日、紛れのない我々が終止符を打つのだ。我らが信仰する神的存在『日曜日』に貴君らの血を捧げよ。肉を捧げよ。命を捧げよ。今この瞬間、貴君らは世紀の大怪物『月曜日』を屠る英雄となるのだ。」
指導者の自己陶酔的で気合の入らぬ演説に、兵士達からはちらほらとやる気のない雄叫びが上がった。それが我々の冷ややかな感情の含まれた社交辞令とも知らず、指導者は満足げな顔を浮かべて踵を返す。そして彼は二度と我々の方へ振り返る事なく、対策機関の施設へと駆け足で帰って行った。やはり自分では戦う気のない口だけの腰抜けだと、私は軽蔑の目を彼に向けた。そのような視線さへ、彼は気付いていないのだろう。だが、あのような矮小な人間に苛立ちを感じる余裕など既に私達には無かった。
風が強く吹き付ける中、私たちは緊張の糸を切らすことなく只管『月曜日』の襲来を待ち構えた。何処から来る。いつに来る。空から、陸から、はたまた地下から姿を現すのではないか。流れ落ちる冷や汗をそのままに、私は気が狂いそうなまでに警戒を重ねていた。時刻は午前0時を周り、暗澹とした闇が更に深く夜を包み込む。私だけではない。皆も聞こえるほど呼吸も荒くなり、視界も徐々に白くなる。この形容し難い恐怖から、一刻も早く解放されたいと言うのが切なる願いだった。
もう『月曜日』が現れてもおかしくない時刻だ。風は既に止み、月が何処からか漂流してきた雲に顔を隠される。そして叢雲の隙間から、美しい月華が差し込む。それはまるで、私達の抱え込む不安要素に解決の兆しがある事を暗示しているかのようだった。その見る者の目を奪うような月光を浴びながら、私はふと一縷の希望を見始めた。もしかしたら、と思う。もしかしたら、もう『月曜日』は来ないのかもしれない。もしかしたら、きっとこのまま何事も無く朝が訪れるのではないか。是非そうであってほしい。
そんな淡い期待を抱き始めた時の事だった。
ついに、絶望が訪れた。
最初は、一人の兵が声をあげた。
「お、おい……何か、何か音が聞こえるぞ。」
その声音は非常に弱々しく、それでいて強く荒げるような声だった。それは恐怖と不安に引きつった声だ。そして、小さな希望を一瞬にして打ち砕く声であった。
「おいおい……冗談はよせよ……。」
「今なら怒りはしねぇ……嘘だと言ってくれよ、なぁ。」
兵士達は次々と焦りの色を見せ始める。混乱の渦は非常識的な速度で私たちを飲み込み、更に波紋を広げる。『月曜日』とは決して肉眼では視認できない不可視の怪物。つまり、彼らの目には何も見えていない。当然、私の目にも何も映らない。だからこそ、嘘であると……冗談であると信じたかった。聞き間違いであると、または空耳であると思い込みたかった。
だが、現実は非情である。現実という冷徹な刃は、その場にいる全員を夢から引きずり落とすべく喉元に当てられた。いや、もう掻き切られた後であった。塗り潰されたように黒い山の向こうから、不気味で奇怪な音が聞こえる。それは鐘の音には程遠く、まるで何かの爆破音に近かった。鈍く、そして深く地中にまで響き渡るような轟音だった。それは徐々に、私達の方へと近付いてくるのが聞こえる。
怪物の足音か、はたまた怪物が何かを破壊した音か。それはこの場にいる誰にも分からなかった。どちらにせよ、脅威がすぐそこまで迫ってきている。天災が山の向こうまで接近している。それだけで恐怖を奥底から掬い上げられるのには、十分すぎる材料であった。
耳と神経を最大限まで研ぎ澄ました次の瞬間、私は目を疑うような現象が起こった。私たちが警戒するように凝視していた山が、あろう事か崩れ去ったのだ。まるで砂場に作られた山を踏みつけるように、偉大なる大地が形成した山をいとも容易く蹴散らしたのだ。山が一つ消える。その超絶的な力量を目の当たりにした私たちは、その場に繋がれたように身動きが取れなくなっていた。そして私たちの戦意を一滴の残滓さえも残さぬように『月曜日』は吼えた。衝撃風と共に届いた耳を裂くような咆哮は、最早爆轟であった。
