アクノジュウジカ
ねぇ、いつになったら奥さんと別れるの――
と、白いシーツを引き寄せながら奏子は言った。
「んっっ……あぁ――んっ?」
圭太はいかにも眠そうに欠伸をした。
「もうっ」
こんな時、決まって圭太は聞こえないフリをする。
奏子が圭太の妻に関する話題を振ると、必ず一度は聞こえないフリをするのだ。
「あぁ――あれね。分かってるよ、うん。分かってる」
奏子の引っ張ったシーツを掴むと、圭太は自分の身体に巻きつけるように手繰り寄せた。
奏子の手からするりとシーツが逃げると、白くて形の良い胸が露わになった。
「圭――――もう、知らないっ」
わざとらしくため息を一つ。
それを切掛けに、奏子はベッドを後にバスルームへと向かった。
自分が無茶苦茶な事を言っているのは良く分かっている。
なぜなら、圭太はまだ新婚三か月なのだ。
圭太が学生時代の友達から紹介された女と結婚したのは、今年のゴールデンウィークの事だった。
奏子もその式に、圭太の同僚として参列している。
純白の衣装に身を包んだ二人に向かい、ライスシャワーを浴びせ、披露宴では同期の仲間と、後輩として最高の祝辞を送った。
そう、笑顔と言う名の仮面で、軋らせる歯を隠して。
圭太の付き合いは、もう三年になる。
知り合ったのは奏子が入社してからだから、四年になるだろうか。
新卒で入社してからだから、奏子も今年の秋で二七歳になる。
圭太は二年上の先輩。
奥さんになった女も確か圭太と同じ歳のはずだ。
栄養系の女子大学を卒業し、食品衛生検査の会社に勤めるのが夢だった奏子にとって、毎日が楽しかった。
無論、仕事である以上、良い事ばかりではない。
時に失敗もし、上司にお説教をもらうこともあった。
それでも入社二年目で、ある大手アパレルブランドが飲食店事業に新規参入するに際し、店舗の設備状況や提供する食事に関する、衛生面におけるコンサルティングを受け持つチームの一員として抜擢された。
そこに、野口圭太がいた。
生来、人当たりがよく面倒見が良いのだろう。まだ新人で細かなミスの目立つ奏子を、圭太は優しくサポートしてくれた。
仕事が順調に進むにつれて二人の距離が近づき、より深く結びついていくのは、水が低きに流れるがごとく当然であった。
新規事業店舗の一号店が無事にオープンし、奏子たちの仕事も一段落するころには、いつしか二人は男女の仲になっていた。
だが、アパレルブランドの方では、この一店舗だけでは無く、飲食店事業の拡大を予定していた。
そのため奏子たちのチームも解散とはならず、軌道に乗るまで継続的に担当することになった。
そうなると、二人の関係をオープンにするわけにはいかず、チームを解散するまでは“秘密の恋”として、二人の胸の内に潜めたまま交際は続いた。
社内で秘密という事で、当然不都合もある。
それぞれが周囲に対し相手なしとの認識なのであるから、それなりにお誘いも少なくは無い。
圭太が合コンに誘われ出かけた――と聞けば心中穏やかでいられるわけも無い。
そんな時に、奏子にもお誘いが掛かれば、仕返しとばかりに合コンに参加することもあった。
そんな日々が続けば、奏子にしてみれば、心ならずも早急なるチームの解散を祈りたくもなった。
だが、そんな女心とは裏腹に、大手アパレルブランドの飲食店事業は順調に進み、圭太はもちろんの事、奏子自身の担当業務も日増しに忙しくなっていった。
気が付けば二人の関係を周囲に隠したまま、秘密の恋は三年が過ぎていた。
そんなある日――奏子は、同期入社の優菜から誘われ食事に出かけた。
入社から四年。
仕事もそれなりに憶え、面白さが分かってきた半面、責任も重くなってきた。
入社したばかりの頃は、よく二人で遊びに行ってストレスを発散したものだが、ここ最近はめっきりご無沙汰だった。
久々なのだからと、二人で一念発起。
奮発して高級フランス料理店なるものに二人は挑んでみることにした。
だが、分不相応。
慣れぬことはしないに限る。
経験がないわけではないが、マナー講座をググってサイトをチェックし、ドレスコードに気を使い、ばっちりと着飾って挑んでみたものの、緊張のあまりナイフは落とすし、ワインは零す。
子羊のローストは柔らかく極上……の筈が、味など全く分からず仕舞い。
デザートのケーキの甘さを、苦いコーヒーで流し込んで、奏子と優奈は逃げる様に店をでた。
わたしたちにはまだ早かった――と、OLにとって安くは無い授業料にため息を吐きながら、顔を見合わせて笑った。
口直しにと、二人は奏子の部屋で飲み直すことにした。
二人揃って、三本目のビールの缶を開けた時、
「ねぇ、野口先輩、結婚するんだって?」
優奈が探るように聞いてきた。
「――えぇ?」
奏子はビールを吹きだすのを必死で堪えた。
それは確かに、いつかは結婚をしたいと思う。でもその前に、今の仕事が一段落して、二人の関係を周囲に知らしめてからでなければ順番が違うだろう。
「おやぁ、どうした奏子ぉ――怪しいなぁ。さてはおぬし――」
だがなにより、まだ二人の間で具体的な話は何一つ出ていない。
仕事がやり難くなるから二人の事はもう少し秘密にしておいた方が良いと、つい先日も圭太が言っていたばかりだし――
「野口先輩から結婚の話、聞いていたんでしょ。あんたたち仲が良い見たいだもんね」
仲が良い?
