女は怖いよ!
保健室から教室に戻った頼人は、五時限目を迎えていた。
内容は、後期の委員決めに取られたホームルームだった。
そして、いま教壇の前に立っているのは、教師でも、前期のクラス委員でもなく、転校生である坂村亜早紀。五時限目が始まってから、我が物顔で黒板の前を闊歩している。
そう、彼女は転校から数日にして、その本性を表したのだった。
「あの、坂村さん。そこで司会進行をするのは、僕の仕事だと思うんだけど……」
おずおずとした態度で確認する前期委員保田に、亜早紀は、
「大丈夫よ。私こういうの得意だから」
「ちょ、得意とかそういう問題じゃなくて、前期のクラス委員は僕だったから、司会進行は僕の最後の仕事……」
「それなら問題ないわ。後期のクラス委員は私がやるから、その後期の委員決めも私がやれば、円滑に進むでしょ? みんないい?」
亜早紀がクラス全員に呼び掛けると、みなノリも良く、一声に「おー!」と呼応する。
「ほら、解決」
そうして見せたのは、満面の笑みだった。稚さの残る美人顔か繰り出されたそれは、とてもとても可愛いもので、前クラス委員保田は真っ赤になって黙ってしまう。
「じゃあまず、保健委員から決めるわね。えーと、立候補したい人――」
控えめだった態度はどこへ行ったのかと疑問に思ってしまうほど、議題を饒舌にまくし立て、見事なリーダーシップを発揮する亜早紀。いままで大人しかったのは、転校間もなかったからだろう。初めからイケイケでは印象も悪いため、最初は静かにしておき、ここぞと言うときにクラスの主導権を取る、という彼女なりの戦法だったようだ。にしてはみな魔法にでも掛かったように亜早紀の言葉にノリノリだが――これがカリスマというやつなのだろう。
そして、その最初の犠牲者になったのが、
「ぼ、僕の立場って……しくしく」
保田くんである。かわいそうだが、坂村亜早紀は予想以上の手合いだ。涙を飲むしか道は残されていない。
亜早紀の進め具合が上手いからなのか、クラスの役職が次々と決まっていく。
普通クラスの役職決めなどは、あれやこれやと文句が噴出し、なかなか決まらないのが常である。だが、その例に反し、役職は瞬く間に埋まり、埋まらないところは亜早紀が黒板に書いたあみだくじを作り引かせ、どうしようか迷っているクラスメイトには、亜早紀が持ち前の笑顔で促す。そんな具合だった。
「――これでほとんど決まったわね」
「いや、まだだよ坂村さん!」
「何かあった? 保田くん」
「まだもう一人のクラス委員補佐を決めてない」
「それ副委員のこと? そっか。そうね」
「そうそう」
そうそうそうそうそう言って、何故かしてやったりといったドヤ顔をしている前クラス委員の保田。彼女の隙を見つけて、満足げなのだろう。誰も活躍したとは思ってないが。
「じゃあ私と一緒にクラス委員の仕事をするのは……そうね。前期で何の委員の仕事にも就いてなかった人、立って頂戴」
彼女はそう起立を促すが、しかし、ほとんどは前期に何らかの委員の仕事をしていたり、前期にやっていなかった者は後期の委員の仕事に納まっていたため、立ち上がらない。
結局前期も後期もまだ何もしていないのは、ただ一人で――
「あら、お隣のひとって奇遇ね。水下くん」
「ああ、そうだな」
「そうね……あ」
そこで何かに気付いた亜早紀は、ポンッと手を叩く。そして、彼女は何故か嫌な予感がする笑みを作り出し、不気味に目を光らせた。
そう言えば休み時間の前に、彼女とは一悶着あった。
それが頼人の背中を粟立たせる。彼女は変わらず笑顔。しかし、頼人にはその笑顔の下に、言い知れない裏があるように思えた気がした。
「そっかー。水下くんかー。うん、席も近いし、ちょうどいいわね。じゃあ水下くん、私と一緒にクラス委員をやりましょう」
正確には委員補佐だが、仕事が同じゆえ代わりあるまい。だが、頼人は少し困ったように、
「えーと、俺さ。あんまり居残れなくて」
「何かあるの」
「病院通いなんだ。結構な頻度で」
「そうなの? でも、毎日じゃないんでしょ?」
「まあそうだけど……」
「ならいいでしょ? クラス委員の仕事は毎日あるわけじゃないし、できないときは私があなたの分をカバーするわ。私ができない時もちょくちょくあるから、その時は逆にカバーして欲しいけど」
「いや、でもさ」
「でも、なに? そんなに食い下がらなきゃいけない?」
「…………」
「水下くん。クラスの役職は、誰かが必ずやらなきゃならないの。前期やってなかったあなたが後期もやらないのは、不公平でしょ?」
「まあ、それはたしかにそうだけど」
「そうなの! そして、余計なお世話かもしれないけど、あなたはもっと能動的に活動したほうがいいわ!」
「……俺はいいんだよ。別に」
頼人がどこか気落ちした態度でそう言うと、亜早紀はぷくっと膨れだ出した。
そして、機関銃の如くまくし立てる。
「もう、そんなにごねなくてもいいじゃない。やるったらやるの! いい? いいわね? これで決定!」
「へ? いや俺はまだやるなんて一言も言ってない……」
「先生。これで全部決まりました。あとお願いします」
亜早紀は頼人の言い分を取り合わず、さっさと担任に放り投げた。
担任はそれに異議を唱えることもなく了承する。
頼人が呆気に取られて立ち尽くす一方、役員決めが終わったことにより、亜早紀が席に戻ってきた。
一仕事終えたと言うような満足げな顔をしている彼女に、頼人は恨めし気な視線を向ける。
(……これは、さっきの借りってことか?)