山野の鳥達は一斉に飛び立ち、動物達は麓に下った。山を踏み潰した主の声は、正に地獄からの使者……悪魔の化身と表現せざるを得なかった。堕落した人間に、裁きの鉄槌を下しに来たのだ。私は心の奥底からこみ上げる恐怖によって硬直していた。体どころか手足の指先まで動かない。背を撫でるようにして冷たい悪寒が走る。気持ちの悪い冷や汗が止まらない。戦場に立って私は初めて理解した。私の覚悟などはポイで掬い上げられるほどに浅はかなものであり、取るに足らないものであったのだと。そして、目の前にいるであろう山崩しの犯人は、正真正銘の化け物であるのだと。
◆
「くそっ、来ちまったもんは仕方ねぇ。今日こそあの怪物に獅子吼を説いてやる……。」
寄せ集めの中で選ばれた兵長は、舌打ち混じりの声を漏らした。そして檄を入れるように、声を吠えるように張り上げた。
「総員、迎撃体制。目標目の前『月曜日』‼︎」
その声に当てられた兵士達は、一斉に黒塗りの山に向けて支給されたライフルを構える。通常のライフルなら種類にもよるが、射程距離は800m〜2000m。到底怪物のいる山まで届くはずもない。しかし、私たちが所持する小銃はそれの比ではない。兵士に普及された兵器は、現代の最先端科学が可能とした超遠距離型小銃だ。その射程距離は驚きの3000km。トマホークミサイルのそれに匹敵する飛距離だ。それでいて銃弾を発射した衝撃は最小限に抑えられている。片手打ちは流石に不可能だろうが、腰を据え、両手で撃てば耐えられなくもない衝撃だ。一体どのような原理でそのような芸当を可能にしたのかは、私には理解できない分野であろう。
「撃てぇっ!」
一人の隊員の掛け声と共に、照準の合わせようのないライフルを山に向けて一斉掃射した。耳を劈く銃声が指し示す意図は、先制攻撃もとい宣戦布告だ。闘う意思が我々にあることを怪物にまじまじと見せ付けているのだ。私も勢いと流れに身を任せ、一心不乱に乱射した。火花がフラッシュを焚くように激しく散る。放たれた隙間のない銃弾の雨は、怪物に躱す暇も与えないだろう。それに、山よりも大きい図体は、まるで当ててくれと言わんばかりの自己主張の激しい的に過ぎないのだ。
どうやら不可視の怪物の身体に、数発の弾丸は命中したらしい。それを物語るのは、空中に揺らぐ小さなペンキの跡だ。 そう。この超遠距離型小銃に仕込まれたのは、闇夜でも目立つ蛍光塗料弾である。この特殊弾を射撃する事により、銃弾内部に仕込まれた蛍光塗料を含んだカプセルが怪物の体表面で破裂するという仕組みとなっている。勿論通常のライフル弾なので、威力はそれなりにある。しかし怪物に物理攻撃は通用しない。それでも姿を視認できるようになるという事は、この戦争で一方的不利な人間側にはとっては大きな前進と言える。
怪物に付着した蛍光塗料は月光を荒々しく反射し、薄く夜空に照り輝いていた。それから腰に巻きつけていた次弾を訓練された通りに装填し、再び総発射する。今回は怪物が何処にいるかが“見えている”ので、外しようがなかった。二百人の放つ弾丸の雨が、怪物へと降り注ぐ。その全てが命中した事により、遂に怪物はその姿を露わにした。如何やら弾丸が命中した部分は『月曜日』の「顔」の部分であったらしく、垂れたインクが立体的に奴の素顔を描き始める。
しかしそれは「吉」と出ず「大凶」と出てしまった。
怪物は、我々一点を睨んでいた。
撃たれた事に対する憤懣の双眸が、私を含む兵士達に向けられていた。その睥睨は、人間と自身の存在の格の違いを物語っていた。怪物は恐らく、私たちにこう訴えていることだろう。
『人間風情が粋がるな。』と。
その鋭い眼光は幾人の兵士を、恐怖の奈落へと叩き落した。二度と這い上がることはできない蟻地獄に沈んだ彼らは、力なくその場に座り込んだ。そして、何故その場に腰を抜かしたのかさえ理解できていないのだ。「蛇に睨まれた蛙」とは、今の彼らの事を言い表す最適な言葉だろう。私を含む数十名は、何とか恐怖に呑まれることなく正気を保っていた。いや、恐怖には既に呑み込まれている。正確にはそれでもなお立っていられる、ということだ。これは恐らく天文学的な確率の奇跡に近いだろう。
