8.夫がいないので実家に一時帰宅
「んじゃあ、帰ろうか、りっちゃん」
「パパはぁ?」
「パパはここでお泊りだよ。また明日来ればいいんだよ」
「わかった~」
梨沙を抱き上げ、悠李は碧に言った。
「それじゃ、なんかあったら私に連絡ちょうだい。りっちゃん。パパにバイバイは?」
「バイバーイ」
ここで手を振りかえしてくれるあたり、碧はかなり丸くなった。親になるってすごい。早苗もくすくすと笑っている。
病院を出てまず向かったのは魔法省だ。もともと悠李は魔法省職員であり、出向で病院に行っているので総合受付をスルーし、省の職員証で中に入った。
とはいえ、悠李がいたのは魔法研究課であり、碧がいるのは魔法法執行課だ。
途中で知り合いに捕まりそうになりながら碧の荷物を回収。その後、一度マンションに向かった。
「久しぶりに来たけど、片付いてるわね」
「ものがありませんからね」
「ただいまー」
家に帰ってきたので、梨沙が走ってリビングに向かった。
「りっちゃん。走らない。危ないでしょ」
そう言いながら悠李は梨沙を追いかける。リビングの明かりをつけ、とりあえず碧の保険証を探した。
「ママ。おばあちゃんもここにとまるの?」
「泊まらないよ。お母さんとりっちゃんも、これから香坂のばーちゃんの所に行くんだよ」
「ちえりさん、ちえりさん!」
何故か梨沙は母方の祖母を『智恵李さん』と呼ぶ。本人が気にしていないので、指摘しないことにしているけど。
保険証を発見し、それを自分の財布に入れる。それから簡単に荷物をまとめる。
「早苗さん、送って行きましょうか」
そう問いかけると、早苗は笑った。
「あら、大丈夫よ。心配してくれるのはありがたいけど、方向逆でしょ。それに、私も魔術師なの。知ってた?」
からかうようにそんなことを言うおちゃめな女性だ。悠李は「そうですね」と笑う。魔法傾向は遺伝することが多いのだが、碧の透視魔法系はすべて早苗からの遺伝である。
そんなわけで駅で早苗とは別れ、悠李は梨沙を連れて実家に戻る。実家からだと、魔法医科大学病院まで遠いのだが、そこは目をつぶる。悠李が早く起きればいいだけの話だ。……おきられるかな。
悠李の実家、香坂家は国立ミネルヴァ魔法大学と呼ばれる魔法大学の近くにある。国立と言っているが、彼の学校は国際的に展開する魔法学校である。今のところ、日本ではこの魔法学校が一番レベルが高いと言われている。中等部から大学まで存在し、悠李や碧はこの系列の学校の出身だ。
香坂家はどちらかと言うと洋館のたたずまいであるが、魔法道場が付属している。なので、敷地はかなり広い。
「ただいまー」
「ちえりさーん!」
悠李と梨沙が声を上げる。出てきたのは使用人の男性だった。そう。この家には使用人がいる。
「おや。お嬢様、梨沙様。お早いおつきですね」
「早退してきたから。若狭、母さんは?」
「奥様なら地下の研究室にこもっていますが」
「……そう」
母ならさもありなん、と思って悠李はうなずいた。使用人の若狭に荷物を預けて廊下を進むと、向かい側から一人の女性がやってきた。悠李よりいくらか年上に見える。三十歳前後ほどの女性だ。彼女は笑って手を振る。
「茉莉さん。久しぶり」
「まりさーん!」
梨沙が喜んで女性にまとわりついた。本当に人懐っこい。我が子ながら、誘拐されないか本当に心配!
女性は茉莉と言い、悠李の兄嫁にあたる。ついでに悠李の大学時代の恩師の妹にもあたるのだが、そこは省く。
茉莉がにこにこと梨沙の頭をなでる。微笑んだまま悠李を見上げ、右手の人差し指を使って宙に字を書く。すると、そこに金色の文字が現れた。
『お久しぶり。元気そうでよかったわ』
「ええ。何とか」
悠李が眼を細めた。
茉莉はしゃべらない。しゃべれないのではなく、しゃべらない。別に精神的疾患があるとか、そう言うことではなく、単純にしゃべらないのだ。
茉莉の声は、魔法なのである。
呪文、と言うものがある。現在の魔術師は、たいてい呪文を魔法式に置き換えて使用しているから、呪文を詠唱する魔術師は少ない。少ないが、効果が亡くなっているわけではない。
茉莉の言葉は、強い呪文となるのだ。ただでさえ、言葉は言霊、声になすとその言葉には力がこもる、と言われているこの国だ。茉莉の強い言葉はむやみに発することはできない。コントロールできない以上、しゃべらない方がいいと茉莉は判断したようだ。そのため、彼女とのコミュニケーションは筆談か、もしくは簡単な手話が多い。
茉莉の力も精神感応能力に近い。しかも、悠李と同じく現実世界に干渉できるほどの力がある。それでも、茉莉の力は悠李のものよりも弱いらしい。
魔法の強弱はともかく、定期的に来ているが、近いためにいつも日帰り。お泊りは久しぶりである。
「茉莉さん。朔良ちゃんと弘樹くんは元気?」
茉莉が深くうなずいた。朔良も弘樹も茉莉と悠李の兄の子だ。悠李にとっては姪と甥に当たり、梨沙にとってはいとこだ。とくに、朔良とは一切違いなので仲良くしてもらっている。弘樹は生まれたばかりだ。
「りっちゃーん!」
「さくちゃん!」
長い廊下をとてとてと走り、件の朔良と合流した梨沙。ちなみに、朔良は母親似である。顔立ちがかわいらしい。梨沙の方が年下のなのだが、梨沙の方がきりっとした顔立ちをしている。まあ、碧に似たからな……。
