校舎裏での戦慄
校舎裏にある焼却炉の前で、頼人は数人の男子生徒に取り囲まれていた。
目の前にいるのは、隣のクラスの吉井という男子生徒。表面上は素行がいい振りをしているが、裏では取り巻きを引き連れて弱い者いじめをするという最悪な男だった。
見た目は人懐っこく、優等生を地で行く顔で、まるでそうとは思えないが。
校舎の白壁に追い詰められたように立つ頼人に、吉井が貼り付けたような笑顔を見せる。
「水下くん。お金が欲しいんだ。少し融通してくれないかな?」
「悪いけど持ってない」
「そこをなんとか。こうやってお願いしてるんだしさ、少しはかっこいいところ見せてくれないかな?」
最初は慇懃なのが、吉井のやり口である。取り囲んでお願いとは、物騒なお願いの仕方もあったものであるがと言いたいが、ここはそうではなく。
「ないものはないんだ。自分で何とかしてくれよ」
「こんなに頼んでもだめかな?」
頼む声は、猫なで声だ。一方、後ろの取り巻きは話が進まないことに苛立っているようで、足を揺すったり、首を動かしたりして暇を誤魔化している。
そんな彼らに頼人は聞こえよがしにため息を吐いて、挑発する。
「なんだ。最近ある都市伝説でも信じてみたらどうだ? 地下鉄四方四条駅のどこかに宝の山があるって。それを見つければ、相当な金が手に入るって噂だぜ?」
むっつりとした頼人の態度に、吉井の顔色がわずかに変わる。
「君は僕を馬鹿にしてるのか? そんなことあるわけないじゃないか」
「そんなの、調べてみなけりゃわから――」
ずん。言いかけた折、腹に衝撃が走る。吉井に腹部を殴られた。
「つっ――」
「困ってるって言ってるだろ? 助けてくれよ」
「金持ちの息子のクセに金に困ってるってのは、皮肉なもんだな」
「っ、黙れよ」
吉井は軽口を止めない頼人の胸倉を掴み上げる。そして、先ほどの態度とは打って変わって悪辣な剣幕をあらわにした。
「水下。つべこべ言わず出せばいいんだよ。今日は気分が良いからやさしくしてやろうと気を回してやったんだ。僕の好意を無駄にするつもりかよ?」
「化けの皮が剥がれるのが早いな」
顔に嘲笑を浮かべると、吉井に頬を拳で殴られる。
拳を頬骨に振るったため痛かったらしい吉井は、痛みを散らすように手をひらひらとさせ、やがて後ろに控えた取り巻き立ちに合図を送る。
取り巻きたちが、銘々拳を鳴らし、群がってきた。すぐに、彼らの手や足が頼人に向かって飛んでくる。
「っ…………」
頼人は繰り出される手や足に対し、顔を庇うようにして堪える。ひとしきり暴力が振るわれたあと、また吉井が合図を出した。
一旦下がる取り巻き立ち。
「どうだい? 気が変わったんじゃないかい?」
「まったく」
頼人が舌を出すと、しびれを切らした吉井が凄みを利かせ、語気を荒らげる。
「いい加減に出せよ! 出せないんだって言うんだったらな」
「――言うんだったら、どうしたって?」
「え――?」
ふいに、吉井が間の抜けた声を上げる。それがまるで意外な言葉でも聞いたかのようだったのは、彼の脅しの言葉に答えたのが頼人ではなかったからだ。
しかして吉井たちの後ろにいたのは、頼人の友人、胆沢塁であった。
「塁……」
「い、胆沢」
「なあ吉井、さっきの話、俺にも聞かせてくれよ。随分と面白そうな話をしてただろ?」
静かな鬼気を発して迫る塁に、吉井とその取り巻きたちが後退る。先ほどまで振りかざしていた威勢は一体どこへ行ってしまったのかと問いたくなるほど、彼らは塁に対し慄いていた。
吉井が塁に上擦った声で答える。
「いや、その、水下くんにお願いがあってさ」
「へぇ、頼人にお願いね」
「あ、ああ……」
「頼人にお願いするのか構わねぇが、まず先に俺のお願いを聞いてくれないか? いま唐突にお前らに頼みたいことが出来たんだ」
「それは」
「そんなの、俺のストレス解消に決まってるだろ?」
そう言って、塁は拳をぽきぽきと鳴らす。先ほどから辺りに充満している塁の凄みが、一際強くなった気がした。
「ひ――」
その気配に当てられたか。吉井の悲鳴を皮切りに、彼とその取り巻きたちは、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していった。