残った射撃兵が、私達前衛兵がリロードを済ます間を縫うようにスコープを覗き込んだ。そして、一斉に砲弾を蛍光の標べに向けて発射した。物理攻撃は効果を成さないというのはどうやら事実らしく、砲弾は怪物に命中すると同時に、何か透明の壁に阻まれたようにその場に停止する。運動力を失った銃弾は、そのまま地面へと捨てられるように落下してしいった。怪物へ弾丸を叩き込むには、あの障壁のような透明な壁をどうにかする必要があるだろう。あのバリアのような物さえなければ、まだ私たち人類にも勝利の可能性が残されているのかも知れない。怪物は私たちを嘲笑うかのように、気味の悪い嗤笑を浮かべた。その刹那。怪物は私たち全員の心臓を握り潰すかのような夥しい殺気を放ち、その姿を消した。正確には、我々の前に亜音速をも凌駕する速度で移動して来たのだ。その巨体で、だ。移動に伴う爆風は、我々の認識が追いつくと共に吹き付けた。
暴風に身を持ち上げられ、私は瞬時に直感した。
ここが本当に私の墓場になるのだと。
そう観取している間に、最前列の兵の首はあっさりと飛ばされた。蜘蛛の巣を振りほどく様な軽い動作でだ。余りにも彼らの命の終わりは呆気なさすぎた。西洋の噴水の様に噴き上がった鮮血は、怪物の胴体をみるみる赤く染めた。
それどころか、私は惨状を直視してしまった。
先ほどの怪物の移動により、何人もの兵士が踏み潰されたようにして潰れているのが見えた。それは最早人の形をしてはいなかった。飲み終えた缶を上から踏み潰したように、見るも無残な姿へと変えられていたのだ。地面には赤々とした池が出来上がっており、怪物がその場で踊るたびに飛沫が奴の体を染めていく。怪物の醜い姿をら更に鮮明なものとさせていた。
その姿を形容するならば、クトゥルフ神話に登場する怠惰な邪神『ツァトグア』のようであった。山をも見下ろす巨躯に、風船のように膨れた腹部と蟾蜍のような頭部。獣に似た容姿をしているが、それとはまた懸け離れた禍々しい存在に思える。
生まれてこの方「常識」という鎖に束縛され続けてきた私は、その常軌を逸した怪物を目にした瞬間。
その鎖の錠前が粉々に壊れてしまった感覚を覚えた。
面白くもないのに徐々に口角が吊りあがり、乾いた笑いが無意識に口から漏れる。ゆっくり、ゆっくりと精神の歯車が狂い始める。気付けば、私から歪んだ無機質な笑い声が吐き出されていた。それを私自身、止めることが出来ないでいた。
ーータノシイ。
自制心が粉々に砕かれた私は何も考えず、我武者羅にライフルを辺りに乱射した。高笑いを上げながら、目を虚ろにながら私は引き金を弾き続けた。自分でも、何をしているのかは理解ができない。壊れてしまった私はまるで自分の体ではないようで、制御が不可能となってしまっていた。その正気の沙汰ではない行動に、周りの兵士たちは慌てふためいていた。
ーーミンナシネバイイ。
数発、不幸にも仲間に着弾してしまった気がするが、最早私にとっては如何でもいいことだった。特に罪悪感を抱く事もなく、人を初めて殺した事に対する光悦も感じない。ただ壊れた機械のように感情を持たず、抑揚のない笑い声を上げながらトリガーに指をかける。そして作業のように指に力を入れ続けた。今度は、明確に仲間の頭を撃ち抜いた。しかし、やはり何も感じなかった。どうしようもなくなった私に、もう仲間の死を悼む気持ちなど何処にもないのだ。
ーーウチマクレ。
どうせ死ぬのならば遅かれ早かれだ。生ある者はいつか平等に死ぬときが訪れる。それが今だった、というだけの事だ。気にやむ事はない。それに此処にいる者は全て逃れようもなく『月曜日』に殺されるのだ。私に殺されるのと、『月曜日』に殺されるのでは特に差異はない。最終的に、命を落とすのは決定事項なのだから。
ーーアキラメロ、ドウセシヌンダ。