(いいでしょ? ね? 私もあまりあなたに負担掛からないようにするから。 お願い)
(……お、おう)
可愛い女の子に上目遣いされるのに弱いのは、頼人も同じだった。
>>>>>>>>>
学校からの帰り道、いや、病院への通い道を、頼人は坂村亜早紀の上目遣いにやられたのを後悔しながら歩き、伯耆心療内科に。
やがて到着し、愛宕摩耶からいくつか問診を受けたあと、彼女が診察室の奥から何やら不吉なものを持って来たのが見えた。
「……先生、また採血ですか」
「そう、週に何度かのお楽しみね」
「俺は楽しくなんてありませんが」
「私はすごく楽しいわ」
と言って、にこにこ顔の蒼髪の女医。他人の血を抜くことのどこに脳内麻薬が分泌される余地があるのだろうか。甚だ疑問である。
うるるんだ唇に細く長い指を当て、どこか上気した笑顔。口もとのほくろが、彼女の妖艶さに拍車をかけている。
そんな摩耶の艶っぽい笑顔に、悪魔の笑顔を重ね合わせながら、頼人はお決まりのため息を吐いた。
「採血管の四、五本分も血を抜くと調子悪くするんですよ。というか数からしてあり得ないし」
「それでもよ。頼人君の血はおい……」
「おい?」
「――さぁーて、今日は先にカウンセリングをしましょうねー」
あからさまに視線を逸らし、失言を口にしかけたことを態度に表す摩耶。そんな彼女の反応に、言い知れぬ危機感を覚えた頼人は前のめりになって問い詰める。
「ちょっと先生いま何言いかけた? 俺すっげぇ気になるんだけど」
「ねえねえねえ、頼人君、最近地獄に行く悪夢ってどう?」
「話を逸らさないで欲しいんですが」
「どうなの?」
結局、笑顔で誤魔化し通すらしい。しかも守備は鉄壁だ。閂を折り門を破壊する破城槌を持ち合わせない頼人は、諦めて彼女の質問に答える。
「……今日もそうでしたよ。寝たらすぐ、向こうでした」
「あらあら。毎度毎度大変ね。ところで、頼人君は地獄に行くとどうしてるんだっけ?」
「いろんな奴から逃げたり逃げたり逃げたりします。ごくまれに罪人とか餓鬼とかも襲ってきますね」
「餓鬼ね。あれでしょ、たんぱく質の欠乏で起こるクワシオルコル病を発症してるやつ。おなかがおっきくなって、毛髪が抜け落ちて、三十六種類いるって言う」
「詳しいんですね」
「あら、頼人君が地獄っていうから、先生これでも調べてるのよ?」
すごいでしょー、えっへん。そんな態度を見せる摩耶。そういうのが、可愛い仕草なのか。
「でも、まあ実際餓鬼なのかどうかほんとのところ分からないですよね。違うのもいますし」
「普通地獄ってそっちが主流なんじゃないの? 悪いことした人たち……餓鬼もだろうけど」
「ですけど、でも俺が行くところは罪人だけじゃなくて餓鬼ばっかりなんです。たぶん罪人も餓鬼みたくなってるだけなんだと思いますが」
伝えられる話では、餓鬼は普通三悪道に分類される餓鬼道にいるもので、地獄にいるのは他の亡者罪人だ。だが、頼人の行く地獄では、それがごっちゃになっている節がある。
「おかしな話ね。まあ文献を漁っても色々交ざってるから、確かなことは言えないわけだけど」
「罪人イコール餓鬼っていう図式が、小さい頃から俺の中で成り立っているので、いまもそういう風に見えているのかもしれません」
「あら哲学的な話。イデアとかエイドスとかのお話なら先生張りきっちゃうわよ?」
「そういう頭が痛くなる話はしません」
「えー。お話しを振ったのは頼人くんでしょー?」
と、ブー垂れている愛宕摩耶。だがやはり医者の本分はちゃんと弁えているらしく、すぐに元の話に戻す。
「餓鬼とか襲って来るって言ったけど、どうなの? 金棒持って、わーって追いかけてくる獄卒なんかより強いの?」