腕っぷしの強い塁には、こんな連中何人いようとものの数にもならないのだ。
頼人は逃げ出した吉井たちを尻目に、制服の崩れを直して、改めて塁に謝罪する。
「いつも悪い……」
「そう思うんなら、反撃の一つや二つしろよ。お前だって手や足くらいあるだろうが」
「大勢に囲まれると、怖くて動けなくなってさ」
少しだけおどけ混じりに言うと、塁は呆れたような顔をする。
「どうせ殴られるんなら、変わらねぇだろうが。やけくそになって反撃してりゃあ、アイツらもうんざりして反撃なんてしてこねぇよ」
「それでも、さ」
そう、それでも自分は彼らに反撃してはいけないのだ。
だがそんな言い訳で納得のいかない塁は、今度こそしびれを切らしたのか――
「何がそれでもだよ」
「塁?」
彼の静かな声音が聞こえたかと思うと、にわかに空気が重みを増すような感覚が身を襲った。その何とは言って能わない力の出どころは、おそらくは目の前の男、胆沢塁。
別に何が起こったわけでもない。閻羅人のようにジンツウを使ったわけでもない。ゆえにこれはただの凄みだ。だがその程度は、先ほど吉井たちに向けた凄みなど比べ物にならないほど。まるで視線だけで殺されるのではないかと錯覚してしまう。
気の良い友人が、まさかこんな、あの男が向けてくるような気を放つとは――
地獄に行き続けていた賜物か、それとも副作用か。頼人の身体が反射的に引き締まる。
普通の者ならば腰を抜かしてしまうだろう塁の眼光を真っ向から受け止め、その一挙一動を見逃さないと言うように、観の目を強くする。
しばらくすると、ふいに塁が凄みを霧散させ、大きなため息を吐いた。
「……何が『怖くて動けなくなる』だよ。怯えてるヤツのする顔かそれが? それでも殴られてるって、実はお前マゾなんじゃねぇの?」
「違うって、そういう人聞きの悪いのは止してくれ」
「じゃあなんだよ?」
「……いろいろあるんだ。いろいろ」
「しょうがねぇやつ」
どうしようもない頑固者の説得を諦め、背を向ける塁。ふと見た彼の背中は、相変わらず広かった。
「…………」
塁には、以前にも吉井たちから助けてもらったことは何度かあった。連れ立っているのを見咎めた場合や誰かから聞いた場合などと状況によって様々だが、追っ払ってもらったことは多々ある。
そして場当たり的な解決でなく、根本的な解決を目指すべく、塁から担任に掛け合ってくれたこともあるそうだが、未だに状況は変わってはいない。どうやら吉井の父が市の方に大きなコネを持つ人間らしく、担任はことなかれと保身に走っているのだろうと思われた。
ふと、頼人は気になったことを口に出す。
「塁。どうしてまたこんなところ通り掛かった」
「これ買いに行ったら、お前が吉井たちと連れだって歩いてたって話を聞いてな。十中八九いつものだろうと思ったわけだ」
そう言って彼が掲げて見せたのは、売店で売っているクリームパンだった。
「なるほど。しかし好きだなそれ」
「おう、やっぱパンと言えばこれだろ」
そういて、嬉しそうな顔をして、プラプラと振って見せる塁。そのよくある菓子パンのパッケージ内には、真っ白に加工された半液状のカスタードクリームとホイップクリームがたっぷりと中に入ったまんまるのパンが二つ、入っている。甘くておいしいと、甘いもの好きにはそこそこ評判だ。
歩き出そうとする塁に先んじて、頼人は前に行く。
「俺、保健室寄ってから行くよ」
「おう」
塁の返事を聞いて、頼人はその場をあとにする。地獄を行ったり来たりしているせいかやたら頑丈ゆえ、手当てを受ける必要もないのだが……まあポーズだけは取っておこうというところであった。
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頼人を吉井たちから助け、彼の背を見送った塁は、自分も教室へ戻ろうと歩き出す。
そんなときふと、彼は近くの木陰に誰かしらがいることに気が付いた。
吉井の取り巻きでも残っていたかと思い、足もとの小石を木に向かって蹴りつけると、覗いていたらしい誰かが姿を現した。