『梨沙ちゃんは私が見てるから、荷物を置いてきてもいいよ』
宙に文字を書き、茉莉はニコリと笑った。悠李は「ありがとう」と礼を言ってお言葉に甘えることにした。悠李が独身時代に使っていた部屋は、そのまま悠李たちがお泊りするときに使う部屋になっている。そこに荷物を置き、悠李は道場に向かった。
「あれ。母さん、いるじゃないか」
「ん?」
道場で足を組んで座っていた女性が顔を上げる。母の智恵李だ。悠李は完全に母親似であり、悠李を老けさせたらこんな感じになるだろう、という顔をしているのが智恵李だ。魔術師は全体的に老化が遅い傾向にあるが、五十代半ばになるはずの母は、未だにせいぜい三十代後半くらいにしか見えないのだから恐ろしい。まじまじと娘の顔を見てから智恵李は言う。
「ああ、悠李か。おかえり」
「あ、成原先生」
そう声をあげたのは、智恵李と向かい合わせに足を組んで座っていた少女だ。少女と言うか、女性と言うか……。悠李の患者として時々来ている、式部香音だった。
「式部さん、来てたんだ」
「はい。というか、成原先生、まだ診療時間では?」
香音が鋭い指摘をしてきた。その通りである。悠李は軽く笑った。
「旦那が入院しちゃってね。娘がぐずるから早退してきたんだ」
「え、ここに住んでるんですか?」
こてん、と香音は首をかしげる。そう言えば、彼女は最近、香坂魔法道場に通っていると言っていた。
「いや。住んでるのはマンションだけど、旦那もいないのに帰るのも嫌だったから、実家に帰ってきたんだ」
香音は「そうなんですか」と言って微笑む。
「成原先生、可愛い」
「……」
悠李は反応に困り、微笑んだまま停止した。どちらかと言うと、外見も性格もハンサム系である悠李は、可愛いと言われたことがあまりないのだ。
「いい子だね、式部さん。にしても、あなたはまだ魔法が不安定なようね。それとも、碧が大けがを負ったからかしら」
こちらに顔もむけずに智恵李が言った。無表情であるが、これが彼女のデフォルトである。気にしたら負けだ。
「まあ、それもあるけど。しばらくいるからよろしくね。というか、母さんは何してるんだ」
「式部さんの魔法傾向を調べている」
しれっと言う智恵李に、香音が苦笑した。智恵李が立ち上がる。
「悠李。こういうのは、あなたの方が得意でしょう」
「えー。茉莉さんにりっちゃんを預けてるんだけど」
「茉莉なら大丈夫よ。しっかりしてるもの。あなたと違って」
「悪かったね、不出来な娘で」
そう言いながら悠李は香音の向かい側に座った。悠李は香音に向かって手を差し出した。
「手を」
「あ、はい」
香音がそっと悠李の手に手を乗せる。わかっている限りでは、悠李と香音の魔法傾向は同じだ。香音もおそらく、精神感応魔法の使い手になるだろう。母の智恵李は強力な放出魔法を主として使う人物であるので、香音の力を引き出すには向かなかったのかもしれない。
悠李は自分の魔力を流し込むように精神感応魔法を発動した。
「痛っ」
香音が眼を閉じて小さくつぶやき、悠李から手を放した。
「なんだったんですか、今の……」
びりっと静電気のようなものを感じるのが特徴だ。いわゆる『開眼』と言うやつである。通常、魔術師になれるような魔力を持つ人間は小さいころから訓練を受けるためにこのようなことはしない。だが、ある程度成長してから魔術師としての訓練を受ける場合、その力が眠ってしまっている場合がある。その時は無理やり起こさなければならない。力を呼び起こすには、同じタイプの魔法を持つ魔術師に魔力を流してもらうのが一番良い。
「うむ。やはり式部さんは精神感応系魔術師ね」
「見ただけでわかる母さんもおかしいよね」
悠李の背後から声をかけてきた智恵李に、悠李は再びツッコむ。
「……それ、何度か言われましたけど、実際にあまり自覚がないのですが……」
香音が首をかしげた。それはそうだろう。今『開眼』を行うまでは、はっきりとした魔法が使えなかったはずなのだ。
『式部さん』
悠李は強い力を籠めて香音を呼んだ。何度か呼ぶと、香音が頭に手を当てる。
「あの……なんだか、呼ばれている気が」
香音が首をかしげた。悠李は微笑む。
「私が呼んだからね。私の精神感応魔法の送信力は強いから、あまり参考にならないと思うけど、たぶん、テレパシー系の能力はあると思うよ」
「……それって、心が読めるってことですか?」
香音が尋ねた。確かに、心を読めるテレパシー能力者は嫌われる傾向にある。気にするのも当たり前だ。
「テレパシーと言ってもいろいろある。読心術、と呼ばれる力を持つ者もいる死、単純に電話などのように考えを交換し合うだけのテレパシーもある」
智恵李が補足を入れた。こういう説明は、彼女の方が向いているだろう。
「すみません、奥様。お嬢様。梨沙様が泣き止まないのですが……」
若狭がやってきて悠李に言った。彼女は「あらら」と立ち上がる。
「それじゃあ、私は失礼するよ。式部さん、頑張ってね」
「は、はい」
香音がうなずいたのに微笑み、悠李は母屋の方に戻った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
現在私が住んでいる地域は雪がすごいです。暖冬じゃなかったんでしょうか。