そんな事は当然である。二人は付き合っているのだ。
だが……だからこそ、優奈の言葉は意味が解らなかった。
結婚――圭太が結婚――
優奈の口にした単語だけが、奏子の脳裏で虚しく響く。
「なにその顔。やっぱりあんただけは聞いていたんだ。みずくさいなあぁ。他人の幸せな恋バナは悔しいけれど、こちらにも話回してくれなきゃ」
笑いながら立ち上がると、優奈は冷蔵庫に向かった。
「なんかビールに合うものないの――」
知らない――
圭太が結婚?
誰?
あたしじゃ……ナイ――
手足の先が氷のように冷たくなった。
視界が真っ暗になり――
結婚結婚けっこん圭太けっこんけいたっこん誰?結婚?けいた?だれ?なに?どうしてなにが結婚けっこん圭太――――
「なによ、また賞味期限切れてる。この生ハム食べられないじゃん。あっチーズも。まったく奏子、あんたこんなんだと、いつまでたっても結婚なんか――あれ?奏子?かなこ?どうしたの――」
優奈の声だけが虚しく響く。
この夜の事は良く憶えていなかった。
次の日、会社に行くと、この話題で持ちきりだった。
祝福の嬌声の中心には、照れたような笑いを浮かべる圭太がいた。
結局、圭太の口から、言い訳らしい言葉を聴いた記憶も無い。
仕事にケリがつかないからとか、親が煩いからとか。
奏子が怒りもせず、問い詰める事もしないからなのか、ほんの僅かに困ったように苦笑しただけだった。
黙って聞いていた奏子が、背を向け立ち去ろうとしたとき、圭太が背後から奏子を抱き締めた。
「でも、俺が本当に愛しているのは奏子だけなんだ。それだけは信じてくれるよな」
奏子の髪に顔を埋める様にして、耳元で囁く。
ズルい――なんてズルいのだろう。
陳腐な言葉が、奏子の心の奥底を荊の鎖で繋ぎとめる。
こんな最低の男のズルい言い訳に――それでも奏子は呪いをかけられてしまったのだ。
「だ、大丈夫。あたしも圭太に言い出せなかったけど、他に男いたんだよね」
それが精いっぱいの抵抗だった。
良かった――と、離れ際に圭太の口からほっとしたような呟きが漏れても、奏子は荊の鎖を千切ることは出来なかった。
それから半年――
圭太の結婚式前もその後も、二人の関係は変わることは無かった。
仕事の流れで食事をし、時にはそのままホテルに行く。
休日にデートすることこそ無くなったが、考えてみれば結婚の話を聞かされる少し前から、こんなものだったような気がする。
そう考えれば、たいした違いは無いのかもしれない。
無神経でデリケートも無い圭太は、奏子に向かって新婚の惚気も愚痴も話す。
だからある日、奏子は圭太に向かって
「じゃあ、奥さんと別れてあたしと結婚してみる?」
などと、精いっぱいの強がりを言ってみた。
それは願望であり、祈りであり――奏子唱える精一杯の呪い。
「そうだな――それも良いかもしれないな。薫子より、お前の方が俺の事を良く理解してくれているもんな」
嘘だ――そんな事、分かっている。
いつもと同じ笑顔で奏子の髪をくしゅくしゅと撫でる圭太に、殺意すら覚える。
こんな事、言わなければ良かった。
そして同時に、奏子は自分の言葉で、荊の鎖をさらに巻きつけてしまったことに後悔をした。
「なぁ、そろそろ行くか?」
洗面台の鏡の前で髪を乾かす奏子に向かって、ベッドの上から圭太がのんきに声を掛けた。
圭太と共に大阪の出張から戻って、すぐにホテルに潜り込んだ。