茂みを騒がせ出て来たのは、頼人や塁のクラスメイトである――
「……次原じゃねぇか。お前、どうしてこんなところにいるんだよ」
「別に、ぼくがどこにいようとぼくの勝手だ」
返されたのは、そんな素っ気ない言葉。こんなタイミングでこんな場所にいるなど随分と怪しいが、答えるつもりはないらいしい。
塁が目を細め、不審の視線を向けていると、突然奈津が訊ねてかけくる。
「胆沢。お前はどうしてあんな奴を助ける?」
「ん? あんなヤツって誰のことだ?」
そんな物言いが当てはまる相手など自分には心当たりがないととぼけた塁は、欧米人のように大仰に肩を竦め、少しおどけてみせる。
しかし奈津は大真面目に、むっつりとした態度で答えた。
「水下のことだ」
「……ふん。あんなヤツとは随分な言い草だな」
「水下のような男にはそれで十分だ」
「そうか? あいつ結構いいヤツだぜ? いつもは教室の隅っこで大人しくしてるが、話してみると意外とノリもいいし思ったより明るい。お前も目の敵にしてるだけじゃなくて、何か世間話でもしてみろよ。もしかしたら気が合うかもしれないぜ?」
「必要ない」
「さいですか」
やはり、取り付く島もない奈津。すると彼は、先ほどの質問に答えていないのが落ち着かないらしく、
「胆沢、いい加減ぼくの質問に答えろ」
「なんだ。頼人のことなんどうでもいいくせに、それでも答えなきゃいけないのか?」
「答えろ」
「――お前、俺に指図するのかよ?」
そう言って、塁は先ほどのように凄みを利かせる。度合いはまだ、吉井たちを追い払ったとき程度。だが、普通の相手ならばそれで十分、怯むはずである。
しかしそんな殺気交じりの気配も奈津には効果がないらしく、鋭い眼光が返ってくる。
「ぼくを吉井たちと一緒にするな。そんなものでぼくが気後れするとでも?」
「そうかよ。おもしろくねぇな」
塁は不満そうに鼻を鳴らして、威圧するのを止めた。しかして、奈津が再度口を開く。
「それで?」
「あいつを助けるのは、俺の勝手だ。お前がここにいるのと同じでな」
「また同じようなことになったら、お前は助けるのか?」
「悪いか?」
「悪くはない、が」
「なんだ? 何が不満だ?」
「いつまで徒労を重ねるつもりなのかということだ。あの男は現状を自分で変えようともしない男だぞ? そんな男を助けて、なんになる?」
「…………」
その問いに、塁は答えなかった。なんになるかと問われれば、損得で動いているわけではないと返す答えもあるのだが、ここでそれを言う必要性を感じなかった。
次原奈津。よく言えば真面目で、悪く言えば頭が固い、そんなクラスメイトだ。ぶっきらぼうだが、実は根はお人よし。今の発言でもわかる通り、不器用な忠告してくるのだから間違いはない。
ゆえに、そんな男が何故――
「お前、なんでそんなにアイツに食って掛かる」
「別に、ぼくはあの男が気に食わないだけだ。ああやって悪い状況を自ら変えようとしない奴がな。男子なら、どんなときでも戦うべきだ」
「…………いまどき聞いたことねぇすげぇ古風な考え方だなそれ」
「ぼくの勝手だ」
そういってむっつりとする奈津。背を向けた彼に、塁は苦言を呈する。
「……それはそうと、お前、見てたんなら何で助けてやらなかったんだ? 別に助けるつもりがなくても、先生呼ぶくらいはいいじゃねぇか?」
「あの男は助けても意味がないと言った」
「ふぅん? まあいいが……」
と、塁は息を吐く。そして、何かに気付いたか、顔を上げた。
「あ? 助けても意味ないって、お前、もしかして……」
「前に吉井たちは三度ぼくが追い払った。だがあの男は変わろうとしなかった。だから意味がない」
そう言い捨てて、次原奈津は去っていった。
「お前じゃあなんでこんなとこにずっといたんだよ……」
塁はそう、曲がり角に消えた背中に向かって言う。無論返事は来ないが、まあ堅物のお人好しということで納得しておくことにした。
そして、手に持った菓子パンのパッケージを開けてパンを取り出し、かぶりつく。
「――まあ、俺はおもしろいモンが見れたから、どうだっていいんだがな」
そう言って、塁はらしくない獰猛な笑いを口の端から漏らしたのだった。