気がつけば周りにいた兵士は皆、私に銃口を向けていた。皆私に、敵意を抱いた表情を浮かべていた。だが私は何も思わなかった。私は死ぬ。どう足掻いても私は此処で死ぬのだ。ならばその過程は気にすることではない。怪物に殺されようが、仲間に殺されようが何方でもいい。大して変わらない小さな差異だった。
ーーサヨナラ、ゴメンネ。
◆
――それからの事はまるで分からない。ただ一つ覚えているのは、あの爽やかな雰囲気の青少年……笠山が涙を流しながら、私に引き金を引いたという事だった。それが、私が見た最期の情景だった。
煩く鳴り響いていた銃声が、消えゆく意識の中やたら鮮明に聞こえた。その瞬間、視界が脳信号から切断され、ブラックアウトする。幸いなことに、痛みなどは何一つとして感じなかった。神経系がすでに狂っていたのか、はたまた即死だったのか。それはもう、私が知る範疇ではない。
恐らくこの先『月曜日』に敵う者は誰一人として現れないだろう。私が思うに、奴が出現した時点で人類は既に敗北していたのだ。人類が如何なる手段を用いても時を止める事が出来ないように、『月曜日』の襲来も決して止めることはできない。
『月曜日』は必ず我々の元に訪れるものであり、必ず誰かを底無しの穴に否応なく引きずり込むものなのだろう。私達人類は、『月曜日』の所持する鳥籠に囚われてしまった、羽を捥がれた鳥に過ぎない。足掻く事も抵抗する事も許されず、檻から逃げ出すことさえ許しては貰えない。ただ一つ許されることがあるとすれば、それは『日曜日』に慈悲や救いを請う事だけである。しかしそれも一時的な精神の癒しであり、その僅かな希望も『月曜日』が余すことなく全てを奪い去る。そんな理不尽な世界に生まれてしまった自分を怨む事でしか、私は私を保つ事が出来なかったのだ。
長々とこれ以上語っても無駄だろう。
最終的に言いたかった結論は、『月曜日』の襲来を受け入れろという事だ。争おうなどと間違っても思ってはいけない。従順に受け入れ、そして適切に対応していかなければならないのだ。それこそが人間という生物の秩序であり、従うべきルールでもある。『月曜日』という名の怪物は、人間が生み出してしまった哀れな感情の成れの果てなのだから……。
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「なんて話は如何でしょうか?」
私こと売れない小説家、藤堂は覗き込むように机を挟んで座る担当の顔色を伺った。不安で喉が渇くので、机の上に置かれたカップの取っ手に指を絡め、注がれたコーヒーを口に流し込む。私の担当である笠山という若い男性は、私の持ち込んだ小説を神妙な顔付きで眺めていた。
暫くすると、彼は私が持ち込んだ紙の束を机に丁寧に纏めて置いた。洒落たカップに入ったブラックのコーヒーをゆっくりと飲み干すと、彼はふぅ、と一息ついた。私は不安げな表情を態とらしく顔に出しながら、彼の下す結果を待った。落ち着かない様子で顎から生える無精髭を撫でながら、私は彼の目を見つめ続ける。そして笠山は結論を出したのか、真っ直ぐ私の目を見つめた。そして彼は一言。
「没ですね。」
爽やかな営業スマイルを崩さずに、無慈悲に言い放った。
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ここまで読んでくれた人は何人いるのかは分かりませんが、自己紹介します。
初めまして。初投稿となります。
ほんわか八咫烏です。
特に語彙に自信があるわけでもなく、文章に自信があるわけでもないのに、何を血迷ったのか「物語が書きたい」と思い立ち、設定を五分で考えた適当感極まる短編を投稿しました。
一応、『終末』と『週末』をかけた駄洒落から展開されたストーリーです。
友人に試し読みしてもらった時、「説明がグダグダと長い。いいから早く戦え。」という指摘を頂いたので、次回があるかは分かりませんが、もし投稿する時には気をつけたいと思います。
それでは。有難うございました。