二泊三日の予定で、アパレルブランドが新たに開店するカフェの打ち合わせに行き、東京に戻ったのは昼過ぎだった。
予定では夕方の新幹線で戻るはずであったが、思ったよりも早く仕事が終わり、昼前には新幹線に乗っていた。
そのまま大阪で過ごしても良かったのだが、奏子が帰る前にどうしても行きたいところがあると、すぐに東京に戻ったのだ。
奏子は、以前、二人でよく行ったバルにどうしても行きたかった。
チームに配属さればかりで張り切っていた頃、ささいな不注意からしでかした失敗に落ち込んでいた時、圭太が連れて行ってくれた店だった。
だが、東京に戻ったのが少し早すぎた。
変にうろついていて、会社の人間の眼にでも止まると厄介である。
店が開くまでの時間潰しと言い訳しながら、圭太の足はホテルに向かったのだ。
「何時になるの?」
鏡を見ながら髪をかき上げ、銀色のロザリオの鎖を止めた。
奏子は別にクリスチャン訳ではない。
ロザリオとは言っても、宝飾ブランドのもので、小さなダイヤが四つあしらわれたファッショナブルなものだ。値段も特別高いわけではない。
ただ、圭太が一番初めにプレゼントしてくれたものだった。
指輪では会社の人間にバレるといけないと、気を効かせてくれたのだ。
奏子はそのロザリオを手に取り、見つめた。
なぜだろう。あんなに輝いていたプラチナもダイアも、いつからかくすんで見える様になってしまったのは。
「おい、六時過ぎたぞ。そろそろ行かないと俺、時間が――」
圭太は新婚の家庭に、十時には帰ると言っていた。
「ごめん。直ぐしたくするから」
諦めたようにため息を吐き、奏子は振り返った。
その時――視界に流れる鏡の中で、暗く俯いた女の顔が奏子を睨んでいた。
それは圭太の妻――
いや、奏子自身の姿か……
「奏子。お前そんなネックレス持ってた?」
Vネックのブラウスの襟元で輝くロザリオを見て、圭太が意外そうな声を上げた。
「えっ?」
別に、今になって付けたのではない。この出張の間、ずっと身に着けていた。
久しぶりに圭太との出張だからと、わざわざ選んだのだ。
ため息とも微笑ともとれる吐息が、奏子の唇から洩れた。
「どうした?」
所詮、こんなものだ。
圭太にとって、奏子との思い出も関係も、所詮はこんなものなのだ。
暗澹とした重い足取りで、ヒールの踵が虚しく音をたてる。
こんなもの……
奏子は手の色が変わるほど強い力で、ロザリオを握りしめた。
どん。
と、圭太の広い背中に、奏子がぶつかった。
「痛っ」
「なにしてんだよ。店ココだろ」
どうやらいつの間にか、店の前まで来ていたらしい。
だが、奏子にはエビのアヒージョもビールもどうでも良かった。
到底、そんな気分になれなかった。
「なんだよ、開くの十時か――」
「……開いて無いの?」
店の扉には、都合により開店が遅れる旨が張り紙されていた。
「まだ三時間以上あるぞ!」
「あくの……じゅうじ……?」
圭太が舌打ちする。
だが、奏子の顔には安堵の色が浮かんでいた。
「どうするか?他行く――」
「あくのじゅうじか……」
ぽつりと、奏子が呟いた。
「えっ?」
「あたし帰るね」
「えっ?」
突然の事に慌てる圭太を置いて、奏子は歩き出した。
「さようなら」
奏子は鎖を引きちぎると、ロザリオを夜空に放り投げた。
この後、空腹で家に帰った野口圭太に襲い掛かる悪夢を、奏子が知ることはなかった。