16.行方不明事件勃発
その日、悠李は朝から体調不良だった。夫からは休め、と言われたが、風邪を引いているわけでもないので出勤してきたはた迷惑な人間である。
「成原さん、熱ありますよ。診察受けて来たら?」
津田医師が悠李にそう勧めた。夫も「出勤するなら診察受けてこい」と言っていたが、それほどでもないと思う。熱と言っても微熱だ。
「悠李さん、何気に体弱いですよね」
章平が苦笑して言った。彼は続ける。
「まあ、ここ病院ですもんね。何かあっても、すぐ治療できますし」
軽く言った。今までも、勤務中に怪我をしたり病気になったりした病院職員はいるが、たいてい院内で診察を受けている。これが病院勤めの利点である。
少し休めば大丈夫かと思ったが、一向に回復しない。机に突っ伏してダウンしていた悠李は、不意に顔をあげた。
「産婦人科に行ってくる」
「その心は?」
「心当たりがあるからだよ……」
章平の問いに悠李はそう答えた。むしろ、旦那がいるのに心当たりがない方がおかしい。結婚したときだって、いわゆるできちゃった結婚だったのだ。悠李は、一度碧を締めても許されるのではないだろうか。いや、合意の上だから無理か……。
「成原先生。受付しておきましたよー」
東野が気を利かせてそう言った。
産婦人科に行って、妊娠していなければただの風邪だ。そう思って行ったのだが。
「どうでした?」
「二ヶ月だった……」
「あら、おめでとう」
津田医師が笑顔で言った。悠李はすとん、と自分の席に座る。悪阻だと思ったら今度は気持ち悪くなってきた。
「成原さん、大丈夫? 帰った方がいいんじゃない?」
早瀬医師が心配そうに言った。それに対し、章平が答える。
「っていうか、一人で帰れます?」
「途中でぶっ倒れそうよね」
と津田医師も結構ひどいことを言ってくれた。いや、でも、確かに家に無事に帰れるかわからない。前回、つまり、梨沙を身ごもった時も悠李は悪阻がひどかった。魔法循環器内科が専門だと言う母にも「お前、稀なほど悪阻がひどいね」と言われた。
「……いい。旦那に迎えに来てもらう……」
「その方がいいと思いますよ」
章平が苦笑してうなずいた。津田医師が「成原さんの旦那さん、優しいわよね」とうらやましそうに言った。現在、津田医師は彼氏と喧嘩中らしい。
とはいえ、碧も現在仕事中だ。悠李は仮眠室で休んでいることにした。事務室にいたら、「邪魔」と章平に笑いながら言われたのである。ひどい。事実だけど。
途中で敬が「点滴するかー」などと言って様子を見に来たが、それ以外はほぼ寝ていた。はずだった。
「あら、目が覚めた?」
気が付いたら、違う場所にいた。まあ、お約束であるが。
△
昼休憩が終わって職場に戻ってくると、魔法医科大から電話が入っていると言われた。妻の悠李は魔法医科大学病院に勤務しているが、彼女なら携帯端末に連絡を入れるはずだ。というか、端末の電源を切っていたのを忘れていた。
とりあえず、外線で回ってきたので出る。
「成原です」
短く言うと、電話の向こうから『成原か!?』と聞き覚えのある声がした。
「瀬那か。どうした?」
すると、中学高校の同級生である敬は驚きの言葉を発してくれた。
『香坂がいなくなった!?』
「……は?」
敬はいまだに悠李を旧姓で呼んでいる。旧姓香坂である悠李だ。つまり、彼が言う『香坂』は悠李のことで。
「どっかに買い物にでも行ったんじゃないか?」
朝には弱いが、ちゃんと母親をしている悠李だ。ちゃんと買い物にも行く。だが、敬は『それはねぇだろ』と言う。
『あいつ、悪阻でうなってたからな』
「……何が悲しくてお前から妻の妊娠報告を受けなければならないんだ」
碧は思わず言ってしまったが、言いたくもなる。一人目の子である梨沙を悠李が身ごもった時は、彼女の兄である真幸に締め上げられた。まあ、それはともかく。
「じゃあ、どこ行ったんだ、あいつ」
『分かれねえから旦那のお前に聞いてんだろうが!』
敬からツッコミが入った。それはそうか。
いや、悠李が行方不明になっても正直、ケロッとして出てきそうな気はする。誘拐されても自力で逃げてくるような女だ。彼女は。だが、彼女は時折、とてももろい。押しに弱く、情に弱い。
しかも、本当に今妊娠しているのだとしたら、まずいかもしれない。梨沙を身ごもっていた時、悠李の悪阻はひどかったのだ。いや、たぶん、大量につけられたFCUのせいでもあると思うが。
「わかった。今からそちらに行く」
『早めにな!』
敬のその言葉で、ぶつっと電話が切られた。碧は上着を持って立ち上がる。
「成原さん、どうしたんですか?」
同僚の二木が碧を見上げて尋ねた。碧は素っ気なく言う。
「妻が行方不明になった。ちょっと行ってくる」
「ええっ!? 悠李さんが!?」
二木の大きな声に、仕事をしていた他の同僚たちも顔を上げる。