「大半は弱っちいのばっかりで襲ってなんて来ないんですが、中にはとんでもないものもいます」
「どんなの?」
「ジンツ――不思議な力を使う餓鬼とか、生前バカみたいに強かった餓鬼とか」
「そういうのって、地獄にいないんじゃない?」
そうだ。書物などを調べれば、そう言った餓鬼は地獄と呼ばれる場所には出てこない。いわゆる阿修羅道に現れる『争いを長い期間続けさせられる定めを持った者たち』だ。
というか先ほどの餓鬼云々の話もそうだが、この女医は何でこんなに詳しすぎるのか。
「……よく思うんだけどさ先生。本当に精神科医なんですか?」
「精神保健指定医の資格も医師免許もあるよ?」
「先生若いでしょ?」
「信じられない? これがその証明」
そう言って、ガラス戸の付いた棚から一枚の証明書を取り出す摩耶。証明書をそんなところに無造作に置いておくのはどうかと思うが、おそらくこの女医には普通とか自分たちの持つ常識は通用するまい。
よく見るために受け取ると、何故か無性に折り曲げたくなった。
「えい」
ぐにっと、折れ目が付かない程度に曲げてみる。
「ちょっと!? 何してるの!?」
「ああっ! すいません。これ見てたらちょっと鬱になってつい」
「頼人くんはもっと採血した方がいいわね。腕を出しなさい。今日は採血管十本くらいチャレンジしましょうか」
「すいませんごめんなさい許して下さい先生」
摩耶に平謝りする頼人。この女医にこの手の冗談を言うのは、命を賭けなければならないらしい。
摩耶が証明書を戸棚に戻すと、にこやかな顔から一転、真面目な医者の顔になる。
「本当頼人くんは心に病を持っているような人間ではないわね。健常者よ」
「俺もそう思います」
「ただ一点、地獄に行くって虚言を執拗に吐くだけだけど」
「中二病と言いたければどうぞ仰って下さい」
「ううん、いいのよ。歳を取ってから枕に顔を埋めて恥ずかしがればいいじゃない」
「本当そうだったらどれだけいいか」
頼人は盛大なため息を吐く。あれが妄言であれば、ここまで大事にはするはずもない。これのせいで死ぬような思いをしたり、家族の絆もズタズタなのだ。そんな不利益自ら進んで被るほど、おかしな性格はしていない。
すると、摩耶が疑問をぶつけてくる。
「地獄に行くって言ってるけど、どうしてそんな表現なの? 普通なら、『地獄に行った夢を見る』が適切だと思うけど」
「そりゃあ、リアリティがありすぎるからですよ」
「リアリティって? 感覚が残ってるとかは、信じるに足りないけど?」
「……まあ、いろいろですが」
とは濁したものの、頼人がリアリティと言ったのには理由がある。
あれがもし全て夢だというのなら、地獄で覚えたものの感覚や、その経験は身につかないはずなのだ。夢だとすれば感覚などという頼りないものは、一日二日すれば忘れてしまうのが当たり前なのだから。
だが、亡者獄卒の動きに慣れ切った頼人の目は、集中さえすれば現実を生きる人間の動きが遅く見えるし、何より、頼人は地獄で培った動きを現実世界でも再現できる。あれが夢であるなら、それはおかしいことであるし、そのおかしいことが現実であるなら、自分は実際に地獄での出来事を体験しているということになる。
頼人は言葉に詰まったが、摩耶は追及しなかった。追及して追い詰めるのが、精神科医の仕事ではない。
「頼人君。あなたはそれで合理的だと思って、納得してるの?」
「どうなんでしょうね。こればっかりは俺の推測でしかないので」
「ふぅん」
頼人は絶対にそうだと口にしない。それを彼女は変に思っているゆえ、否定しきれないのかもしれない。