「お前、まずいんじゃね? お前の奥さん、ドクター・ユーリだろ。超S級精神感応魔術師なんだから、行方不明になったら最悪、抹殺命令が出るぞ」
「そうなる前に探しに行くんだ。たぶん、あいつが呼べば俺に聞こえるからな」
「それ、のろけ?」
「ただの魔法傾向の話だ」
受信能力は低いが、送信能力は無駄に高い悠李である。対する碧は、方向性は少々違うものの、知覚魔法の能力が高い。そのため、悠李が『呼べ』ば『聞こえる』はずなのだ。
とりあえず課長に事情を説明し、電話をくれた敬のいる魔法医科大学病院に向かった。もともと悠李は魔法省の魔法研究所で働いていたので、事の重大さは課長にも理解できたらしい。何しろ、悠李が強力な洗脳魔法を使って悪事に走れば、誰にも止められないのだ。まあ、あの女にそんな度胸があるとは思えないのだが。
「成原! 遅いぞ! 嫁の危機なのに!」
「なんでお前の方が取り乱してるんだよ」
裏口から迎えてくれた敬に碧はツッコミを入れた。いや、昔からおかん扱いを受けるほど面倒見の良い男ではあったが、どうして夫である碧よりも取り乱してるんだ。
「むしろ俺は、お前が取り乱してるところを見たことがないけどな!」
ツッコミを返されてしまった。そこまで冷静であるつもりはないのだが、確かに悠李にも「冷血漢か!」と言われたことがある。
それはともかく、その悠李だ。
「いついなくなったんだ?」
「わかりません。出勤してきたときから体調が悪いようで、診察を受けたら妊娠されているとわかって……」
「すまん、章平。簡潔に頼む」
敬と共に待っていた章平が混乱した様子で話してくるが、碧はバッサリと切った。こういうところが敬や悠李に冷静だと言われるゆえんであるのだが、本人は気づいていない。
「それで、仮眠室で休んでいたんですけど……あ、碧さんに迎えに来てもらうって言って、メールを送っていたはずですが」
「なんだと」
碧は顔をしかめて携帯端末を見た。確かに悠李から『帰りに迎えに来てくれ』というメールが素っ気ない文章で送られていた。誤字もあるため、相当体調が悪かったのだろう。
「昼ごろ、俺が様子を見に行ったときは具合は悪そうだったが、起きてたな。桃ゼリー食ってたぞ」
敬が思い出しながら言った。どうやら、悠李の悪阻も梨沙の時ほどひどくはないようで、碧はこっそり安心する。梨沙の時は、彼女は本当に何も食べられなかったのだ。
「と言うことは、昼ごろまではいたのか」
と、碧は時間を確認する。現在午後の二時過ぎだ。連絡が来てから三十分ほどだから、悠李がいなくなったとわかったのが一時半ごろ。敬が十二時過ぎに悠李を目撃しているので、その一時間半ほどの間に悠李は行方をくらましたことになる。
「なら、そう遠くには行っていない。むしろ、この病院内にいる可能性が高いな」
三人がやってきたのは使われていない会議室だった。敬がさくっと結界を張り、覗き見盗聴を防止する。
「碧さん、悠李さんを見つけられないんですか?」
章平が尋ねた。彼は、碧が強力な透視能力を持つと知っているのだ。碧もこっそり何度か使用してみたのだが。
「手当たり次第に探しても見つからん。病院内に限定してもいいが、この病院は魔法治療に影響が出ないように、FCUが置かれているだろ」
この場合のFCUとは、碧や敬、章平たち魔術師が身につけているアクセサリー型の魔力相殺装置ではなく、据え置き型の威力の大きいFCUである。魔法治療に影響を与えないように、他の魔法が使いにくくなっているのだ。
「病院内にいるとしても、見つけるのは難しいっつーことか……」
敬が悩ましげに顔をしかめた。しかし、指摘した側の碧はさらりという。
「いや。だが、あれが呼べば聞こえるだろ」
「……いや、お前らのきずなの強さは知ってるけど」
敬が少し考えてからそう返事をした。そう言う意味ではなく、悠李の精神感応能力はFCUごときではおさえきれないと言うことだ。そして、敬ではないが、最も絆が強いと思われる碧になら、彼女が呼べばその声は聞こえるだろう。
彼女がどこにいるのだとしても、居場所がわかるまでは動けない。碧はどちらにしろ、呼ばれるのを待つしかない。
その時、突然会議室のドアが開いた。立っていたのは二人の女性。年かさの女性が、眼鏡のブリッジを押し上げて言った。
「困っているようね」
碧の義理の母、ドクター香坂が仁王立ちしていた。こういうところが悠李と似ていると思う。あとから入ってきた女性はにっこり微笑み、そっとドアを閉めた。
「うちの娘が迷惑をかけて申し訳ないわ。対策を連れてきたから」
対策こと、碧の義理の姉・茉莉はやはりただ微笑んでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
体調不良でまず産婦人科に行く謎(笑)




